2018年5月23日、愛知観光で西尾市の久麻久神社にお参りしました。
久麻久神社
説明書より「当社の創建は古く明確ではないが、延喜式神名帳所載の古社で近畿十七か村の総氏神として崇敬されていた。旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より久麻久連一族が開拓したと伝えられ、その産土神が本社である。文武天皇の大宝年間(701~4)に須佐之男命を新たにお祭りし大宝天王宮と称した。その後、八ツ面山の西麓、荒川城の城主「荒川甲斐守義弘」これを崇敬し、堂宇を再興し「荒川大宝天王宮」と称した。荒川氏没後、徳川家康は家臣の鳥居元忠に現在地に奉還させたと伝えられる。明治元年社名を旧名「久麻久神社」に復した。本殿は室町時代後期の代表建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天王像は藤原時代の作で県下最古のもの。」
愛知県西尾市八ツ面町麓77番
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幡頭神社
説明書より「大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社で、旧幡豆郡では西尾市の久麻久神社とともに古い由緒をもつ神社である。祭神は東征の勅命を受けた日本武尊の旗頭の役を勤めた建稲種命で、東征の帰路駿河湾で遭難蛭子岬に漂着した遺骸をこの地に葬ったという。以来この地を旗頭といい、幡豆と書くようになったとも言われている。本殿は天正8年(1580)の建築で桃山時代の建築様式を伝える。屋根は桧皮葺で大きく反り返った曲線が美しい。丸柱や長押および虹梁などは太く力強い。虹梁は直線的で絵様が小さく、蟇股の内部の彫刻も素朴で全体に堅実な手法がとられた秀作である。」
愛知県西尾市吉良町宮崎宮前60
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鳥居
拝殿
本殿(重要文化財)
「室町後期の大永7年(1527)建築、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝三間、檜皮葺。」
熊野神社(愛知県指定文化財)
久麻久神社
説明書より「当社の創建は古く明確ではないが、延喜式神名帳所載の古社で近畿十七か村の総氏神として崇敬されていた。旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より久麻久連一族が開拓したと伝えられ、その産土神が本社である。文武天皇の大宝年間(701~4)に須佐之男命を新たにお祭りし大宝天王宮と称した。その後、八ツ面山の西麓、荒川城の城主「荒川甲斐守義弘」これを崇敬し、堂宇を再興し「荒川大宝天王宮」と称した。荒川氏没後、徳川家康は家臣の鳥居元忠に現在地に奉還させたと伝えられる。明治元年社名を旧名「久麻久神社」に復した。本殿は室町時代後期の代表建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天王像は藤原時代の作で県下最古のもの。」
愛知県西尾市八ツ面町麓77番
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幡頭神社
説明書より「大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社で、旧幡豆郡では西尾市の久麻久神社とともに古い由緒をもつ神社である。祭神は東征の勅命を受けた日本武尊の旗頭の役を勤めた建稲種命で、東征の帰路駿河湾で遭難蛭子岬に漂着した遺骸をこの地に葬ったという。以来この地を旗頭といい、幡豆と書くようになったとも言われている。本殿は天正8年(1580)の建築で桃山時代の建築様式を伝える。屋根は桧皮葺で大きく反り返った曲線が美しい。丸柱や長押および虹梁などは太く力強い。虹梁は直線的で絵様が小さく、蟇股の内部の彫刻も素朴で全体に堅実な手法がとられた秀作である。」
愛知県西尾市吉良町宮崎宮前60
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鳥居
拝殿
本殿(重要文化財)
「室町後期の大永7年(1527)建築、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝三間、檜皮葺。」
熊野神社(愛知県指定文化財)
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