旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

京都の散歩

2018-01-22 18:59:28 | 京都
2018年1月19日、京都御苑、仙洞御所、京都御所と拝観し、京都駅前に移動。とりあえず昼食と・・・。



だし茶漬け えん

まぐろ茶漬け 出汁がおいしいですね。

で、しばらくウインドウショッピングで錦市場に移動。うろうろとして、京都文化博物館の「ろうじのてんぽ」



ここで、一服。抹茶アイスクリームを食す。

















お疲れさまでした。神戸に帰る。
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京都御苑、閑院宮邸跡・宗像神社・白雲神社

2018-01-22 18:49:12 | 京都
2018年1月19日、散策しました。
京都府京都市上京区都御苑
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案内図

閑院宮邸跡
「閑院宮家は江戸時代の四親王家の一つで、最も新しく宝永7年(1710)に創設されました。第118代後桃園天皇が安永8年(1779)に急逝したため、9才で閑院宮家出身で皇統を継いだのが光格天皇です。邸宅は宮家が東京に移った明治10年(1877)以降、華族会館や裁判所等に使用され、明治16年(1883)、宮内省京都支庁が設けられ、屋敷も建て替えられたといわれています。」









宗像神社
「本社は、宗像三女神、即ち多紀理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命を主祭神として祀る。宗像三女神は別名『道主貴』といい、これは全ての道を司る神の尊称である。道の神、また海の神として信仰されている。この地はもと小一条殿(文徳天皇皇后明子の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、清和天皇ご誕生の地である。社伝によれば、平安京遷都の翌年、延暦14年(795)、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫(現在の福岡県)より勧請し、創建されたと伝えられる。その後、歴代皇室の御尊信篤く、応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建された。現在の社殿は江戸期安政年間に再建されたものである。明治維新までは花山院家の邸地となり、本社もその邸内にあったが、邸宅が廃せられて後は社殿のみ残った。境内には樹齢六百年といわれる京都御苑内最長老の楠の老木がある。境内社として花山稲荷社、京都観光神社、少将井社、繁栄稲荷社、金刀比羅宮がある。」





























御苑







仙洞御所土塀







左が京都御所

京都御所土塀





白雲神社
「御祭神は妙音弁財天と称し市杵島姫命を祀る。琵琶を家職とする西園寺家に楽神として伝えられ、西園寺公経が北山殿造営に際し建立した妙音堂に由来するとされる。」

















鷺さん





京都御苑、とにかく大きいわ。
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京都御所

2018-01-22 18:38:03 | 京都
2015年4月3日、拝観しました。
申込手続き不要、料金無料の春季一般公開が4月3日より7日までの5日間あり、初日に行きました。あいにくの雨でしたが、桜の花も満開で素敵でした。
2018年1月19日、現在は通年の一般公開がされているので、再度、拝観し、補正をしました。
パンフレットより「延暦13年(794)桓武天皇が遷都された平安京の大内裏の中ほどに天皇のお住まいである内裏(皇居)があった。内裏が火災に遭うと、天皇は貴族の私邸など京中の殿邸を仮皇居とされた。これは里内裏と呼ばれるが、平安時代の後期以降、元の内裏は次第に使用されなくなり、里内裏が日常の皇居とされるようになった。現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれた里内裏が発展したものである。光厳天皇が元弘元年(1331)ここに即位されて以降、明治2年(1869)に明治天皇が東京に遷られるまでは皇居とされた。その間には焼失と再建が繰り返され、現在の建物のほとんどは、安政2年(1855)に再建されたものである。京都御所では、紫宸殿、清涼殿等の平安時代以来の寝殿造りや、御学問所、御常御殿等の後世における書院造りなど、宮廷の長い歴史を反映した様々な建物の様式をみることができるほか、いにしえの天皇の御生活や儀式、源氏物語などの王朝文学の世界を偲ぶことができる。築地塀で囲まれた京都御所の面積は約11万㎡である。」
京都市上京区京都御苑3
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土塀





乾御門

案内図

皇后門

桜が満開でした。

清所門







中立売御門

宣秋門











公開本部







案内図





御車寄
「昇殿を許された者が参内する時の玄関で、諸大夫の間や清涼殿、小御所等と廊下でつながっている。」













諸大夫の間
『参内した者の控えの間で、身分の上下によって異なった部屋に控えた。襖の絵にになんで、「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる部屋が並ぶ。』















新御車寄
「大正4年(1915)の大正天皇の即位礼に際し、建てられたもので、大正以降の天皇皇后陛下の玄関である。」







月華門









承明門







日華門





建礼門







建春門





春興殿

大臣宿所





紫宸殿
『即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿である。大正天皇、昭和天皇の即位礼もここで行われた。入母屋桧皮葺きの高床式宮殿建築で、南面して建てられている。中央に天皇の御座「高御座」、その東に皇后の御座「御帳台」がおかれている。』



















右近の橘



清涼殿
「平安時代には天皇が日常の御生活の場として使用された御殿で、入母屋桧皮葺きの寝殿造りである。」



呉竹



小御所
「諸種の儀式が行われ、武家との対面にも用いられた。寝殿造りと書院造りの両要素が混合した様式の建物である。」











御池庭
「池を中心とした回遊式庭園である。前面は洲浜で、その中に舟着への飛石を置いている。右手に欅橋が架かり、対岸には樹木を配し、様々な景色を楽しむことができる。」







御学問所
「御読書始めの儀、和歌の会など学芸関係のほか、臣下と対面される行事などに用いられた。入母屋桧皮葺きの書院造りである。













蹴鞠の庭
「小御所と御学問所の間の小庭をいう。蹴鞠は鹿革でできた鞠を落とさずに蹴り渡す球戯で、一定の作法のもとに行われる。」





御内庭
「曲折した造りに水を流して、土橋や石橋を架けて趣向を凝らした庭で、奥に茶室を構えている。」































御常御殿





御涼所

迎春








































































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仙洞御所

2018-01-22 10:16:22 | 京都
2018年1月19日、事前に申請して拝観許可を受け、拝観しました。
パンフレットより「仙洞御所は、皇位を退かれた天皇(上皇、院などといわれる)の御所である。後水尾上皇の御所として江戸時代初期の寛永7年(1630)に完成した。それと同時にその北に接して問う東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられた。古くは内裏のように一定の場所にあったわけでもなく、また必ず置かれたけでもないが、後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東南に定まった。後水尾上皇が御存命の間に三度焼失し、その都度再建されてきたが、以降、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の五代の上皇の仙洞御所として使用された。嘉永7年(1854)の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に、ちょうどその時上皇がおられなかったこともあり造営がされないままとなった。そのため、現在の仙洞御所には、醒花亭、又新亭の二つの茶室以外に御殿等の建物は全くなく、東側いっぱいに南北に展開する雄大な庭園が往時の面影を残しているだけである。現在の築地塀は安政2年(1855)、京都御所と共に建造されたものである。
 大宮御所とは、皇太后の御所をいう。現在、築地塀内北西にある大宮御所は、慶応3年(1867)に英照皇太后(孝明天皇の女御)のために女院御所の跡に造営されたものである。英照皇太后が東京に移られた後は、御常御殿のみを残して整理され、現在に伝えられている。現在は、天皇皇后両陛下や皇太子同妃両殿下が入洛された際の御宿舎として用いられている。
 庭園は、仙洞御所の作事奉行であった小堀遠州が寛永7年(1630)の御所の完成に引き続いて作庭したもので、古図によれば仙洞・女院御所とも石積みの直線的な岸辺を有する斬新な感覚の広大な池をもっていたようである。しかし、改修拡張等により遠州当時の遺構は南池東岸の一部にわずかに認められるにすぎない。18世紀の前半までに女院御所の庭園(北池)と仙洞御所の庭園(南池)が掘割(ほり)でつながれた。
 総面積9万1千㎡余りで、そのうち大宮御所の面積は約1万6千㎡、仙洞御所の面積は約7万5千㎡である。京都御所、桂離宮、修学院離宮とともに皇室用財産(国有財産)として宮内庁が管理している。
京都府京都市上京区京都御苑3
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拝観入り口、警察官が警備しています。

案内図



京都大宮御所御車寄
「大宮御所の玄関であり、現在も天皇皇后両陛下や皇太子同妃両殿下が入洛された際に使用されている。」









京都大宮御所御常御殿と南庭
「大正年間に内部を洋風に改め、周りにはガラス戸をはめている。庭には紅梅・白梅、竹林、松が植樹され、『松竹梅の庭』とも伝えられている。」





















北池とその周辺
「仙洞御所の池は、紅葉谷の掘割を境にして北池と南池とに二分される。大宮御所御常御殿の南庭から土塀の潜り戸を抜けると一望に見渡せる雄大な眺望が北池の全景である。造営当初は女院御所の庭であった。池の東に寄せた中島は西から見る景色に奥行きを与え、対岸の樹木の上に遥か紫に霞む東山の峰が借景として採られている。左から右へ池を巡ると、六枚橋が架かる古びた入江の阿古瀬淵があり、その北の小高い丘の上に紀貫之の邸宅跡を示す石碑が立っている。明治8年(1875)の建立である。ゆるやかな汀線に沿って東へ進むと右手に北池をへだてて紅葉山が、左手の土堤上には鎮守社が見える。その向こうはかつては水田があった。中島は鷺島とも呼ばれ、その中を縫って行くと掘割にかかる紅葉橋と呼ばれる土橋へと至る。もはや北池は見えず南池の世界が展開する。」

























鎮守社















鴨さん





























南池とその周辺
「南池の中程に二つの中島がある。中島の一つに西岸から藤棚に覆われた八ツ橋が架けられ、中島と中島を短い石橋でつなぎ、東岸にかけて反橋が渡されるなど、趣向の異なる橋を渡れるように工夫されている。中島や東岸には、とうとうと布落ちる幅80cm、高さ180cmの雄滝、その右手には自然石と切り石を組んだ出島の護岸が見事に眺められる。雄滝に近く、出島西岸の根元に突き出た三畳敷きほどもある大きな平石は『草紙洗の石』と呼ばれ、小野小町と大伴黒主のエピソードがある。さらに南を見れば池の向こうに醒花亭の佇まいが木の間ごしに望まれる。八ツ橋を渡り、葭島を右に見ながら南池東岸を南下し、南岸から西岸一帯の洲浜にそって苑路は北上する。洲浜には楕円形のやや平たい粒の揃った11万1千個ほどの石を池の中まで緩やかに敷き詰めてある。その石一個につき米一升の約束で運ばせたとの伝承があり、『一升石』の別名もある。玉石を敷き詰めた洲浜は京都御所にもあるが、柔らかな広がりを感じさせる点で、ここに勝るものはない。洲浜の西には万葉歌人柿本人麻呂を祀った小社がある。」
八ツ橋と藤棚







洲浜

























又新亭
「明治17年(1884)に近衛家から献上された茶室である。もともとこの場所には、修学院離宮から移築した茶室止々斎があったが、火災により焼失した。茅葺と柿葺の屋根と大きな丸窓を備えた茶室で、中門により内露地と外露地に隔てられ、四つ目垣で囲むことにより結界を設けている。ここだけは佇茶の小天地を形づくっているようである。亭の内外に外腰掛があり、紅葉山裾野の蘇鉄山と相対している。」



















醒花亭
「庭園の最も南の位置に北面している茶亭で、南池を一望する格好の場所にある。正面の玄関には廂を付け出し、腰高障子を入れ、向かって左(東側)は奥に四畳半の書院、手前に五畳の入側(縁側)を取り、書院と入側の境に建具を入れないところが特異である。『醒花』は李白の詩から採られたもので、入側の東、鴨居の上に拓本の額として掲げられている。額の字は中国明の時代の郭子章の筆である。東の庭には『ふくろう』の銘のある手水鉢を据え、飛石を配し、銭型の蹲踞(茶亭の手水鉢)と朝鮮燈籠が植え込みによく調和している。」





















柿本社







お疲れさまでした。具内庁の職員が説明で随行していただきました。後ろから警備員がついて回ります。




 
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