2014年9月9日
御香宮神社の境内にあります。御香宮神社の表門を入って、右手にあります。
説明書より『当社は学問書道の神「菅原道真」をお祀りしています。その昔、御香宮の東に蔵光庵というお寺がありました。1390年頃(室町時代)この寺の僧の夢枕に菅原道真がたたれました。数年後、同門の僧から菅原道真の画像が贈られました。それは夢で見たお姿と同じであったので、僧は自分の学問を守ってくださる神として寺の中に天満大神として祀りました。江戸時代、「山ノ天神」として伏見の町の寺小屋の子ども等は、2月と6月には必ずお参りしていました。しかし、次第に荒れてきましたので観音寺の僧教覚が町の中にお遷ししようと、木谷市造と、宮大工坂田岩次郎の協力を得て、20年間の歳月をかけて天保12年(1841)に完成しました。この時、坂田岩次郎は使用した大工道具を完成御礼として奉納しました。この大工道具約70点は日本の木造建築を支えた道具文化財として大切に保管されています。」
京都市伏見区御香宮門前町
map
石碑
拝殿
伏見義民史跡
御香宮神社の表門を入ってすぐに左手にあります。
説明書より「天明5年(1785)、時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民という。江戸時代(1603から1867)伏見は交通の要衝として栄え、政治・経済上重要な地であったため、幕府の直轄地として奉行所が置かれた。安永7年(1779)に奉行となった小堀政方は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものであった。文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の7人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を坐視するに忍ばず、苦心惨澹の末、天下の掟を破って幕府に直訴した。このため、天明5年(1785)政方は奉行を罷免されたが、九助ら7人も獄中で相次いで病死した。この碑は明治20年(1887)に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。」
御香宮神社の境内にあります。御香宮神社の表門を入って、右手にあります。
説明書より『当社は学問書道の神「菅原道真」をお祀りしています。その昔、御香宮の東に蔵光庵というお寺がありました。1390年頃(室町時代)この寺の僧の夢枕に菅原道真がたたれました。数年後、同門の僧から菅原道真の画像が贈られました。それは夢で見たお姿と同じであったので、僧は自分の学問を守ってくださる神として寺の中に天満大神として祀りました。江戸時代、「山ノ天神」として伏見の町の寺小屋の子ども等は、2月と6月には必ずお参りしていました。しかし、次第に荒れてきましたので観音寺の僧教覚が町の中にお遷ししようと、木谷市造と、宮大工坂田岩次郎の協力を得て、20年間の歳月をかけて天保12年(1841)に完成しました。この時、坂田岩次郎は使用した大工道具を完成御礼として奉納しました。この大工道具約70点は日本の木造建築を支えた道具文化財として大切に保管されています。」
京都市伏見区御香宮門前町
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石碑
拝殿
伏見義民史跡
御香宮神社の表門を入ってすぐに左手にあります。
説明書より「天明5年(1785)、時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民という。江戸時代(1603から1867)伏見は交通の要衝として栄え、政治・経済上重要な地であったため、幕府の直轄地として奉行所が置かれた。安永7年(1779)に奉行となった小堀政方は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものであった。文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の7人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を坐視するに忍ばず、苦心惨澹の末、天下の掟を破って幕府に直訴した。このため、天明5年(1785)政方は奉行を罷免されたが、九助ら7人も獄中で相次いで病死した。この碑は明治20年(1887)に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。」