2014年5月13日
天台宗叡山派、山号は比金山です。寺の旧記によると大化元年(645)法道仙人の開基とされ、承和の末年に慈覚大師が入唐した時に得た文殊菩薩像を安置、 後に仁寿元年(851)には文殊堂、阿弥陀堂を建立したとされます。その後荒廃したものを、正暦年間(990~994)に願西上人が復興しました。隆盛時 には24坊、境内は東西1744メートル、南北1308メートルの広大な寺域であったと伝えます。
境内は広く、整備がされています。ウグイスが鳴いたり、セキレイが飛び回り、筍が大きくなっていました。
神戸市西区櫨谷町谷口259
map
仁王門(寺院に行く途中の道路にあります。)



説明書

文殊堂
桁行5間、梁間4間、入母屋造本瓦葺で、国指定重要文化財(建造物)になってます。旧記によれば、仁寿年間(851~854)に円仁僧都が文殊像を造り、文殊楼を建てて安置したとあり、文殊堂の創立はそこまで遡ります。ただし、現在の文殊堂は様式や墨書によると室町時代中頃のもののようです。応永13年(1406)、大洪水、大風、大地震があり、諸堂ことごとく倒れ、天文8年(1539)本堂諸楼ことごとく炎上とありますが、文殊堂は罹災を免れたようです。江戸時代初め極度に荒廃していたらしく、寛文、元禄の頃、柱の過半が取り替えられ、柱間の装置はすべて改造され、文化年間にも屋根回り、縁、高欄などに大修理が加えられ、現在に至ったようです。




三重塔
阿弥陀堂と対面した高台に立つ三重塔は、国指定重要文化財(建造物)になってます。元和5年(1619)の修理の際に発見された龍車(塔上部の相輪の部分)の刻銘によって至徳2年(1385)に建てられたことがわかりました。軒の出が深く美しい純和様の建造物で三層各階には、それぞれ大日・釈迦・多宝如来を安置して法華経と密教思想の融合を表しています。







阿弥陀堂
国指定重要文化財(建造物)になってます。
もと常行三昧堂と呼ばれていた堂です。大きな面取りの柱や丈の高い斗(ます)などに古式を残している一方、繊細な折上小組格天井をつけ、身舎(もや)の4 本の柱のうち、後ろ2本を後退させているなど、中世的な手法も認められます。また、中央間を特に広く取り、蔀戸を吊る外観は住宅風です。



供養塔

境内にて








天台宗叡山派、山号は比金山です。寺の旧記によると大化元年(645)法道仙人の開基とされ、承和の末年に慈覚大師が入唐した時に得た文殊菩薩像を安置、 後に仁寿元年(851)には文殊堂、阿弥陀堂を建立したとされます。その後荒廃したものを、正暦年間(990~994)に願西上人が復興しました。隆盛時 には24坊、境内は東西1744メートル、南北1308メートルの広大な寺域であったと伝えます。
境内は広く、整備がされています。ウグイスが鳴いたり、セキレイが飛び回り、筍が大きくなっていました。
神戸市西区櫨谷町谷口259
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仁王門(寺院に行く途中の道路にあります。)



説明書

文殊堂
桁行5間、梁間4間、入母屋造本瓦葺で、国指定重要文化財(建造物)になってます。旧記によれば、仁寿年間(851~854)に円仁僧都が文殊像を造り、文殊楼を建てて安置したとあり、文殊堂の創立はそこまで遡ります。ただし、現在の文殊堂は様式や墨書によると室町時代中頃のもののようです。応永13年(1406)、大洪水、大風、大地震があり、諸堂ことごとく倒れ、天文8年(1539)本堂諸楼ことごとく炎上とありますが、文殊堂は罹災を免れたようです。江戸時代初め極度に荒廃していたらしく、寛文、元禄の頃、柱の過半が取り替えられ、柱間の装置はすべて改造され、文化年間にも屋根回り、縁、高欄などに大修理が加えられ、現在に至ったようです。




三重塔
阿弥陀堂と対面した高台に立つ三重塔は、国指定重要文化財(建造物)になってます。元和5年(1619)の修理の際に発見された龍車(塔上部の相輪の部分)の刻銘によって至徳2年(1385)に建てられたことがわかりました。軒の出が深く美しい純和様の建造物で三層各階には、それぞれ大日・釈迦・多宝如来を安置して法華経と密教思想の融合を表しています。







阿弥陀堂
国指定重要文化財(建造物)になってます。
もと常行三昧堂と呼ばれていた堂です。大きな面取りの柱や丈の高い斗(ます)などに古式を残している一方、繊細な折上小組格天井をつけ、身舎(もや)の4 本の柱のうち、後ろ2本を後退させているなど、中世的な手法も認められます。また、中央間を特に広く取り、蔀戸を吊る外観は住宅風です。



供養塔

境内にて









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