2019年9月25日、1泊2日の北陸観光で越前大野城を見学し、大野市の町を散策しました。
大野の街並み
『大野は古くから、越前・美濃両国を結ぶ交通の要所として栄えてきました。 1575(天正3)年には、金森長近が、戦功により大野の大部分を統治するようになり、 長近はまず亀山に城を構築するとともに、京都に似た碁盤目状(短冊型)の城下町の建設に着手しました。 大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となります。これが現市街地の起源となり、以後約430年間、大野は奥越前の中心地として栄えてきました。』
幕末の大野藩
「土井利忠は、1818(文政元)年、8歳で大野藩主となった。当時の藩財政は非常に苦しく、洪水、火事、凶作など度重なる災害によって多額の借金をかかえていた。そこで、利忠による藩政改革は、1842(天保13)年、「更始の令」というかつてないほどの倹約令ではじめられ、まず、藩財政の立て直しと、有能な人材の登用及び養成を柱にして進められました。1843(天保14)年、藩校「明倫館」を開設し、内山隆佐ほか数人を世話役に抜擢した。藩の収入の100分の4を学費にあて、武士の子弟のみならず、庶民の子ども達も入学できるようにした。教科書には、朱子学を学ばせるため、四書五経が使われた。その他、武術、砲術などの訓練も含められていた。また、藩が力をいれたものに蘭学の研究がある。1856(安政3)年には、藩校「洋学館」を開設し、緒方洪庵の適塾の塾頭伊藤慎蔵を教師に招いた。洋書の翻訳や出版された書物は多数にのぼり、さらに教えを受ける者は全国各地から集まった。藩の財政を少しでもゆとりあるものにするため、内山七郎右衛門(良休)は、大野の産物を大阪やその他の都市へ売り出して利益をあげることを提案した。そこで、1855(安政2)年、大阪に「大野屋」を開店した。良く寝んには、北海道の函館、翌々年には、大野城下一番町に「大野屋本店」、さらに全国各地に店を出した。商品は煙草・生糸・麻・漆などの大野の物産、また面谷鉱山の銅・金銀を売り、藩の財政を助けた。時同じくして、蝦夷地(北海道及び樺太)開拓を志願するものは申し出るようにというお触れが出された。そこで、幕府に伺いを立て、翌年、内山隆佐、早川弥五左衛門、吉田拙蔵らは、蝦夷地探索に向かった。探索の結果を幕府に報告し、口蝦夷開拓許可願を申し出たが、許可は得られなかった。1857(安政4)年、再び蝦夷地の探索に向かい、奥蝦夷地(樺太)の西海岸での開拓を許可され、早川は屯田司令となった。このときに、早川らが最も不便に感じていたのは藩に船がないことであった。そのため、内山隆佐は、利忠の許可を得て、江戸で長さ十八間、幅四間、深さ三間の西洋型二本マストの帆船「大野丸」をつくらせた。そして、幕府の海軍所で操縦術を学んだ吉田拙蔵が船長となり、1859(安政6)年以降、敦賀から函館間を航行し、奥蝦夷地開拓に活躍し、奥蝦夷地が大野藩の準領地として幕府に認められるまでになった。この頃、蝦夷地における大野藩の努力を背景にして、大野屋の商売は一段とのびていった。このほかにも、他藩に先駆けて、福利厚生の面でも優れた治世ぶりで、1854(安政元)年に広く一般に種痘をすすめ、1857(安政4)年には「済生病院」を開設し、いろいろな治療にあたり、現在に通じる医学書を揃え、研究も怠らなかった。」
大野市観光協会( 福井県大野市元町10−23)に自動車を止めて散策です。反時計回りに進みます。
元町会館
越前大野の案内図
七間通り、400年以上の歴史を誇る七間朝市が開かれる通り、和菓子や酒屋、醤油など様々な商店が並ぶ。
五番通り、菓子屋や玩具屋、呉服屋、金物屋、造り酒屋などが並ぶ。
寺町通り
「織田信長の武将金森長近は、城づくりと同じ城下町づくりも行いました。町筋は東西にのびる六筋と南北六筋が直交する区画とし、この南北筋の東端には寺町を設け、城下をかためる型としました。京を模してつくられた町筋は、現在でも城下町の風情を残しています。」
妙典寺、日蓮宗一乗山
「啓蒙医・松村矩明の墓がある。実父は中村寿仙、藩主の命により九山の養嗣となる。1842年に生まれ1877年没す。伊藤慎蔵に蘭学、松本良順に洋医学を学び大坂大学大教授になる。解剖医学書の著書が多い。」
圓立寺
「日蓮宗・真應山で、1556(弘治二)年創建。もと土橋の庄にありましたが、城下町建設1576(天正四)年の際、現在地に移転しました。代々領主の帰依厚く、祈願所となり、殊には松平直良の菩提寺でした。本堂にある扇の欄間は大野市指定文化財。」
大雄院
「鉄路の王者・加賀山家、元国鉄総裁加賀山之雄氏の菩提寺で代々の墓碑がある。先主は細川家、奥田姓で土井家に士官し1871年加賀山に改姓、藩内の信厚く各地の藩店大野屋経営に業績をあげてきた。」
大宝寺
「真言宗高野派で山号は恵日山、正平年中(1346~1370)創建。歴代城主の祈願所で、蘭学者・山崎譲の墓所がある。1855年選ばれて適塾に入門、後大野藩蘭館助学教授となり藩内の人材育成に精勤し1864年没す。」
願成寺
「高野山真言宗で、薬師如来を本尊とし、河濯大権現を合祀する珍しい寺院。寺には子宝や子どもの成長を願って奉納された人形が多く保存されている。梅屋治助が作った土人形は、大野市文化財に指定されている。」
箱館戦争戦死者墓碑
「大野藩兵は箱館戦争に200名出征し11名戦士した。」
長興寺
「琴祠橋の生みの親・尾崎琴洞墓、大野の農民史、産業経済史、社会福祉史、政治史に不朽の名を残している。又その人柄が皆に慕われ町の南郊明治の宮に祭神として祀られている。万葉かな碑文がその業績を残す・中村岱佐墓、1853年藩医となり、1856年大野藩の蝦夷地探検に加わり翌年船医として藩船大野丸に乗船、帰藩後も洋医として種痘普及に尽力する。」
奥の院・時宗遍照山
善導寺
「1558(永禄元)年、大譽鏡山和尚が一宇を建立したのが始まりと言われています。浄土宗光明山で、大野藩主・土井家の菩提寺。立派な鐘楼と長屋門があります。」
誓念寺・浄土真宗本願寺派
「開基は道覚、1560(永禄3)年泉庄内中津川村に一宇を草創し、第三代道順が1665(寛文5)年松平但馬守直良の招請により現在の境内地を拝領して現在にいたる。本尊は阿弥陀如来」
八幡神社
願了寺
「浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来、開基は1390(明徳元)年、第三世坊賢願い1457(長禄元)年に現在地に移し、1461(寛正元)年寺号を元了寺と許可される。1746(延享3)年寺号を願了寺と改め今日に至る。」
毘沙門通り
長勝寺・浄土真宗本願寺派、北袋山
「宝徳年間(1449-1451)に創立、開基は西順で旧大野郡野向村北野津又に一宇建立、四代空順平泉寺に移り、五代正順が松平出羽守直政郷より現在地免許の上移転し現在に至る。」
塀に狭間があります。
浄勝寺・浄土真宗本願寺派、柴雲山
「西實法師の開基、1626(寛永3)年2月、松平大和守より領受、一宇の後1597(慶長2)年4月5日建立、後大火に遭い再建後、勝山猪野口の寺に譲渡し元本堂を昭和18年に完成し現在に至る。鐘楼堂は1857(安政4)年、山門は1858(安政5)年に建立。」
再び通りに
石灯籠通り
三番通り交差点
案内図
井戸
二番通り、昔は「捌(さばき)屋敷」と呼ばれた借家が多く、細工職人や大工屋、煙草屋、紺屋などの職人が多く、藩の御典医や町医者も住んでいた。
石灯籠地蔵尊
「石灯籠地蔵尊の安置は、いまは去る400余年前にさかのぼると伝えられている。時の領主は織田信長の武将金守長近であった。長近は、天正年間(1573-1593)、亀山山頂に天守閣を築き、東麓に二の丸・三の丸をおいた。また、京都にならい城下町の建設をすすめた。武家屋敷は、二の丸・三の丸を囲み、商工業者の居住地として、南北に一番町・二番町・三番町・四番町・五番町・寺町の六筋をおき、東西には大鋸町・六間町・七間町・八間町・石灯籠通り、正膳町の六筋を区画した。こうして奥越前に、碁盤目の区画の美しい小京都が出現した。この城下町縄張り(測量)の基点とされた石灯籠通り一番町見付けに、測量縄その他の用具が埋められ、その地に石灯籠地蔵尊が安置されたといわれている。」
石灯籠会館、休憩所になっています。
溝は当時の生活で小川として利用していた面影がありますね。
武家屋敷旧田村家(大野市指定文化財)
「旧田村家は大野藩の家老を勤めた田村又左衛門家の屋敷跡です。1759(宝暦9)年、代々家老を勤めた田村左兵衛家から分家し、大野城の外堀の内、三の丸に屋敷が与えられました。禄高は100石から始まりましたが、二代目の俊強が家老を勤めると、1839(天保10)年に300石に加増されました。主屋は、1827(文政10)年の類焼後に、農村部から古屋を移築・改築した建物で、県内でも数少ない現存する武家住宅の一つです。」
武家屋敷旧内山家
「旧内山家は城郭の東にあり、大野城の百間堀はこの旧内山家の前にのみ残っている。敷地は約三千㎡で、西は柳町通りに面し、東に排水路が通る。これは一番通りとの背割線である。敷地はかつて南北91~96mあったが、南の約30mは隣接の病院等に割譲し、現在の広さとなった。旧内山家住宅は、明治15年頃に建てられた母屋と大正期に建てられた離れが渡り廊下でななめに繋がれ、門の脇に味噌蔵、南西隅に米蔵、その北に隣接して衣装蔵がある。これらに囲まれて二つの池を流れで結んだ庭園を築くが、これは離れの建築を機に作り直した可能性がある。」
時鐘
「明治時代の初めごろ、鐘を打ち鳴らして時を知らせる時鐘という建物が、西一番にあった。時鐘は1888(明治21)年の大野町大火で焼けたが、つられていた鐘は大野町役場の屋根上の小屋に移された。1922(大正11)年、町役場は現在の越前おおの結楽座のあたりに移転したが、鐘もいっしょに移され、昭和時代まで時を知らせていた。」
結ステーション
芹川清水
藩主隠居所
「この建物は、幕末の大野藩主土井利忠(大野藩主土井家七代)が1862(文久2)年に家督を三男利恒に譲り、1868(明治元)年12月に死去するまでの間、生活していた隠居所だったと伝えられています。」
柳廼社
「第七代大野藩主井利忠公の遺徳を顕彰して建立され、今日まで大野の鎮守として親しまれ、祭礼には多くの露店が並び全市をあげての祭りとして賑わって参りました。」
参道
狛犬
拝殿
本殿
末社
内山良休の碑
旅館三浦屋
ゆっくりと一日かけて回るといい町ですね。
大野の街並み
『大野は古くから、越前・美濃両国を結ぶ交通の要所として栄えてきました。 1575(天正3)年には、金森長近が、戦功により大野の大部分を統治するようになり、 長近はまず亀山に城を構築するとともに、京都に似た碁盤目状(短冊型)の城下町の建設に着手しました。 大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となります。これが現市街地の起源となり、以後約430年間、大野は奥越前の中心地として栄えてきました。』
幕末の大野藩
「土井利忠は、1818(文政元)年、8歳で大野藩主となった。当時の藩財政は非常に苦しく、洪水、火事、凶作など度重なる災害によって多額の借金をかかえていた。そこで、利忠による藩政改革は、1842(天保13)年、「更始の令」というかつてないほどの倹約令ではじめられ、まず、藩財政の立て直しと、有能な人材の登用及び養成を柱にして進められました。1843(天保14)年、藩校「明倫館」を開設し、内山隆佐ほか数人を世話役に抜擢した。藩の収入の100分の4を学費にあて、武士の子弟のみならず、庶民の子ども達も入学できるようにした。教科書には、朱子学を学ばせるため、四書五経が使われた。その他、武術、砲術などの訓練も含められていた。また、藩が力をいれたものに蘭学の研究がある。1856(安政3)年には、藩校「洋学館」を開設し、緒方洪庵の適塾の塾頭伊藤慎蔵を教師に招いた。洋書の翻訳や出版された書物は多数にのぼり、さらに教えを受ける者は全国各地から集まった。藩の財政を少しでもゆとりあるものにするため、内山七郎右衛門(良休)は、大野の産物を大阪やその他の都市へ売り出して利益をあげることを提案した。そこで、1855(安政2)年、大阪に「大野屋」を開店した。良く寝んには、北海道の函館、翌々年には、大野城下一番町に「大野屋本店」、さらに全国各地に店を出した。商品は煙草・生糸・麻・漆などの大野の物産、また面谷鉱山の銅・金銀を売り、藩の財政を助けた。時同じくして、蝦夷地(北海道及び樺太)開拓を志願するものは申し出るようにというお触れが出された。そこで、幕府に伺いを立て、翌年、内山隆佐、早川弥五左衛門、吉田拙蔵らは、蝦夷地探索に向かった。探索の結果を幕府に報告し、口蝦夷開拓許可願を申し出たが、許可は得られなかった。1857(安政4)年、再び蝦夷地の探索に向かい、奥蝦夷地(樺太)の西海岸での開拓を許可され、早川は屯田司令となった。このときに、早川らが最も不便に感じていたのは藩に船がないことであった。そのため、内山隆佐は、利忠の許可を得て、江戸で長さ十八間、幅四間、深さ三間の西洋型二本マストの帆船「大野丸」をつくらせた。そして、幕府の海軍所で操縦術を学んだ吉田拙蔵が船長となり、1859(安政6)年以降、敦賀から函館間を航行し、奥蝦夷地開拓に活躍し、奥蝦夷地が大野藩の準領地として幕府に認められるまでになった。この頃、蝦夷地における大野藩の努力を背景にして、大野屋の商売は一段とのびていった。このほかにも、他藩に先駆けて、福利厚生の面でも優れた治世ぶりで、1854(安政元)年に広く一般に種痘をすすめ、1857(安政4)年には「済生病院」を開設し、いろいろな治療にあたり、現在に通じる医学書を揃え、研究も怠らなかった。」
大野市観光協会( 福井県大野市元町10−23)に自動車を止めて散策です。反時計回りに進みます。
元町会館
越前大野の案内図
七間通り、400年以上の歴史を誇る七間朝市が開かれる通り、和菓子や酒屋、醤油など様々な商店が並ぶ。
五番通り、菓子屋や玩具屋、呉服屋、金物屋、造り酒屋などが並ぶ。
寺町通り
「織田信長の武将金森長近は、城づくりと同じ城下町づくりも行いました。町筋は東西にのびる六筋と南北六筋が直交する区画とし、この南北筋の東端には寺町を設け、城下をかためる型としました。京を模してつくられた町筋は、現在でも城下町の風情を残しています。」
妙典寺、日蓮宗一乗山
「啓蒙医・松村矩明の墓がある。実父は中村寿仙、藩主の命により九山の養嗣となる。1842年に生まれ1877年没す。伊藤慎蔵に蘭学、松本良順に洋医学を学び大坂大学大教授になる。解剖医学書の著書が多い。」
圓立寺
「日蓮宗・真應山で、1556(弘治二)年創建。もと土橋の庄にありましたが、城下町建設1576(天正四)年の際、現在地に移転しました。代々領主の帰依厚く、祈願所となり、殊には松平直良の菩提寺でした。本堂にある扇の欄間は大野市指定文化財。」
大雄院
「鉄路の王者・加賀山家、元国鉄総裁加賀山之雄氏の菩提寺で代々の墓碑がある。先主は細川家、奥田姓で土井家に士官し1871年加賀山に改姓、藩内の信厚く各地の藩店大野屋経営に業績をあげてきた。」
大宝寺
「真言宗高野派で山号は恵日山、正平年中(1346~1370)創建。歴代城主の祈願所で、蘭学者・山崎譲の墓所がある。1855年選ばれて適塾に入門、後大野藩蘭館助学教授となり藩内の人材育成に精勤し1864年没す。」
願成寺
「高野山真言宗で、薬師如来を本尊とし、河濯大権現を合祀する珍しい寺院。寺には子宝や子どもの成長を願って奉納された人形が多く保存されている。梅屋治助が作った土人形は、大野市文化財に指定されている。」
箱館戦争戦死者墓碑
「大野藩兵は箱館戦争に200名出征し11名戦士した。」
長興寺
「琴祠橋の生みの親・尾崎琴洞墓、大野の農民史、産業経済史、社会福祉史、政治史に不朽の名を残している。又その人柄が皆に慕われ町の南郊明治の宮に祭神として祀られている。万葉かな碑文がその業績を残す・中村岱佐墓、1853年藩医となり、1856年大野藩の蝦夷地探検に加わり翌年船医として藩船大野丸に乗船、帰藩後も洋医として種痘普及に尽力する。」
奥の院・時宗遍照山
善導寺
「1558(永禄元)年、大譽鏡山和尚が一宇を建立したのが始まりと言われています。浄土宗光明山で、大野藩主・土井家の菩提寺。立派な鐘楼と長屋門があります。」
誓念寺・浄土真宗本願寺派
「開基は道覚、1560(永禄3)年泉庄内中津川村に一宇を草創し、第三代道順が1665(寛文5)年松平但馬守直良の招請により現在の境内地を拝領して現在にいたる。本尊は阿弥陀如来」
八幡神社
願了寺
「浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来、開基は1390(明徳元)年、第三世坊賢願い1457(長禄元)年に現在地に移し、1461(寛正元)年寺号を元了寺と許可される。1746(延享3)年寺号を願了寺と改め今日に至る。」
毘沙門通り
長勝寺・浄土真宗本願寺派、北袋山
「宝徳年間(1449-1451)に創立、開基は西順で旧大野郡野向村北野津又に一宇建立、四代空順平泉寺に移り、五代正順が松平出羽守直政郷より現在地免許の上移転し現在に至る。」
塀に狭間があります。
浄勝寺・浄土真宗本願寺派、柴雲山
「西實法師の開基、1626(寛永3)年2月、松平大和守より領受、一宇の後1597(慶長2)年4月5日建立、後大火に遭い再建後、勝山猪野口の寺に譲渡し元本堂を昭和18年に完成し現在に至る。鐘楼堂は1857(安政4)年、山門は1858(安政5)年に建立。」
再び通りに
石灯籠通り
三番通り交差点
案内図
井戸
二番通り、昔は「捌(さばき)屋敷」と呼ばれた借家が多く、細工職人や大工屋、煙草屋、紺屋などの職人が多く、藩の御典医や町医者も住んでいた。
石灯籠地蔵尊
「石灯籠地蔵尊の安置は、いまは去る400余年前にさかのぼると伝えられている。時の領主は織田信長の武将金守長近であった。長近は、天正年間(1573-1593)、亀山山頂に天守閣を築き、東麓に二の丸・三の丸をおいた。また、京都にならい城下町の建設をすすめた。武家屋敷は、二の丸・三の丸を囲み、商工業者の居住地として、南北に一番町・二番町・三番町・四番町・五番町・寺町の六筋をおき、東西には大鋸町・六間町・七間町・八間町・石灯籠通り、正膳町の六筋を区画した。こうして奥越前に、碁盤目の区画の美しい小京都が出現した。この城下町縄張り(測量)の基点とされた石灯籠通り一番町見付けに、測量縄その他の用具が埋められ、その地に石灯籠地蔵尊が安置されたといわれている。」
石灯籠会館、休憩所になっています。
溝は当時の生活で小川として利用していた面影がありますね。
武家屋敷旧田村家(大野市指定文化財)
「旧田村家は大野藩の家老を勤めた田村又左衛門家の屋敷跡です。1759(宝暦9)年、代々家老を勤めた田村左兵衛家から分家し、大野城の外堀の内、三の丸に屋敷が与えられました。禄高は100石から始まりましたが、二代目の俊強が家老を勤めると、1839(天保10)年に300石に加増されました。主屋は、1827(文政10)年の類焼後に、農村部から古屋を移築・改築した建物で、県内でも数少ない現存する武家住宅の一つです。」
武家屋敷旧内山家
「旧内山家は城郭の東にあり、大野城の百間堀はこの旧内山家の前にのみ残っている。敷地は約三千㎡で、西は柳町通りに面し、東に排水路が通る。これは一番通りとの背割線である。敷地はかつて南北91~96mあったが、南の約30mは隣接の病院等に割譲し、現在の広さとなった。旧内山家住宅は、明治15年頃に建てられた母屋と大正期に建てられた離れが渡り廊下でななめに繋がれ、門の脇に味噌蔵、南西隅に米蔵、その北に隣接して衣装蔵がある。これらに囲まれて二つの池を流れで結んだ庭園を築くが、これは離れの建築を機に作り直した可能性がある。」
時鐘
「明治時代の初めごろ、鐘を打ち鳴らして時を知らせる時鐘という建物が、西一番にあった。時鐘は1888(明治21)年の大野町大火で焼けたが、つられていた鐘は大野町役場の屋根上の小屋に移された。1922(大正11)年、町役場は現在の越前おおの結楽座のあたりに移転したが、鐘もいっしょに移され、昭和時代まで時を知らせていた。」
結ステーション
芹川清水
藩主隠居所
「この建物は、幕末の大野藩主土井利忠(大野藩主土井家七代)が1862(文久2)年に家督を三男利恒に譲り、1868(明治元)年12月に死去するまでの間、生活していた隠居所だったと伝えられています。」
柳廼社
「第七代大野藩主井利忠公の遺徳を顕彰して建立され、今日まで大野の鎮守として親しまれ、祭礼には多くの露店が並び全市をあげての祭りとして賑わって参りました。」
参道
狛犬
拝殿
本殿
末社
内山良休の碑
旅館三浦屋
ゆっくりと一日かけて回るといい町ですね。
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