2018年6月22日から7月4日のドバイ経由アルジェリア観光
事前準備で東京のアルジェリア大使館にビザ申請
受付で個人旅行は難しいとのことでしたが、現地の方の招待状もあると説明し、ビザ発行をしていただきました。
今回の旅程
6月22日、神戸のベイシャトルで関空へ
6月23日 早朝にドバイ着、アブダビ観光
モスク、ルーヴル美術館、マリーナ・モール散策と夕食
アブダビのハイアットキャピタルゲートホテル宿泊
6月24日 ドバイに戻りシェラトン モール オブ ジ エミレーツ ホテル ドバイ宿泊
エミレーツ・モール散策
6月25日 ドバイからアルジェへ
ホテル・エル・リヤドで2泊
歴史地区ティパサ観光
カサバ観光
ノートルダム・ド・アフリーク教会観光
シディ・フレッドジュ散策・ボート遊覧
6月27日 アルジェからアンナバ
アンナバのシェラトンホテルに2泊
6月28日 イマームの儀式と食事
6月29日 アウグスティヌス聖堂見学
エル・カラのビラ・モンテベロに2泊
6月30日 パーティに出席
7月1日 エル・カルのララ・ファティマ・ホテル宿泊
昼は休養で夜にバーベーキュパーティ
7月2日 早朝にアンナバ空港からアルジェ空港へ
7月3日、ドバイのスイス・アルグレイル・ホテル宿泊
アル・グレイル・モール散策
7月4日、ドバイ空港から関空へ
ベイシャトルの運行が中止のため、バスで振り替え輸送で神戸に戻りました。
ホテルを転々とあわただしい感じもしました。
6月25日にアルジェ空港に到着しましたが、時刻になっても飛行機が飛ばないのがアラブ時間なのかもと、というのは、出発時刻になっても、搭乗客が多数乗り込んできます。女性はトイレットペーパーは常時持ち歩きをしておかないと困ります。
空港などのパプリックなところでも備えていないことがあります。
水の事情は大変なようです。レストランでもトイレはひしゃくで流します。家庭においては、給水制限でシャワーを浴びることができないし、トイレの水も流せないので、用をたしてもそのままです。
道路を走っていて、主要なところは舗装がされていますが、120Km/hとスピードを出すので、ところどころに凸の盛り上がりがあります。警察官が四つ角に立っています。手信号で誘導するため、相当の警察官がいます。現地の方に聞くと警察官はいい人とのことです。
そして、浮浪者はいません。それは、家族、親せきが面倒をみるので、ありえないとのことです。
医療、教育は無償で、勉強したい人は大学へ進学するとのことです。5年と4年の9年間の義務教育、高校が3年間、大学は5年間です。高校も大学も入学試験はありませんが終了試験に合格しないと卒業が出来ません。
物価と賃金ですが、スイカ1玉で300円くらい。通貨はディナールでほぼ円と等価です。ガソリンはリッター30円、アイスクリーム30円、警察官の1年間の給料が25万円くらいです。多くの労働者が給料以外にアルバイトをしているとか。
女性は買い物をしてはいけないとのことで、夫か親族の男性が買い物をします。ですから、女性は商品の値段を知らないとか。なんとも複雑です。
イスラム圏の国ですから、女性はアバヤを着るか、体型のきっくりするジーンズやレギンスなどは不可です。ゆったりとした服装は可とのこと。
日本人だけで外出は、気を付けないといけないと。現地人と一緒であれば、心配はないようです。アルジェリア人は親日なのですが、日本語をしゃべっていても言葉が判らないのと、顔立ちが中国人と間違えられます。中国人はどうも嫌われているようで、宿泊しているホテルでも他の宿泊者からチャイニーズと聞かれ、日本から来ましたと返事すると、遠いところからよく来たねと握手をしてきます。
アンナバというアルジェリアでは4番目の大きな都市にいきましたが、中心部の公民館の近くの道路は未舗装のデコボコの土の道です。
各地で建設途中の住宅がたくさんあります。2階部分に鉄筋が出たままで入居しています。足場は単管で組んでいるのはましです。丸太足場もあります。地震がないようなので、柱は細いですね。鉄筋も9ミリ筋のようです。2階部分のコンクリートを打設した1階部分の養生に木の丸太で支えていました。日本の40年前くらいの状況です。
道端での露天などは近所の方や自動車で通りすがりに買い物をするようです。大きなスーパーがないからかもと思います。コンビニ程度の店がたまにあります。
非常に大きな砂漠を抱えた国で、7世紀末から8世紀初頭にかけて、土着のベルベル人たちのところにアラブ人が入り込み、1574年からオスマン帝国は北アフリカのアルジェリア等を支配してきました。1830年にアルジェがフランスに征服された後、征服の最中から植民地化・フランス化が進められ、アルジェリアには多数の「コロン」と呼ばれるフランス人移民が流入し定住した。
アルジェリア独立戦争
1830年以降、フランスはアルジェリアを支配下に置き、1848年に3つの直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)を置いて内地、本国の一部としたほか、1881年に東隣チュニジアをオスマン帝国から確保、1912年に西隣モロッコを保護領として支配下に組み込むなど、北アフリカ支配の拠点としていた。
ヨーロッパ系コロン(ピエ・ノワール)と、同化によって市民権を付与されたユダヤ教徒や一部のムスリム以外の先住民は差別、抑圧されており、1945年の第二次世界大戦終結後、アジアなどから急激に広がった民族自決の流行の中で、反仏抵抗運動が高まっていた。
1954年、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織され、同年11月1日に一斉蜂起を開始した。アルジェリア民族解放戦線は軍事部門であるアルジェリア民族解放軍(ALN)を設立し武装闘争を本格化させた。1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争が行われました。
秘密軍事組織のフランス軍、アルジェリア民族解放戦線、およびアルジェリア人市民に対するテロが激化する中、ドゴールはアルジェリア民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、1962年3月、レマン湖畔・エヴィアン=レ=バンでエビアン協定を締結。アルジェリア独立が承認され、フランス軍とアルジェリア民族解放戦線の戦闘は停止する。4月のフランス本国で行われた国民投票では、大多数の国民が戦争の終結を望み90%以上がアルジェリア独立を支持した。
私は、過去に映画「アルジェの戦い」を見たことがあります。1954年から62年にかけてフランスの支配下にあったアルジェリアで起こった独立戦争を描き、66年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した戦争映画の名作で、アルジェリア市民8万人が撮影に協力し、主要キャストには実戦経験者を含む一般人も多数参加しました。
「カスバの女」という歌がありました。作詞:大高ひさお 作曲:久我山明、歌手:エト邦枝
♬涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬(ほほ) 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリヤ
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け
歌詞の中で「ここは地の果て アルジェリア」という日本からは本当に遠い国です。関空からドバイまで10時間、ドバイからアルジェまで7時間、昔は船での長旅でそれこそ、フランスから渡航なので、地の果てと歌われたのでしょう。個人旅行でのビザは発効が難しいようです。現地の方の招待状を役場で証明してもらう必要があります。または、現地の旅行会社の紹介するホテルの宿泊証明書がなければビザが出ません。
アルジェリアの現地の方はとても明るい方たちです。日本人には親しみを持って接してくれます。ただ、残念なのは、中国人かと聞かれます。日本から来ましたと答えると握手を求めてきます。多数の中国企業が進出していますが、これは何を意味しているのだろうかと。
日本人だけで外出して町を歩けないことも残念です。言葉が通じないこともあるようですし、現地人と同行していても買い物では吹っ掛けるようです。露天の野菜や果物は金額表示がないので相対取引です。交渉次第の値段です。
まだまだ、インフラ整備が遅れています。日本で言えば数十年前の田舎町の感じです。スーパーとか大型店舗がないためか露天商などがかなりあり、コンビニ程度の店はあります。国民はみんな明るくたくましく感じます。
日本ではアルジェリアの観光パンフもありません。GooglMapで見てもストリートビューが点でしか表示がされません。観光客を受け入れるには、まだまだ慣れることと時間がかかるのかも判りません。
現地の郷土料理を食べるのも旅の楽しみですが、食事が苦手な方は、カップラーメンやさとうのご飯、味噌汁、レトルトカレー、梅干しなどを持参すれば何とかなります。私も持参していました。以前はコンロも携行していましたが、ホテルで焚くと火災報知器やスプリングクラーが作動しますので、お湯で温めるかレンジ使用のものを携行します。
事前準備で東京のアルジェリア大使館にビザ申請
受付で個人旅行は難しいとのことでしたが、現地の方の招待状もあると説明し、ビザ発行をしていただきました。
今回の旅程
6月22日、神戸のベイシャトルで関空へ
6月23日 早朝にドバイ着、アブダビ観光
モスク、ルーヴル美術館、マリーナ・モール散策と夕食
アブダビのハイアットキャピタルゲートホテル宿泊
6月24日 ドバイに戻りシェラトン モール オブ ジ エミレーツ ホテル ドバイ宿泊
エミレーツ・モール散策
6月25日 ドバイからアルジェへ
ホテル・エル・リヤドで2泊
歴史地区ティパサ観光
カサバ観光
ノートルダム・ド・アフリーク教会観光
シディ・フレッドジュ散策・ボート遊覧
6月27日 アルジェからアンナバ
アンナバのシェラトンホテルに2泊
6月28日 イマームの儀式と食事
6月29日 アウグスティヌス聖堂見学
エル・カラのビラ・モンテベロに2泊
6月30日 パーティに出席
7月1日 エル・カルのララ・ファティマ・ホテル宿泊
昼は休養で夜にバーベーキュパーティ
7月2日 早朝にアンナバ空港からアルジェ空港へ
7月3日、ドバイのスイス・アルグレイル・ホテル宿泊
アル・グレイル・モール散策
7月4日、ドバイ空港から関空へ
ベイシャトルの運行が中止のため、バスで振り替え輸送で神戸に戻りました。
ホテルを転々とあわただしい感じもしました。
6月25日にアルジェ空港に到着しましたが、時刻になっても飛行機が飛ばないのがアラブ時間なのかもと、というのは、出発時刻になっても、搭乗客が多数乗り込んできます。女性はトイレットペーパーは常時持ち歩きをしておかないと困ります。
空港などのパプリックなところでも備えていないことがあります。
水の事情は大変なようです。レストランでもトイレはひしゃくで流します。家庭においては、給水制限でシャワーを浴びることができないし、トイレの水も流せないので、用をたしてもそのままです。
道路を走っていて、主要なところは舗装がされていますが、120Km/hとスピードを出すので、ところどころに凸の盛り上がりがあります。警察官が四つ角に立っています。手信号で誘導するため、相当の警察官がいます。現地の方に聞くと警察官はいい人とのことです。
そして、浮浪者はいません。それは、家族、親せきが面倒をみるので、ありえないとのことです。
医療、教育は無償で、勉強したい人は大学へ進学するとのことです。5年と4年の9年間の義務教育、高校が3年間、大学は5年間です。高校も大学も入学試験はありませんが終了試験に合格しないと卒業が出来ません。
物価と賃金ですが、スイカ1玉で300円くらい。通貨はディナールでほぼ円と等価です。ガソリンはリッター30円、アイスクリーム30円、警察官の1年間の給料が25万円くらいです。多くの労働者が給料以外にアルバイトをしているとか。
女性は買い物をしてはいけないとのことで、夫か親族の男性が買い物をします。ですから、女性は商品の値段を知らないとか。なんとも複雑です。
イスラム圏の国ですから、女性はアバヤを着るか、体型のきっくりするジーンズやレギンスなどは不可です。ゆったりとした服装は可とのこと。
日本人だけで外出は、気を付けないといけないと。現地人と一緒であれば、心配はないようです。アルジェリア人は親日なのですが、日本語をしゃべっていても言葉が判らないのと、顔立ちが中国人と間違えられます。中国人はどうも嫌われているようで、宿泊しているホテルでも他の宿泊者からチャイニーズと聞かれ、日本から来ましたと返事すると、遠いところからよく来たねと握手をしてきます。
アンナバというアルジェリアでは4番目の大きな都市にいきましたが、中心部の公民館の近くの道路は未舗装のデコボコの土の道です。
各地で建設途中の住宅がたくさんあります。2階部分に鉄筋が出たままで入居しています。足場は単管で組んでいるのはましです。丸太足場もあります。地震がないようなので、柱は細いですね。鉄筋も9ミリ筋のようです。2階部分のコンクリートを打設した1階部分の養生に木の丸太で支えていました。日本の40年前くらいの状況です。
道端での露天などは近所の方や自動車で通りすがりに買い物をするようです。大きなスーパーがないからかもと思います。コンビニ程度の店がたまにあります。
非常に大きな砂漠を抱えた国で、7世紀末から8世紀初頭にかけて、土着のベルベル人たちのところにアラブ人が入り込み、1574年からオスマン帝国は北アフリカのアルジェリア等を支配してきました。1830年にアルジェがフランスに征服された後、征服の最中から植民地化・フランス化が進められ、アルジェリアには多数の「コロン」と呼ばれるフランス人移民が流入し定住した。
アルジェリア独立戦争
1830年以降、フランスはアルジェリアを支配下に置き、1848年に3つの直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)を置いて内地、本国の一部としたほか、1881年に東隣チュニジアをオスマン帝国から確保、1912年に西隣モロッコを保護領として支配下に組み込むなど、北アフリカ支配の拠点としていた。
ヨーロッパ系コロン(ピエ・ノワール)と、同化によって市民権を付与されたユダヤ教徒や一部のムスリム以外の先住民は差別、抑圧されており、1945年の第二次世界大戦終結後、アジアなどから急激に広がった民族自決の流行の中で、反仏抵抗運動が高まっていた。
1954年、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織され、同年11月1日に一斉蜂起を開始した。アルジェリア民族解放戦線は軍事部門であるアルジェリア民族解放軍(ALN)を設立し武装闘争を本格化させた。1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争が行われました。
秘密軍事組織のフランス軍、アルジェリア民族解放戦線、およびアルジェリア人市民に対するテロが激化する中、ドゴールはアルジェリア民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、1962年3月、レマン湖畔・エヴィアン=レ=バンでエビアン協定を締結。アルジェリア独立が承認され、フランス軍とアルジェリア民族解放戦線の戦闘は停止する。4月のフランス本国で行われた国民投票では、大多数の国民が戦争の終結を望み90%以上がアルジェリア独立を支持した。
私は、過去に映画「アルジェの戦い」を見たことがあります。1954年から62年にかけてフランスの支配下にあったアルジェリアで起こった独立戦争を描き、66年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した戦争映画の名作で、アルジェリア市民8万人が撮影に協力し、主要キャストには実戦経験者を含む一般人も多数参加しました。
「カスバの女」という歌がありました。作詞:大高ひさお 作曲:久我山明、歌手:エト邦枝
♬涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬(ほほ) 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリヤ
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け
歌詞の中で「ここは地の果て アルジェリア」という日本からは本当に遠い国です。関空からドバイまで10時間、ドバイからアルジェまで7時間、昔は船での長旅でそれこそ、フランスから渡航なので、地の果てと歌われたのでしょう。個人旅行でのビザは発効が難しいようです。現地の方の招待状を役場で証明してもらう必要があります。または、現地の旅行会社の紹介するホテルの宿泊証明書がなければビザが出ません。
アルジェリアの現地の方はとても明るい方たちです。日本人には親しみを持って接してくれます。ただ、残念なのは、中国人かと聞かれます。日本から来ましたと答えると握手を求めてきます。多数の中国企業が進出していますが、これは何を意味しているのだろうかと。
日本人だけで外出して町を歩けないことも残念です。言葉が通じないこともあるようですし、現地人と同行していても買い物では吹っ掛けるようです。露天の野菜や果物は金額表示がないので相対取引です。交渉次第の値段です。
まだまだ、インフラ整備が遅れています。日本で言えば数十年前の田舎町の感じです。スーパーとか大型店舗がないためか露天商などがかなりあり、コンビニ程度の店はあります。国民はみんな明るくたくましく感じます。
日本ではアルジェリアの観光パンフもありません。GooglMapで見てもストリートビューが点でしか表示がされません。観光客を受け入れるには、まだまだ慣れることと時間がかかるのかも判りません。
現地の郷土料理を食べるのも旅の楽しみですが、食事が苦手な方は、カップラーメンやさとうのご飯、味噌汁、レトルトカレー、梅干しなどを持参すれば何とかなります。私も持参していました。以前はコンロも携行していましたが、ホテルで焚くと火災報知器やスプリングクラーが作動しますので、お湯で温めるかレンジ使用のものを携行します。