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松本城

2016-11-06 22:58:10 | 長野
2016年11月3日行きました。2泊3日で長野観光をしました。11月3日は松本まつりとお城まつりで市内は歩行者天国で交通規制がされていました。武者行列やお城での菊花展などが催されていました。現存する天守の1つなので、是非ともと思い、神戸から420kmの高速道路を乗り継いでの観光です。筑摩神社から移動ですが、非常に渋滞していました。駐車場に2.5kmほどだけど30分ほどかかりました。
長野県松本市丸の内4-1
map
パンフレットより
「松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは林城を取り囲むように、支域を構えて守りを固めました。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られたのです。その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。その後天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。豊臣秀吉は天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城の小笠原氏は家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・弊などを造り、本丸・ニの丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は、康長の文禄2年から3年(1593~4)と考えられています。」



乾小天守と大天守(国宝)







鴨さんもいました。



案内図



天気も良くて、最高ですね。

内堀の外を黒門に向かって移動です。



ニの門
「内堀を渡ったところにある門で、高麗門です。」

黒門
「本丸に入る正門で、櫓門と枡形からなり、本丸防衛の要である。一の門(櫓門)は昭和35年に復興しました。」







イベントをしていました。



大天守

乾小天守と渡櫓
「渡櫓は、天守と乾小天守をつないでいます。天守閣の入り口である大手口は、頑丈な扉があり、簡単には中に入れないように造られています。」

石落と狭間
「天守閣では、戦国時代の主力武器であった鉄砲戦への様々な備えを見ることができます。厚い壁には矢狭間・鉄砲狭間があわせて25ケ所あり、天守・乾小天守・渡櫓の一階には石落が設けられています。石落は石垣を登ってくる敵を防ぐ工夫で、狭間と同じように鉄砲を使っての攻撃も可能な武備でした。」

城内に入ります。
丸太柱(乾小天守)
「乾小天守の内部は丸太柱がたくさん使われています。3・4階の12本の丸太柱も、城が最初に建てられたころのもので、400年以上たっています。」



階段

















展示品



















狭間

























最上階の天井

二十六夜神



天守から見た城まつりのイベント

眺め

























梁、釿で削った痕

展示品

























太鼓門















ニの丸御殿跡











ニの丸裏御門橋





松本市まちめぐり案内

次は仁科神明宮にお参りします。市内の交通規制と渋滞、そして天守に登るのに行列で時間が足りなくなりました。城下町散策や旧開智学校にも行きたかったけどパスです。

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