三島市役所の北東側に三嶋大社が鎮座します
県道22号(旧東海道)に面して参道入口を開いています
境内東側に広い駐車場(有料:時間当たり200円でした)が有ります
伊豆半島ジオパーク説明版です
伊豆半島の形成過程が表示されています
*南から来た火山の贈りもの
本州で唯一、フィリピン海プレートの上に位置する伊豆半島は、かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。
この海底火山群は、プレートとともに北上し、本州に衝突して半島になりました。約60万年前の出来事です。
伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形をもつ魅力的な半島が形成されました。
北伊豆エリア:三島ジオサイト/三嶋大社
*ここは「三島市」
およそ10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士山が誕生しました。
約1万年前の噴火では、愛鷹山と箱根に挟まれた谷を溶岩が流れ下り、三島付近まで到達しました。「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は、三島市北部の台地を作りだしました。また、亀裂やすき間の多い溶岩は、地下水の通り道となって、溶岩の末端付近にたくさんの湧水をもたらしています。
湧水は多くのせせらぎを作りだしました。源兵衛川や桜川などの用水も、湧水とともに暮らしてきた人々の知恵で、たくさんの工夫がつまっています。街中で見られる三島溶岩やたくさんの湧水だけでなく、水辺の生き物や湧水を使った特産品などもぜひ楽しんでください。
*三嶋大社の歴史と自然に伊豆の信仰をみる
「伊豆一宮」として古くから伊豆をはじめとする周辺地域の人々の信仰を集めている三嶋大社。
大山祗命と事代主命の二柱の神を総じて「三嶋大明神」として祀っています。創建された時代や由緒には諸説ありますが、少なくとも奈良古代には祭祀の組織が整えられていました。
境内では荘厳な建造物や多数の文化財だけでなく、建物を取り囲む「鎮守の森(社叢)や樹齢1200年とも言われる金木犀、三島の大地の成り立ちを語る巨岩など、大切に守られてきた自然も三嶋大社のみどころです。
三嶋大社の祭神である三嶋大明神(大山祗命)は、伊豆半島や周辺地域の火山とゆかりがあります。伊豆七島などではそれぞれの島に三嶋大明神の后神(妻)や御子神(子)が祀られています。
また、三嶋大明神(大山祗命)の娘、木花咲耶姫命は、富士山に対する信仰の神社である各地の浅間神社に祀られています。三嶋大社から桜川に沿って歩いた先にある浅間神社も木花咲耶姫命を祀る神社です。
富士山や箱根山・伊豆諸島などの火山活動が活発な此地で、大きな噴火のたびに神格を高めてきた三嶋大明神や、その后神や御子神たちが祀られた神社が多いということは、人々が大地の恵みを受けつつ、畏れをもって自然とともにくらしてきた証と言えるでしょう。
*富士山が三島にもたらしたもう一つの大事件
三島の大地を作っているのは、1万年前の三島溶岩だけではありません。2900年前に富士山の東斜面で起こった山体崩壊(山の一部が大規模に崩れて麓に向って一気に流れ下る現象)とそれに伴う泥流は、下流にあった三島市や小田原市(神奈川県)に大量の土砂をもたらしました。その量は約18億㎥(東京ドーム約1450個分)にものぼると推定されています。ここ三嶋大社の境内にある、さまざまないわれを持つ巨岩のいくつかは、この山体崩壊による泥流によって運ばれてきたものと考えられています。
なお、この山体崩壊で富士山の山腹にできたはずの傷跡は、その後の噴火によって埋め立てられてしまいました。長い富士山の歴史の中で、現在のような美しい目の当たりにできるというのは奇跡のようなことなのかもしれません。
長くなりました・・・
三嶋大社参道入口鳥居です
三嶋大社です
南東側の境内入り口には西向きに「官幣大社 三嶋神社」の社號標です
社號標記念碑です、現在参道入口に建つ「三嶋大社」の社號表に建て替えられた記念碑です
明治30年建立の「祝捷碑」日清戦争の戦勝記念碑です、
源頼朝旗挙げの碑です
参道を進みましょう
境内に入ると参道右に「たたり石」です
<説明>
此の石は大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。
たたり(絡垜)は本来、糸のもつれを防ぐ具である整理を意味する語である。
後に往来頻繁になり、これを取り除こうとする度に災いがあったと言われ。絡垜が祟りに置き換えられる様になったと言われている。
大正3年に、内務省の道路工事によって堀出され神社に於いて此処に据えられた。
今市では、交通安全の霊石としての信仰がある。
参道左手の神池には厳島神社です
説明です
神池の説明も有ります、雨乞いや放生会の事が書かれています
総門です
更に参道を進みます
左手社務所前に矢部式部盛治大人銅像です
説明版です、江戸時代末期に神社の復興に尽くした人物の様です
手水舎です
手水舎の軒下に由緒書きが有ります
三嶋大社
祭神及び由緒
元の官幣大社、ご祭神は事代主命・大山祗命であり、事代主命は古来から俗に恵比寿様と唱えて、福徳の神として商工業漁業の崇敬篤く、又、大山祗命は山林農業の守護神として農家の尊崇が厚い、往古からここに御鎮座になり、朝廷の崇敬厚く、宮中八神殿に祀られて、皇室の守護神として仰がれ、延喜の制には名神大社に列せられ、伊豆国の一宮正一位三嶋大明神として、四辺の尊崇が厚い。
明治4年官幣大社に列せられた名社である。
源頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流寓の際、源家再興を祈願し、覇業なるに及んで益々尊崇篤く報賽の為に、社領神宝を献じ社殿の造営を行ったことは、東鑑に明白である。爾来日本総鎮守と仰がれ、鎌倉幕府を始め諸将の崇敬厚く、東海道の要衝にあたって鎮座しているので、中世以降に街道筋の名社として名高く、又、箱根の嶮を越ゆる昔は、必ず当社に参拝して、道中安全の祈願を籠めたもので、又、地方の人々も、福徳の神、商売繁盛大漁満足五穀豊穣の神、交通安全の守護神として、大いに崇敬される。
祭典
1月7日は特殊神事として有名な田祭がある。五穀豊穣を祈る神事であり、近郷からの賽者が群集する。
2月3日節分祭、70才以上の高齢者に、年男として奉仕する厄除祭で之亦他に例のない神事で有名である。
8月16日例祭当日は、頼朝旗挙行列其他殷賑行事数多く古来海道一の夏祭りとして有名である。
4月・11月の16日は、酉の祭である、古くは中の酉の日に行われたもので、世に行われる(おとりさま)の元祖であると云われている。
宝物
国宝 平政子奉納の蒔絵の櫛筍 宗忠の太刀
秋義の脇差 友行の短刀
宝物源頼朝の寄進状を始め武門武将の寄進状其の他文書百五十余通、頼家の心経日本書記紺紙金泥の法華経等数多し
社殿境内
総欅木素木の権現造りで稀に見る荘厳な建物、殊に彫刻は全国に比類を見ない。
境内は一万五千坪、神苑には神鹿あり、栄石・牛石・頼朝腰掛石等の名石、神池には鯉・鮒・其の他の魚類、祈願報賽の為放魚数多し。
木犀神木で約一千年の樹齢、秋至らば金花先づ開き、次いで銀花を年に二回咲いて、其の香気ふくいきとして二里四方に及ぶといい伝えらる。昭和9年5月天然記念物として文部大臣より指定された。
参道右に神馬舎です
説明版です、子供の成長と健脚を祈る風習があるそうです
神馬舎の東側の芸能殿です
説明版です
神門です
舞殿です
説明版です
拝殿(重要文化財)です
本殿です
重要文化財説明です
(国・市指定建造物文)化財説明版です
社殿左側には若宮神社です
説明版です
若宮神社
古くは八幡宮・若八幡宮、又は、若宮社等と呼ばれた。
御祭神は物忌奈乃命(三島大神の御子神)誉田別命(応神天皇)・神功皇后・妃大神を祀る社である。
例祭は8月15日で御本社大祭の前日に行われる。
慶応4年8月20日再建
見目神社です
若宮社と同じく御本社と最も関係の深い社で摂社と言う。
御祭神は三嶋大神の后神六柱を祀る。
昔は御本社大祭の前々日、幕府より奉献の玉簾を在庁(将軍の代理)が奉持し、この社の前で検分の上神主に渡す儀式が行なわれた。
慶応4年9月3日再建
舞殿西側の境内社です、左から幸神社・第三社・聖神社・天神社・大楠社です
舞殿東側の境内社です左から船寄社・飯神社・海神社・第二社・小楠社です、西側の境内社に対応しているようです
では、境内の木々を見て行きます
県道22号(旧東海道)に面して参道入口を開いています
境内東側に広い駐車場(有料:時間当たり200円でした)が有ります
伊豆半島ジオパーク説明版です
伊豆半島の形成過程が表示されています
*南から来た火山の贈りもの
本州で唯一、フィリピン海プレートの上に位置する伊豆半島は、かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。
この海底火山群は、プレートとともに北上し、本州に衝突して半島になりました。約60万年前の出来事です。
伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形をもつ魅力的な半島が形成されました。
北伊豆エリア:三島ジオサイト/三嶋大社
*ここは「三島市」
およそ10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士山が誕生しました。
約1万年前の噴火では、愛鷹山と箱根に挟まれた谷を溶岩が流れ下り、三島付近まで到達しました。「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は、三島市北部の台地を作りだしました。また、亀裂やすき間の多い溶岩は、地下水の通り道となって、溶岩の末端付近にたくさんの湧水をもたらしています。
湧水は多くのせせらぎを作りだしました。源兵衛川や桜川などの用水も、湧水とともに暮らしてきた人々の知恵で、たくさんの工夫がつまっています。街中で見られる三島溶岩やたくさんの湧水だけでなく、水辺の生き物や湧水を使った特産品などもぜひ楽しんでください。
*三嶋大社の歴史と自然に伊豆の信仰をみる
「伊豆一宮」として古くから伊豆をはじめとする周辺地域の人々の信仰を集めている三嶋大社。
大山祗命と事代主命の二柱の神を総じて「三嶋大明神」として祀っています。創建された時代や由緒には諸説ありますが、少なくとも奈良古代には祭祀の組織が整えられていました。
境内では荘厳な建造物や多数の文化財だけでなく、建物を取り囲む「鎮守の森(社叢)や樹齢1200年とも言われる金木犀、三島の大地の成り立ちを語る巨岩など、大切に守られてきた自然も三嶋大社のみどころです。
三嶋大社の祭神である三嶋大明神(大山祗命)は、伊豆半島や周辺地域の火山とゆかりがあります。伊豆七島などではそれぞれの島に三嶋大明神の后神(妻)や御子神(子)が祀られています。
また、三嶋大明神(大山祗命)の娘、木花咲耶姫命は、富士山に対する信仰の神社である各地の浅間神社に祀られています。三嶋大社から桜川に沿って歩いた先にある浅間神社も木花咲耶姫命を祀る神社です。
富士山や箱根山・伊豆諸島などの火山活動が活発な此地で、大きな噴火のたびに神格を高めてきた三嶋大明神や、その后神や御子神たちが祀られた神社が多いということは、人々が大地の恵みを受けつつ、畏れをもって自然とともにくらしてきた証と言えるでしょう。
*富士山が三島にもたらしたもう一つの大事件
三島の大地を作っているのは、1万年前の三島溶岩だけではありません。2900年前に富士山の東斜面で起こった山体崩壊(山の一部が大規模に崩れて麓に向って一気に流れ下る現象)とそれに伴う泥流は、下流にあった三島市や小田原市(神奈川県)に大量の土砂をもたらしました。その量は約18億㎥(東京ドーム約1450個分)にものぼると推定されています。ここ三嶋大社の境内にある、さまざまないわれを持つ巨岩のいくつかは、この山体崩壊による泥流によって運ばれてきたものと考えられています。
なお、この山体崩壊で富士山の山腹にできたはずの傷跡は、その後の噴火によって埋め立てられてしまいました。長い富士山の歴史の中で、現在のような美しい目の当たりにできるというのは奇跡のようなことなのかもしれません。
長くなりました・・・
三嶋大社参道入口鳥居です
三嶋大社です
南東側の境内入り口には西向きに「官幣大社 三嶋神社」の社號標です
社號標記念碑です、現在参道入口に建つ「三嶋大社」の社號表に建て替えられた記念碑です
明治30年建立の「祝捷碑」日清戦争の戦勝記念碑です、
源頼朝旗挙げの碑です
参道を進みましょう
境内に入ると参道右に「たたり石」です
<説明>
此の石は大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。
たたり(絡垜)は本来、糸のもつれを防ぐ具である整理を意味する語である。
後に往来頻繁になり、これを取り除こうとする度に災いがあったと言われ。絡垜が祟りに置き換えられる様になったと言われている。
大正3年に、内務省の道路工事によって堀出され神社に於いて此処に据えられた。
今市では、交通安全の霊石としての信仰がある。
参道左手の神池には厳島神社です
説明です
神池の説明も有ります、雨乞いや放生会の事が書かれています
総門です
更に参道を進みます
左手社務所前に矢部式部盛治大人銅像です
説明版です、江戸時代末期に神社の復興に尽くした人物の様です
手水舎です
手水舎の軒下に由緒書きが有ります
三嶋大社
祭神及び由緒
元の官幣大社、ご祭神は事代主命・大山祗命であり、事代主命は古来から俗に恵比寿様と唱えて、福徳の神として商工業漁業の崇敬篤く、又、大山祗命は山林農業の守護神として農家の尊崇が厚い、往古からここに御鎮座になり、朝廷の崇敬厚く、宮中八神殿に祀られて、皇室の守護神として仰がれ、延喜の制には名神大社に列せられ、伊豆国の一宮正一位三嶋大明神として、四辺の尊崇が厚い。
明治4年官幣大社に列せられた名社である。
源頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流寓の際、源家再興を祈願し、覇業なるに及んで益々尊崇篤く報賽の為に、社領神宝を献じ社殿の造営を行ったことは、東鑑に明白である。爾来日本総鎮守と仰がれ、鎌倉幕府を始め諸将の崇敬厚く、東海道の要衝にあたって鎮座しているので、中世以降に街道筋の名社として名高く、又、箱根の嶮を越ゆる昔は、必ず当社に参拝して、道中安全の祈願を籠めたもので、又、地方の人々も、福徳の神、商売繁盛大漁満足五穀豊穣の神、交通安全の守護神として、大いに崇敬される。
祭典
1月7日は特殊神事として有名な田祭がある。五穀豊穣を祈る神事であり、近郷からの賽者が群集する。
2月3日節分祭、70才以上の高齢者に、年男として奉仕する厄除祭で之亦他に例のない神事で有名である。
8月16日例祭当日は、頼朝旗挙行列其他殷賑行事数多く古来海道一の夏祭りとして有名である。
4月・11月の16日は、酉の祭である、古くは中の酉の日に行われたもので、世に行われる(おとりさま)の元祖であると云われている。
宝物
国宝 平政子奉納の蒔絵の櫛筍 宗忠の太刀
秋義の脇差 友行の短刀
宝物源頼朝の寄進状を始め武門武将の寄進状其の他文書百五十余通、頼家の心経日本書記紺紙金泥の法華経等数多し
社殿境内
総欅木素木の権現造りで稀に見る荘厳な建物、殊に彫刻は全国に比類を見ない。
境内は一万五千坪、神苑には神鹿あり、栄石・牛石・頼朝腰掛石等の名石、神池には鯉・鮒・其の他の魚類、祈願報賽の為放魚数多し。
木犀神木で約一千年の樹齢、秋至らば金花先づ開き、次いで銀花を年に二回咲いて、其の香気ふくいきとして二里四方に及ぶといい伝えらる。昭和9年5月天然記念物として文部大臣より指定された。
参道右に神馬舎です
説明版です、子供の成長と健脚を祈る風習があるそうです
神馬舎の東側の芸能殿です
説明版です
神門です
舞殿です
説明版です
拝殿(重要文化財)です
本殿です
重要文化財説明です
(国・市指定建造物文)化財説明版です
社殿左側には若宮神社です
説明版です
若宮神社
古くは八幡宮・若八幡宮、又は、若宮社等と呼ばれた。
御祭神は物忌奈乃命(三島大神の御子神)誉田別命(応神天皇)・神功皇后・妃大神を祀る社である。
例祭は8月15日で御本社大祭の前日に行われる。
慶応4年8月20日再建
見目神社です
若宮社と同じく御本社と最も関係の深い社で摂社と言う。
御祭神は三嶋大神の后神六柱を祀る。
昔は御本社大祭の前々日、幕府より奉献の玉簾を在庁(将軍の代理)が奉持し、この社の前で検分の上神主に渡す儀式が行なわれた。
慶応4年9月3日再建
舞殿西側の境内社です、左から幸神社・第三社・聖神社・天神社・大楠社です
舞殿東側の境内社です左から船寄社・飯神社・海神社・第二社・小楠社です、西側の境内社に対応しているようです
では、境内の木々を見て行きます