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奈良公園散策後、大阪の叡福寺

2018-02-27 16:33:49 | 大阪
2018年2月19日、奈良パークホテルに宿泊し、チェックアウト後、奈良県庁の駐車場に自動車を止めて、平日は2時間以内は無料です。奈良公園を散策しました。
鹿さん達、のんびりと座っていました。



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叡福寺
太子町の案内図

叡福寺の境内案内図

説明書より「叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛寺の末寺で、所在地であるかつての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であることから太子町・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院である。なお、一連の太子建立伝説をもつ八尾市大聖勝軍寺の『下の太子』、羽曳野市野中寺の『中の太子』に対し、『上の太子』と俗称され親しまれている。
 寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると推古天皇30年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当寺のはじまりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている。
 現在の伽藍は天正2年(1574)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再建されたもので広大な境内には金堂、聖霊殿、宝塔などの堂塔が建ちならび由緒ある寺院として風格を保っている。
 また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇29年(621)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年2月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃勝部大郎女の三人が一所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も太子に会わんが為に善男善女の参詣が絶えることはない。
 当寺には重要文化財に指定された絹本着色文殊渡海図、高屋連枚人墓誌の他、数多くの貴重な文化財を所蔵している。聖霊殿(太子堂)は慶長8年(1603)豊臣秀頼が伊藤左馬頭則長を奉行として再建したもので、桃山時代の特長をよく示しており、宝塔は承応元年(1652)に建立されたもので、いずれも重要文化財の指定を受けている。
 棟札によって享保17年(1732)の再建が明確な金堂、肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており17世紀前半を下らない建築と考えられる鐘楼は、共に大阪府指定文化財となっている。また明治初期に塔頭、石塔律院跡から客殿庭園内に移築された巨大な石造五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、大阪府有形文化財の指定を受けている。」
大阪府南河内郡太子町太子2146
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南大門













手水舎







境内

多宝塔(重要文化財)
「江戸前期の承応元年(1652)建立、三間多宝塔、本瓦葺。比較的木割が太く、正統派に近い塔である。」







金堂(大阪府指定文化財)











境内











聖霊殿(重要文化財)
「桃山時代の慶長8年(1603)建立、桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺、南面突出部 桁行三間、梁間二間、一重入母屋造、本瓦葺。」













二天門













聖徳太子御廟



浄土堂



見真大師堂











































科長岡神社

















西方院へ行きます。
「推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたという。」


































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