旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

粟鹿神社

2022-07-16 22:58:01 | 但馬
2022年7月14日、お参りしました。
「2000年以上の歴史を持つ但馬五社の一つであり、現在も全国から多くの崇敬者を集めています。粟鹿神社には国家の大難に際し、過去4度にわたって勅使が派遣されたと言われています。市の文化財に指定されている勅使門は、勅使が派遣された時と年に1回の秋季例大祭の日にのみ開門します。『鹿が栗を加えて粟鹿山から現れ、人々に農耕を教えた』という伝承により“粟鹿”という名が付けられたと伝えられています。」
兵庫県朝来市山東町粟鹿992
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鳥居

石碑



勅使門(朝来市指定文化財)
「勅使門は、勅使が神社に参向する際、出入りする門である。粟鹿神社では、四回の勅使参向があったことが記録に残っている。創建年は不祥であるが約600年前に創建されたと伝わる。桁行3.95メートル、梁間3.3メートル、妻造りの四脚門形式で、建材の大部分は欅である。屋根は現在銅板葺であるが、以前は桧皮葺であった。柱は、上下に粽を施して基盤の上に立っている。柱上の組物、中構えの三斗詰組、海老虹梁、木鼻等は唐様の手法を示している。本柱の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれている。頭貫には簡単な若草模様が見え、全体的には唐様であるが、妻梁を請ける本柱からの挿し肘木は天竺様の手法がうかがえる。度々の災禍も免れたと伝えられ、数少ない遺構の一つである。」

随神門

木造著色随身倚像(朝来市指定文化財)
「木造著色倚像は、瑞身門に安置されている。制作年代は、両像とも銘文は記されていないが、随身の像内に入れられていた棟札から、江戸時代前期、1755(宝暦5)年に修理されたことが判明する。さらに棟札の裏に1683(天和3)年に再興されたと記されている。台座は候補で、色彩は殆ど剥落し、像内に修理時の補材が見られるが、造立当初の姿をよく留めている。」

「阿形は、随身門の南東部に安置、総高117.6センチメートル、像高(座高)82.2センチメートル、一木造(内刳なし)、彩色、彫眼。左右に緌(おいかけ)を付けた冠をかぶり、口は少し開けて顔をやや左に向ける。朱色の袍を着て、表袴をはき、五本の矢を押した胡簶を背負う。右手に弓を左手に太刀を持つ。」

「吽形は、随身門の北東部に安置、総高122.1センチメートル、像高(座高)87.3センチメートル、一木造(内刳あり)、彩色、彫眼。左右に緌を付けた冠をかぶり、口を閉じて顔をやや右に向ける。黒色の袍を着て、表袴をはく。左腰に太刀を佩き、五本の矢を挿した胡簶を背負う。右手に弓を左手に矢を持つ。」

狛犬(朝来市指定文化財)
「木造著色狛犬像は、随身門に安置されている。制作年代は、両像とも銘文は確認できない。迫力のある表情や力強さが見られる作風は、鎌倉時代風であるが、背筋の後半が湾曲しているのは、制作年代が新しいことを示すものと思われ、江戸時代前期の制作と推定される。台座は後補で、彩色もほとんど剥落し、足先にやや傷みがみられるが、力強く迫力がある当初の姿をよく伝えているのは貴重である。」



手水舎

天満宮





厳島神社

夫婦杉

狛犬



拝殿

本殿





床浦神社

茗荷神社

稲荷神社

猿田彦神社


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高座(たかくら)神社

2022-07-16 21:55:32 | 丹波
2022年7月14日、お参りしました。
由緒書より「創立年代は不祥、当社祭神は丹波国造家の祖神、丹波の守護神として奉納されたと伝えられている。当社は古来旧久下上久下両村の総氏神として年々の祭事が継承され現在に至った。中世には当郷地頭久下氏の祈願所として当町金屋に鎮座していたが、弘治3年(1557)現在地に遷り、徳川時代には谷川領主織田家の崇敬厚く社領の寄進を受けた。現在の本殿は宝永2年(1705)に氏子により再建された。大工棟梁は谷川の清水武右衛門と清水七郎左衛門である。石鳥居は元禄6年(1693)に氏子が建立したものである。」
兵庫県丹波市山南町谷川3557
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社標

鳥居

案内図

手水舎

随神門



中門

フジキ(兵庫県指定文化財)
「マメ科の落葉高木で、『ヤマエンジュ』とも呼ばれ、成長すれば普通15メートル程に達する。本州福島県以西や中国地方の湿気の多い山中にまれに生える。その冬芽は柔らかく、白い帽子のような薄い膜に包まれており、春になるとこの帽子を破って若芽が出る。花は白色で、夏に枝先から15~25センチメートルの複総状花序をつける。種実はマメ科特有のさやに入っていて、さやの大きさは4~9センチメートルになる。当神社のフジキは、根周り6.8メートル、目通幹囲3.5メートル、樹高約20メートルで、兵庫県下はもちろん全国的にも大変貴重なものである。」



石鳥居(丹波市指定文化財)
「この石造鳥居は、高さ4.57メートル、柱の下部真々3.8メートルの、すっきりとして形のよい明神鳥居であるが島木の鼻の截り方はほぼ鉛直で笠木の反増は少ない。向かって左柱前面に1693(元禄6)年の造立年・右柱前面に寄進者名が刻まれている。貫の中央部が破損したために現在は新しい石材と取り替えてあるが、古材は神社に保管してある。石材は谷川地区の奥山から切り出したもので、今でもその跡があるといわれている。」

狛犬



拝殿

本殿(重要文化財)
「建物の身舎は正面5間、背面6間。側面2間、庇1間の流造の正面に、1間の唐破風造の向拝を付け、屋根には左右に千鳥破風を置いています。斗栱は和様三手先で、中備の蟇股、手挟、板支輪等の彫刻や妻組の構成には元禄期の手法を駆使した、県下では例のない18世紀初頭の神社建築であるとともに、当時のおける当町谷川工匠のすぐれた技術を示すものであります。」





















末社






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常勝寺

2022-07-16 21:03:28 | 丹波
2022年7月14日、お参りしました。天台宗の寺院で山号を竹林山と号す。
パンフレットより「はるかなるインドより万里の波涛を越えて渡来した法道仙人(大化年間、孝徳天皇の御代)は、七尾七谷の此の山に七堂伽藍を建て、寺運日増に栄え、僧坊70余の一山地となりましたが永保年間に出火し、堂塔すべて灰燼に帰しました。その後、泉州槙尾山の浄意上人が本堂および末社を建てましたが、1575(天正3)年10月3日、戦国動乱の兵火により、全山ことごとく炎上し、のち当山の智光法印が再建に着手しましたが、工半ばにして遷化し、爾来、寺運なく、荒れるにまかせ、1697(元禄10)年ようやく良海法印が本堂を修造し、寺坊七舎のうち、慈眼、松林、普賢、蓬莱、宝樹の五ケ院とし、寺運更に沈み遂に慈眼院のみとなり、明治に入っても尚風雪つよく、うらぶれの明け暮れでありましたが、霜をふんで山林経営に粉骨し、入りては法灯を高くかかげて諸堂宇修復に砕身し、寺運、日を重ねてよみがえり、今日に至りました。山気清く澄んで深く、千古の老杉は亭々として磴を覆ひ、梢をわたる風邪は野鳥の声をはこび、木漏れ日に映える青葉、若葉、蝉しぐれ、虫の宴、栗鼠に揺らぐ紅葉、冬ざれの石仏等四季の情趣に恵まれております。」
毎年2月11日午後2時執行の「鬼こそ」(追儺式)は、法道仙人に従う四鬼が、その徳に感化され、五穀豊穣を祈って本堂をめぐる。
兵庫県丹波市山南町谷川2630
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鬼こその寺
「常勝寺では、毎年『鬼こそ』が行われる。五穀豊穣、無病息災を祈願する会式で、おにうち(鬼打)ついな(追儺)おにやらい(鬼遣)など様々呼称があるが、当寺では『鬼こそ』と称している。太鼓、ほら貝、鐃、鈸などの仏具を打ち鳴らすことから『鼓騒』(戦場で太鼓を打ち鳴らし鬨の声をあげて騒ぐこと)が訛ったものではないか。鬼追い会式は播磨地方に多く見られるが、丹波地方には当寺にしか伝承しておらず、他に比べて鬼面の大きいのも特色である。」

仁王門







参道、360段を登ります。

由緒書

参道









塔頭寺院





















手水鉢



本堂























薬師堂



宝篋印塔

石碑

弁財天



















鐘楼堂












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荘厳寺

2022-07-16 20:25:57 | 丹波
2022年7月14日、お参りしました。
由緒書より「当山は、652(白雉3)年に法道仙人の開基と伝えられる観音霊場である。慶長年間(1596〜)に、徳禅上人が当山に入り、堂宇を修復して再興され、爾来真言宗高野山派の末寺として法幢を輝かした。盛時には本堂への参道沿いに10か寺の塔頭を構えました。宝暦年間(1751~)には社町の朝光寺と鴨川の西光寺(廃寺)を行場とする権現信仰の修験道の寺として交流していたことが伺える。大河ドラマの主人公となった秀吉の軍師・黒田官兵衛の出生地との説を主張する『荘厳寺本黒田家略系図』を所蔵・展示(複製)しており、持仏堂には歴代城主の位牌も安置しています。」
兵庫県西脇市黒田庄町黒田1589
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西脇市観光マップ

黒田里
「播磨国風土記ゆかりの地、託賀郡の章に登場します。黒田里は、土が黒いので里の名としました。中世には一帯が荘園となったので『黒田庄」と呼ばれ、その後自治体名にも引き継がれ、西脇市との合併後も大字名として残っています。黒田里の記述で登場する『袁布(きふ)山は昔、宗像大神の奥津島比売命(福岡県宗像郡の宗像神社に鎮座する三女神の中の一神)が、播磨国の神様の伊和大神の子を身籠もり、この地にやって来て、『私が子を産むときになったので、をふ(=やりとげるの意味)と言った山なので、名づけられました。また、『支閇(きへ)丘』というのは、宗像大神が『子を産む月が尽ぬと言われた地なので名づけられたとあります。この『『袁布山』は、黒田庄町黒田にある『前山」と呼ばれる山が比定されており、『支閇丘』は黒田庄町田高と丹波市山南町井原との境にある『イタリ山』と考えられています。」
軍師・官兵衛の里
「播磨古事」「播磨鑑」「播陽古城記」など江戸時代に編纂された播磨の資料には、黒田官兵衛やその父は、多可郡黒田村(現在の西脇市黒田庄町黒田)の生まれとするものが多くあり、西脇市内には官兵衛や黒田家ゆかりの場所が点在しています。ここ黒田集落には、北播磨随一の紅葉の名所として知られ、黒田氏の発症から嫡流の滅亡までを記した「荘厳寺本 黒田家略系図」を所蔵する荘厳寺、黒田氏9代の居城と伝わる黒田城址、城に付随する邸宅跡と伝わり、黒田官兵衛誕生地の石碑が立つ「姥が懐」などのゆかりの地があります。」

播磨黒田氏と黒田城
「播磨黒田氏は、赤松円光(赤松円心則村の弟)を元祖とする赤松庶流の一族です。1351(観応2)年3月円光の子・七郎重光がこの黒田城に移り、播磨黒田氏の始祖、初代となりました。以来その子孫は、九代、二百数十年にわたり、黒田城主として存続しました。八代黒田城主・黒田下野守重隆に男子二人あり、兄が治隆、弟が孝隆です。治隆は父重隆の家督を継いで九代城主となりましたが、元亀の頃(1570年代初め)合戦に敗れて戦死、播磨黒田氏は滅亡しました。それより前、弟の孝隆は、姫路城主・小寺美濃守職隆の猶子(養子)となっており、小寺官兵衛を名のって、播磨の国飾東郡の御着城主・小寺氏の家老となっておりました。この小寺官兵衛が豊臣秀吉の参謀役として有名な黒田官兵衛(如水)です。当地、黒田は、官兵衛の先祖、赤松庶流・黒田氏の根本地であり、しかも黒田官兵衛自身の出生地です。これらは、心光寺旧記等の姫路の古文書、そして当山所蔵の荘厳寺本黒田家略系図の史料研究によって、近年はじめて判明した新事実です。」

塔頭・法音院山門















280段の階段を登ります。



鐘楼堂

梵鐘
「姫路城主の本田政勝氏から1649(慶安2)年に寄進される。」

鎮守社

稲荷社

手水鉢



本堂
「本尊十一面観世音菩薩を祀る。脇侍像仙人の立像台座に慶長16年の墨書がある。」









多宝塔(兵庫県指定文化財)
「本堂近くに立つ、檜皮葺きの屋根に円筒形の2層目が特徴的な多宝塔は建久年間(1190〜)に造立、1711(正徳元)年に再建されている。」






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兵主(ひょうす)神社

2022-07-16 18:08:31 | 西脇市
2022年7月14日、お参りしました。
「社伝によれば、782(延暦元)年に大和国から播磨国の国衙へと赴任した岡本修理太夫藤原知恒が森林を開いて社殿を作り、2年後の784(延暦3)年6月1日に大和国穴師の兵主神社(現在の奈良県桜井市穴師の「穴師坐兵主神社」)から神を勧請したと伝えられています。式内社で、「ひょうすさん」と呼ばれる大志郷(黒田庄町南部)の氏神様です。」
兵庫県西脇市黒田庄町岡372-2
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社標

石灯籠

鳥居・随神門

茅輪

手水舎



お牛様

神馬

狛犬



拝殿(兵庫県指定文化財)
「茅葺入母屋造の長床式で、安土桃山時代の建築様式をとどめており、全国的にも貴重なものです。羽柴秀吉が三木城の別所長治を攻めた際に、戦勝祈願のため臣下の黒田官兵衛が灯明田を献納し、拝殿はその奉納金によって改築されたと伝えられています。棟札から1591(天正19)年の改築であることが分かります。」



本殿

雨降りで写りが悪いですね。





末社


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西仙寺

2022-07-16 17:37:40 | 西脇市
2022年7月14日、お参りしました。
由緒書より「山号は和多山と号す。西仙寺(さいせんじ)は、651(白雉2)年に西天竺の大仙、法道仙人が同地に一寺を建立し、宝塔に仏舎利を安置して開創されました。749(天平勝宝元)年には播磨巡訪中だった行基菩薩が仏舎利から発せられる光明に感嘆し、自ら十一面千手観音像を刻んで殿堂を建立したと伝わります。南北朝時代、播磨の豪族赤松家六代則祐と一族の帰依を受けて寺は隆盛を誇ります。『東寺の三宝』のひとり賢宝阿闍梨であり、のちに『西仙寺復興の祖師』と称される赤松氏出身の良円上人が堂宇の大整備を行ったほか、高野山で最高職位である検校法印を務めた梅本院の快舜など傑僧も輩出しました。」
「孝徳天皇の病気平癒のために建立されたと伝わります。姫路城主の本多忠刻の妻・千姫が田畑を寄進し、亡くなったわが子の霊を祈るため信仰を寄せたことなどでも知られています。境内には赤松則祐など武将の墓も残っており、兵庫県の重要有形文化財の本堂横には、西脇市の文化財に指定されている五輪塔や釈迦三尊板碑なども見ることができます。」
兵庫県西脇市西田町88
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寺標

西脇市観光マップ

西仙寺案内マップ

参道入り口

持仏護摩堂(梅本院)
「塔頭・梅本院跡。現在は金蔵院の持仏堂として釈迦如来を祀るほか、堂内左側に不動護摩堂、右側に大師堂が組み込まれています。」





地蔵菩薩・堅観世音・不動明王

修行大師

山門(中門)







弁財天



四国遍路道



鐘楼



薬師堂
「薬師三尊が祀られています。」

求聞持三昧堂
「弘法大師も修行した苦行求聞持法を行うためのお堂」

石造五輪塔(西脇市指定文化財)
「1427(応永34)年10月17日に当山にて入寂した良円上人の五輪塔です。」

宝篋印塔
「陀羅尼の御利益が刻まれています。」



本堂(兵庫県指定文化財)
「間口五間の大規模な本堂は、宝形造の大屋根が重量感たっぷり。内部は広く、真言宗最高の儀式、灌頂が行われていた特別な道場としての威容を今に伝えています。建立は1523(大永3)年とみられ、1676(延宝4)年から1682(天和2)年にかけて金蔵院頼雄による大修理が行われるなど、改造の跡が随所に見られます。」









熊野権現社(兵庫県指定文化財)
「鎮守社で、本堂と同じ大永頃の建立とみられています。」



訶梨帝母社

護法善神社

石造釈迦三尊板碑(西脇市指定文化財)
「1593(文禄2)年建造の読誦塔です。」


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