大工町は、遠野市役所の西約500mのところ市街地の中です
市役所南側の仲町通りを西北西へ進みます、約300mで丁字路を左へ曲がると
右手(西側)に善明寺の参道が東南東向きに開いています
参道南側の参拝者用駐車場に車を止めさせて頂きました
説明版です
金光山 善明寺
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
12世紀末、養安上人により遠野松崎に養安寺が開山。浄土宗開祖法然上人の直弟子、金光上人により開基された。
善明寺は最初、八戸に文録元年(1592)善明上人により開山されたが南部氏が遠野に移るのに伴い、2世欣霊が養安寺32世に入り寺を合併した。
その後、遠野城下形成のため延宝7年(1679)現在地に移転、山号寺号を入れ替え現在に至っている。
本尊の阿弥陀如来は平安時代末期の作といわれ、市の文化財に指定されている。また、金光上人ゆかりの天狗の牙や正牛坊の角、猩々の払子が伝わっている。
山門の中、左側の五輪塔は鎌倉時代のもので、当地方最古のものであり、市の文化財に指定されている。
本堂には、江戸時代末から明治時代にかけて描かれた供養絵額が奉納されている。反対側には養安寺跡から移植した樹齢800年と推定されるイチイの古木があり、市の天然記念物に指定されている。
文化財説明版です
遠野市指定有形文化財(彫刻)
阿弥陀如来坐像 昭和58年5月20日指定
善明寺は天正年間(1573~1592)、遠野南部氏が八戸地方を領していた頃、第19代直栄公が良恵善明和尚に帰依し、文禄元年(1592)南部家守護寺として善明寺を草創したことに始まる。
第22代直義公の時、八戸から遠野に入部した際直義公に従い、当時無住寺となっていた養安寺(松崎町元松崎地内)に入り、明暦2年(1656)現在地に移った。
この阿弥陀如来坐像は、善明寺の本尊である。
像高46.5cm、一木造・彫眼の像で、膝前部材、右肩下から地付きに至る材、右肘から先の材等を矧付けている。頭体部の根幹材のみが当初部材で、近世に大修理が施されている。
如来の通形にほぼ順じるもので、肉髻を作り、大衣を着けて、腹前で弥陀の定印を結び、結跏趺坐する。
制作年代は、その様式が概ね平安時代中期頃のものを用いているので、その頃を上限して考えられる。遠野市内に現存する仏像の中でも古いものの一つと考えられる。
現在地に寺院を建立移転する際に、従来より養安寺にあったものをそのまま移し、本尊として安置したものではないかと推測される。
遠野市指定有形文化財(彫刻)
阿弥陀如来坐像 平成2年8月10日指定
善明寺の持仏堂の本尊として祀られている。
阿弥陀如来は、念仏を行う者は必ず極楽浄土に往生させる仏として、盛んに信仰された。
この阿弥陀如来坐像は、像高52.7cm、寄木造・割り首・彫眼の像である。木寄せは根幹材を前後二材とし、その間に後補の補材を挟み込んでいる。
左は肩から地付まで、右は肩より先を別材とし、膝前部材、右腰の三角材を矧いでいる。如来の通形にほぼ準じる。
肉髻相を表し、螺髪は切り付け、肉髻珠を付け、白毫を付ける。彫眼で、耳朶は不環。三道を彫出し、大衣を偏袒右肩に着ける。腹前で弥陀の定印を結び、右足を前にして結跏趺坐する。ほぼ当初の姿をとどめているが、彩色はすべて後補である。
藤原時代の典型的な様式である定朝様式の阿弥陀像で、当地に残る本格的な藤原彫刻として、優れたものである。
細かい螺髪の彫り出しや、伏し目がちな目の感じ、それに繊細な衣皴槢の彫刻の仕方などは、定朝様式の基本に見事にそったもので、その制作年代は12世紀ころ(平安時代後期)と考えられる。
県内の定朝様式の作品としては、中尊寺の金色堂の諸像が最も有名で、そのほかに本格的な作品は少なく、貴重な存在である。
遠野市教育委員会
山門です
山門を潜ってすぐ右手に目的のイチイです
綺麗に刈り込まれて整えられています
天然記念物標柱です
北西側から見ました
本堂です
では、次へ行きましょう
2024・10・18・13・25
市役所南側の仲町通りを西北西へ進みます、約300mで丁字路を左へ曲がると
右手(西側)に善明寺の参道が東南東向きに開いています
参道南側の参拝者用駐車場に車を止めさせて頂きました
説明版です
金光山 善明寺
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
12世紀末、養安上人により遠野松崎に養安寺が開山。浄土宗開祖法然上人の直弟子、金光上人により開基された。
善明寺は最初、八戸に文録元年(1592)善明上人により開山されたが南部氏が遠野に移るのに伴い、2世欣霊が養安寺32世に入り寺を合併した。
その後、遠野城下形成のため延宝7年(1679)現在地に移転、山号寺号を入れ替え現在に至っている。
本尊の阿弥陀如来は平安時代末期の作といわれ、市の文化財に指定されている。また、金光上人ゆかりの天狗の牙や正牛坊の角、猩々の払子が伝わっている。
山門の中、左側の五輪塔は鎌倉時代のもので、当地方最古のものであり、市の文化財に指定されている。
本堂には、江戸時代末から明治時代にかけて描かれた供養絵額が奉納されている。反対側には養安寺跡から移植した樹齢800年と推定されるイチイの古木があり、市の天然記念物に指定されている。
文化財説明版です
遠野市指定有形文化財(彫刻)
阿弥陀如来坐像 昭和58年5月20日指定
善明寺は天正年間(1573~1592)、遠野南部氏が八戸地方を領していた頃、第19代直栄公が良恵善明和尚に帰依し、文禄元年(1592)南部家守護寺として善明寺を草創したことに始まる。
第22代直義公の時、八戸から遠野に入部した際直義公に従い、当時無住寺となっていた養安寺(松崎町元松崎地内)に入り、明暦2年(1656)現在地に移った。
この阿弥陀如来坐像は、善明寺の本尊である。
像高46.5cm、一木造・彫眼の像で、膝前部材、右肩下から地付きに至る材、右肘から先の材等を矧付けている。頭体部の根幹材のみが当初部材で、近世に大修理が施されている。
如来の通形にほぼ順じるもので、肉髻を作り、大衣を着けて、腹前で弥陀の定印を結び、結跏趺坐する。
制作年代は、その様式が概ね平安時代中期頃のものを用いているので、その頃を上限して考えられる。遠野市内に現存する仏像の中でも古いものの一つと考えられる。
現在地に寺院を建立移転する際に、従来より養安寺にあったものをそのまま移し、本尊として安置したものではないかと推測される。
遠野市指定有形文化財(彫刻)
阿弥陀如来坐像 平成2年8月10日指定
善明寺の持仏堂の本尊として祀られている。
阿弥陀如来は、念仏を行う者は必ず極楽浄土に往生させる仏として、盛んに信仰された。
この阿弥陀如来坐像は、像高52.7cm、寄木造・割り首・彫眼の像である。木寄せは根幹材を前後二材とし、その間に後補の補材を挟み込んでいる。
左は肩から地付まで、右は肩より先を別材とし、膝前部材、右腰の三角材を矧いでいる。如来の通形にほぼ準じる。
肉髻相を表し、螺髪は切り付け、肉髻珠を付け、白毫を付ける。彫眼で、耳朶は不環。三道を彫出し、大衣を偏袒右肩に着ける。腹前で弥陀の定印を結び、右足を前にして結跏趺坐する。ほぼ当初の姿をとどめているが、彩色はすべて後補である。
藤原時代の典型的な様式である定朝様式の阿弥陀像で、当地に残る本格的な藤原彫刻として、優れたものである。
細かい螺髪の彫り出しや、伏し目がちな目の感じ、それに繊細な衣皴槢の彫刻の仕方などは、定朝様式の基本に見事にそったもので、その制作年代は12世紀ころ(平安時代後期)と考えられる。
県内の定朝様式の作品としては、中尊寺の金色堂の諸像が最も有名で、そのほかに本格的な作品は少なく、貴重な存在である。
遠野市教育委員会
山門です
山門を潜ってすぐ右手に目的のイチイです
綺麗に刈り込まれて整えられています
天然記念物標柱です
北西側から見ました
本堂です
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