氷川神社境内を見て回って、氷川神社社務所前に戻って来ました
気になっていた、参道西側の明治天皇が氷川神社に行幸された時の様子を描いた巻物の説明版を見て行きましょう
全体を見る事はできませんので、右側から見て行きましょう
一番右側です、まだまだ丁髷の8名に菅笠12名の二本差し、そして洋装の人物その後ろに、鉄砲を担いだ人達です
明治天皇と氷川神社御親祭
明治天皇は嘉永5年(1852)9月22日(新暦11月3日)に、孝明天王の皇子として御誕生になりました。
慶応3年(1867)1月9日践祚の儀が行なわれ、慶応4年(1868)8月27日、百二十二代天皇の即位の大礼が行なわれ、翌月元号が「慶応」から「明治」に改められました。
同年9月20日に天皇は東京行幸(東幸)に京都を御出発なさり、10月13日江戸城に御着輦になり、新たに東京が都に定められました。10月17日、当氷川神社を当国の鎮守・勅祭の社と定める勅書を賜りました。
勅書は漢文ですね~読めません
続きです、鉄砲を担いだ人物が続きます
東京御着輦からわずか半月後の10月28日には氷川神社に御親祭(御自ら祭祀を御奉仕する)あらせられました。御東幸後、直ちに氷川神社御親祭が仰せ出だされたことは、「神祇を尊び祭祀を重んずることが皇国の大典であり、政教の基本である」という事、この近代日本の国づくりの大方針を明治天皇御自から氷川神社より全国へお示しなされたものです。
明治3年11月1日には再度の御親祭、明治11年8月31日には三度目の行幸あらせられました。御親祭以後、例祭には勅使参向の上、東遊の御奉納が永例として今日まで続いております。この間、明治4年5月14日に氷川神社は官幣大社に列格されました。
明治の御代になり、それまで鎌倉・室町・江戸と七百年近く続いた武家政治から日本は一大転換期を迎え。明治天皇は国内的にも国際的にも舵取りの難しい時代に、日本の近代化を導かれました。
王政復古の大号令が発せられ、改革の精神は初代神武天皇の建国の精神に定められました。五箇条の御誓文を布告され、御自から新国家建設の指針を天神地祇に誓われました。明治5年から18年にかけて天皇は日本全国を六度に分けて御巡幸なさり、その先々で孝子節婦の顕彰が行なわれ、高齢者および災害による生活困窮者に対する御下賜金が施されました。
続いて、鉄砲隊に囲まれて天皇旗です
明治22年には大日本帝国憲法が発布されて明治維新の総仕上げとなりました。明治23年には教育勅語が発布されました。これは、我国の道徳の基が悠久の歴史の中にあると説き起こし、父子・兄弟・夫婦・友人間の人倫、謙遜、博愛、修学、遵法、義勇、奉公などの教えを示し、御自ら国民とともに実践しようとする念願で結ばれています。
明治27年には日清戦役が、明治37年には日露戦役が勃発し、この未曽有の国難を乗り越えられました。
明治45年7月初旬、俄に御体調を崩され、全国民の祈りも空しく、7月30日天皇は御年59歳で崩御あそばされました。
明治天皇の御聖徳をお慕いして神宮創建を望む全国民の声が沸々と湧き上がり、大正4年6月には明治神宮奉賛会が発足し造営事業が始まり、大正9年(1920)11月1日明治神宮が創建されました。
続いて、鼓笛隊そして馬上の人物は西郷隆盛でしょうか
「氷川神社行幸絵巻」
氷川神社行幸絵巻は川越氷川神社の祠官山田衛居が画いたもので幅37.5cm、長さ13.7mに及ぶ絹本着色の絵巻で、明治天皇行幸の御列が兵隊あり與丁あり公達あり、その服装も洋服・衣冠・直垂等さまざまで時代の色を示しており、歴史的・風俗的・儀典的に意義が認められ、昭和39年埼玉県指定文化財となりました。
この行列は10月27日に皇居をご出発、28日に氷川神社に御到着したものですが、その距離は1kmに及んだと言われ、衛居は筆と障子紙を手に御列をつぶさに見学、御列と共に歩きながらスケッチしました。
冠をかぶる狩衣の20人に担がれた鳳輦を中心に、前後に衣冠装束の6人の騎馬重臣たちや、長烏帽子に狩衣、編笠に羽織袴の俱奉の人々がびっしりと並び、大久保利通、中山忠能、西郷隆盛、植松雅言、徳大寺実則の重臣が御列に加わり、その前後に天皇旗と第一大隊旗たてた近衛砲隊と鼓笛隊を配し、総勢540人を越える壮観さでした。
当日は二十里(約79km)四方から数万人の参拝者があり、その有様は筆舌に尽くし難いと言われました。
続いて、赤い衣冠の人物の騎馬2頭、周りは和装の人物、カバーの付いた長物は槍でしょうか
氷川神社行幸絵巻の作者である山田衛居は嘉永2年(1849)9月15日、北足立郡木崎村(現さいたま市)の石田彦兵衛の長男として生まれ、名は致隆といいました、幼い時から書画を好み、大熊渓雲に付いて和漢学と絵画を学んだのち、江戸で菊地容斎に歴史画を学びました。
明治2年(1869)6月川越町氷川神社祠官山田家の婿養子となり名を山田衛居と改め、二年後同社の社司となりました。
「氷川神社行幸絵巻」の製作については左記のような経緯をたどりました。
明治元年10月28日、衛居は筆と障子紙を手に御列をつぶさに見学し、共に歩きながらその様子をスケッチしました。このスケッチをもとに明治2年、「原本」(紙本着色・長さ395cm)を製作、次いで明治22年武蔵一宮氷川神社の依頼により「下絵」(紙本部分着色・長さ1260cm)を製作、その71日後「氷川神社行幸絵巻」(絹本着色・長さ1370cm)を完成しました。
そして明治26年、43歳の時に「氷川神社行幸絵巻」を武蔵一宮氷川神社に献納しました。
続いて、烏帽子の人物と衣冠の二人の人物の騎馬です
敷島の道
敷島の道とは、五七五七七の31文字を定型とする和歌・短歌のことを指します。敷島とは日本国の別称であり、和歌こそが日本人の心を表すものとも言えます。
和歌の原始をたどると、氷川神社の御祭神須佐之男命が詠じた
八雲たつ いづもやへがきつまごみに 八重垣つくる そのやえがきを
に求められると言われております。これに因んで氷川神社では毎月15日に、神職がその月ごとの兼題により和歌を献ずる献詠祭を執り行っています。
明治天皇はその生涯に約10万首という厖大な数の和歌をお詠みになられました。これは和歌を詠むことが伝統となっている歴代天皇の中でも特筆に値いするものです。この厖大な数の明治天皇御製から12首を左に掲示させて頂きますので、ぜひとも明治天皇の大御心を深く御理解いただければ幸いです。
続いて、明治天皇の乗った輿が大勢の人々に担がれて進みます
1月
さしのぼる 朝日のごとく さはやかに もたまほしきは こころなりけり
*空高く昇ってゆく朝日のように、いつもすがすがしく明るくさわやかな心を、持ちたいものである。(明治42年)
続くのは籠ですが二人で担いでいますので中に人は載っていないようです
二月と三月です
2月
国民も つねにこころを あらはなむ みもすそ川の 清き流に
*国民も常に心を洗い清めてほしいものだ。神の官居のそばを流れる、みもすそ川(伊勢、五十鈴川の別称)の清らかな流れに身を灌いで。(明治42年)
3月
目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心の まことなりけり
*目に見ることのできない神に向かい、少しも恥ずかしくない清らかな正しい心境というものは、誠の心で、それはわれわれにとって最も貴いものである。(明治40年)
続いて、荷物を持った人々に空荷の馬が2頭です
四月と五月です
4月
いはがねの うごかざりけり ひとすぢに おもひかためし 人のこころは
*大地に根をおろした巌のように固く動かないものだなあ。、ただ一筋に堅固に思いかためた、人の心というものは。(明治45年)
5月
天てらす 神の御光 ありてこそ わが日の本は くもらざりけり
*天照大御神の御光があるからこそ、わが日本国の威光は決して曇ることがあいのである。(明治43年)
次に続くのは、衣冠の人物が4名など
六月と七月です
6月
いかならむ 事にあひても たわまぬは わがしきしまの 大和だましい
*どんな困難障害に際会してもひるまないのが、わが日本の国の人々が持つ大和だましいというものである。(明治37年)
七月
めにみえぬ 神のこころに かよふこそ 人の心の まことなりけり
*目には見えないが、われわれの心の内に確かにいらっしゃる神の御心にかようことが、人の心のまことというものである。(明治40年)
また和装の人物達に続いて鉄砲隊です
八月と九月です
8月
万代の 国のしづめと 大空に あふぐは富士の たかねなりけり
*永遠にゆらぎない国の栄の象徴として、いつも大空にあおぐは富士山のあの気高いすがたである。(明治41年)
9月
神がきに 朝まゐりして いのるかな 国と民との やすらかなむ世を
*神域に朝参拝してお祈りすることだ。日本の国が栄え、国民が安らかに暮らせる世の中であるようにと。(明治37年)
また鉄砲隊の後に横笛の人物が続きます
十月と十一月です
10月
榊葉を かけし鏡を かがみにて 人もこころを みがけとぞ思う
*神前の真榊の枝にかける鏡を心の鑑として、己が姿をうつし、人間も神にあやかって、各自の心をみがくがよい。(明治37年)
11月
わがくには 神のすゑなり 神まつる 昔のてぶり わするなよゆめ
*わが国は神の後裔である。神を祭るという昔からのならわしを、決しておろそかにしてはいけない。(明治43年)
太鼓の後にはまた鉄砲隊が続きます
十二月と年表です
12月
ちはやふる 神をまつりて こともなく くれゆく年を いはひけるかな
*はげしい霊威をお持ちになった神をお祭り申して、何のさわりもなく静かに暮れてゆく年の幸いを、心つつしんで祈ることである(明治35年)
最後も鉄砲隊が大勢続きます
年表の続きでした
絵巻としてよく書かれていますね
では、次へ行きましょう