回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

ダウントン・アビー続編?

2021年02月18日 16時22分19秒 | 日記

コロナに対する切り札の一つとして、昨日からワクチン接種が日本でも始まった。まずは医療従事者の一部からだがこれまでのところ大きな混乱のないことは喜ばしい。接種開始が欧米より遅れたのは日本人の治験に時間がかかったからで、拙速よりも信頼を得ながらの慎重な進め方の方がいいのは当然だ。

一方、昨日までで死者が118,933人、感染者数が407万人に上るイギリスでは、去年12月8日からワクチン接種が始まり、昨日までに1,594万人(人口の24%)が一回目の接種を受け、2回目の接種を受けた人も55万8千人に達している。このワクチン接種に当たってはその推進のために様々な試みが行われた。

その一つが、ワクチン接種の普及のためのボランティアによる接種である。ウエストサセックス州の人口5000人ほどのミッドハースト(Midhurst)村がワクチン接種のボランティアを募集しているという話を聞いて、俳優ヒュー・ボネヴィル(Hugh Bonneville)はすぐさま手を挙げ、ワクチン接種センターに赴いてワクチンを受けた。ボランティアを企画した村からは、目立つ格好をして注意をひいてくれと。村としては住民に対してこの有名な俳優の顔が見られる、と約束して人寄せに使おうとしたからだ。ボネヴィルは派手な服装はしていたものの、マスクをしていたので、彼が誰なのか判った人は少なかったという。ボネヴィルも誰からも気づかれなかったことをいいことに、列に並んで「そこのおじさん、ちゃんと列に並んでくれよ!」などと言って楽しんだそうだ。新聞のインタビューにそう答えているがどうも本当とは思えない。

もちろん彼は目立ちたいということではなく、この病気を終わらせるためには、自らがワクチンを接種することでワクチン接種が最良でありそれに疑問を持つ人に信頼感を与えることができる、と確信していたからだ。彼は、ワクチン接種することは自分だけでなく、自分の周りにいる人たちのためでもあり、それを伝える義務があると思うと言っている。

ただ、ボネヴィルは、ジョンソン首相のコロナ対応については批判的だ。むしろ、アイスランドやニュージーランド(あるいは台湾)のような女性首相の国がコロナ対策で成功したことを挙げ、もし、サッチャーが首相だったら最初の段階で徹底的・効果的な対策を即決していただろう、とも言っている。

ボネヴィルはケンブリッジ大学を卒業後、俳優の道に進み数多くの映画・TVドラマで活躍している。たまたま明日19日からイギリスで公開される”To Olivia”では主役のロアルド・ダールを演じる。このTo Oliviaはアメリカのアカデミー主演女優賞受賞女優パトリシア・ニールとその夫、ダールおよび娘オリビアを描いたもの。因みに、パトリシア・ニールは終生(妻子ある)ゲーリー・クーパーを愛し、夫である(その後離婚)ダールとの間に愛情はなかった(5人の子供ができたにもかかわらず!!)、というある意味で劇的な人生を生きた女性である。

この映画ではシリアスな役を演じているボネヴィルだが、彼の代表作のひとつとして「ダウントン・アビー」の第6代グランサム伯爵ロバート・クローリー役を挙げなければならないだろう。大成功したこのドラマについて、インタビューに答えたボネヴィルは続編に強い関心を示している。その場合には、前作と同じく脚本はジュリアン・フェロウズ(Julian Fellowes.ちなみに 彼は男爵である)の手になるだろうと。ただし今のところ筋書きについては何も明らかにされていない。このことについて、共演した執事カーソン役のジム・カーターは、それはきっと面白い話になる、と言っているが・・・

続編があるのかどうかは、ロックダウンが解除になるかどうかにかかっている。そしてボネヴィルの言うようにそのためにはどれだけの国民がワクチンを接種するかにかかっている、ともいえるのだろう。

ロバートとメアリー(後ろはカーソン?)

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更新

2021年02月17日 15時13分21秒 | 日記

今日、自動車運転免許証の更新手続き完了、これであと5年、いわゆるゴールド免許「優良」の資格をゲットした。暇な学生に運転手をさせようという親の策略(?)にはまって18歳で免許をとってから更新は何回目になるだろうか。18歳で免許を取得したが、途中イギリスに駐在中に免許がいったん失効してしまい帰国してから失効手続きによって免許を取り戻したということがあるので、わずかながら中断をはさんでいる。「優良」制度が導入される前までは更新は3年毎だった。長いようで3年という期間はすぐに過ぎてしまう。一応順法精神に溢れ(と言うより気が小さい)、ほとんど乗らない運転者にとっては5年というのは有り難いが、年とともにそれさえすぐに来てしまうように感じる。

できるだけ自由に動き回りたいと思ったこともあって駐在した国でも運転免許を取ってきた。イギリスの免許(UK Driving Licence)は、今は異なっているが、自分が取得した1980年ごろは、いったん免許を取れば70歳の誕生日まで有効で更新の必要はなかった。こんなに有効期間の長い免許だから顔が変わるのは当然で、したがって写真を貼るところはない。緑とピンクのA4サイズくらいの紙の両面にタイプされたものが免許証で、数年前に確認したところでは今でも完全に有効だと。もし、カード式の免許証に切り替えたら、その時点からは今の規則が適用になり有効期限は短くなるらしい。イギリスで運転することはそうないので、持ち運びには不便だがそのままにしてある。

アメリカは州ごとに免許の制度が違う。2003年に更新したニューヨーク州の運転免許(New York State Driver License)は有効期限10年だったが、在留期限まで、という別の制約があったので、実際にはそれより短い。もし、アメリカ国内で転勤があれば免許を取り直さなければならないというものだった。このニューヨーク州の運転免許証には、住所はもちろん、性別、目の色(自分の場合にはブラウン)、身長、ビザの有効期限までが記載されている。

二つを比較するとイギリス、アメリカともに英語の国ではありながら、Driving とDriver, LicenceとLicenseというように言葉が微妙に異なっている。どことなく二つの国の文化の違いが偲ばれるところだ。

運転免許の更新手続きは実に機械的、非人間的でベルトコンベアーにでも乗っているかのように受付から手数料の支払い(ここが警察にとっては一番美味しいところか)、視力検査、写真撮影、講習までが進められる。こういうことを経験できる数少ない機会。ただ、誰にとっても写真撮影のところが一番気にかかるところ。何しろこれから5年間自分について回るのだから。それなのに写真を撮るところの職員は実に事務的でこちらに何の自由(猶予)も与えてはくれない。特に今はコロナのせいで一刻も早く手続きを進めたいと思うのか、カメラの前の椅子に座らせるなり間髪を入れずにシャッターが下りるような気忙しさだ。女性に対してはある程度配慮するのかもしれないが、自分の場合には服装を整えるのもやっとだ。ましてや、表情を作る(口角をあげるなど)の余裕は全く与えられない!!。この手続きの最後に自分の番号が読み上げられて新しい免許証がわたされるまでは、どんな映りになっているのか、間抜けた顔をしていないか、など何とも落ち着かない気持だ。

古い免許証の写真と比べると明らかに5年の歳月が過ぎたことがわかる。古くて燃費がわるいのに、車庫の中でじっと、忠犬のように自分を待ってくれているあまり乗らない古びたガソリン車には、5年の間に少し(すっかり!)老けてしまった自分の顔写真の今度の免許証がちょうどいいようだ。そしてもしかしたらこれが最後の更新になるかも・・・

かつて乗っていた(なはずないか・・)アメリカンマッスルカー、シボレーカマロを。

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直感

2021年02月16日 16時59分30秒 | 日記

東京五輪組織委員会会長が女性蔑視の発言で辞任した。ガード下の安酒場で愚痴をこぼしている会社員が言っても誰も相手にしないが、元首相にして国際的にも日本の顔になるようなオリンピックの中心人物の発言は重い。ただ、彼の辞任会見を見ていたら、彼にはこの発言がいかに不適切であるかがまだ判っていないようだ。

ある言葉に対して他人がどう感じるか、ということを正確に知ることはできない。例えば、私の目にはこう映る、と言われても相手の目に成り代わることはできないのと同じだ。ただ、どういうことかを予測することはできるし、感覚的には何とか理解することはできるだろう。

感覚といえば、女の直感、という言葉がある。理屈ではなく、何か神秘的なセンサーのようなものが働くことを言うのだろうか。このことで有名なのは、イギリスの故ダイアナ妃が、生前BBCのインタビュー番組の中で質問者から、どうしてチャールズ皇太子とカミラ夫人との不倫を知ったのか、という質問に対して、「それはもう、私の持っている鋭い女の直感です。Oh, a woman's instinct is a very good one.」と答えていることからもわかる。

ニューヨークに駐在していた時仕事で知り合った、同じような年頃の男がいた。駐在員の狭い世界ではいつの間にか顔見知りになることが多い。彼は単身(独身ではない!)で気ままに過ごしていて、いつの間にか、やはりニューヨークで働いているピアニストの女性と親しくなっていた。何度か二人が親しげに食事をしているところを見かけ、そのうちにこちらとも気安く話をするようになった。しかしあるとき、そのピアニストが一人で食事している。いつもの調子で気軽に、今日は彼はいないのですか、と声をかけたら、彼女から「奥様がこちらに来ているのです」という話。彼はいつもポーカーフェイスで、こちらにはそんなんことは全く言わなかったので、驚いた顔をすると、彼女は「言われなくても女の直感でわかります」という。彼がそういうそぶりを全く見せなくても女の直感で鋭く見抜くのだろうか。

一方で、男の直感などという言葉は聞いたことがない。女性にだけ備わっている超能力なのだろうか。これでは、女性の前では隠し事など絶対にできないように思えてきた。はるか昔、男の歌手が女性の気持ちに成り代わって歌う歌謡曲を聞いて、男がどうして女の気持ちを理解できるのか、という違和感を持った。自分がまだ子供だからであって、大人になったらわかるのだろうと思っていたが、どうもそういうことではなさそうだ・・・。チェコスロバキアの飾り皿、和やかに談笑しているように見えるこの3人の美女神にも当然女の直感は備わっているはず。3人集まれば怖いものはない。

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絨毯

2021年02月15日 17時22分48秒 | 日記

今日の日経平均株価は1990年8月2日以来約30年半ぶりに3万円台に乗せた。雇用情勢は良くないのに、コロナの感染者が減ってきたことやワクチン接種が始まること、「コロナ後」の景気回復を期待するという、何かにつけていつも一歩先走りをする(したがって外れた時の反動も大きい)株式相場なのだろう、このところ日本もアメリカも株価が上昇している。株取引の一つの諺として「噂で買い、事実で売り」というのがあるが今は市場の「空気」で買いが買いを呼んでいるようだ。いつものことだが、証券会社は言ったことについて全く責任を持たないから(常々友人に言っているように)火傷したくなければ株には手を出すな、ということだ。

日経平均株価が3万円だった最後の日、1990年8月2日は、いわゆる湾岸戦争の契機となった、イラク軍によるクウェート侵攻のあった日。それまでもいくつも戦争はあったが(たとえば1982年のフォークランド諸島をめぐるイギリスとアルゼンチンの軍事衝突やイラン・イラク戦争など)、一国の軍隊が他国に侵攻して全土を占領する、というのはほかに例を見ない。原油とカネをめぐるイラクとクウエートの対立が思わぬところで軍事侵攻・占領となり、それがアメリカ軍を中心とする多国籍軍による湾岸戦争、クウエート解放、イラク・フセイン政権打倒に繋がる。

幸い、というのが適当かわからないが軍事的には多国籍軍が圧倒していて一か月ほどのあっという間にイラク軍を殲滅し大勢が決した。多国籍軍についていえば人的損害も総計で400人程度にとどまった。もっとも、イラク軍がクウエートから撤退したときに油田に火をつけたため、それを鎮火させるために10か月という時間と莫大な費用が掛かったが。

自分は中東とはあまり縁がなかったが、その1年ほど前に、一つのプロジェクトのためにトルコ、バーレーン、オマーン3か国に出張したことがある。その時はまだ戦争の予兆はなかったように思う。比較的寛容なイスラム教国であるバーレーンは、橋で厳格なイスラム教国であるサウジアラビアとつながっている。現地の駐在員に案内されてどこまでも続く浅い海に架けられたキングファハドコーズウエイを国境の検問所の傍まで車で行った。晴れ渡った空に青い海、そこをまっすぐに伸びる高速道路、そしてその先はイスラムの盟主サウジアラビア、という何か蜃気楼にでも包まれたような光景が極めて非日常的だった。

そして1年後、その時は2回目のロンドン赴任したばかりの時であり、中東とは遠く離れているとはいえ、飛行機による移動には不安を感じないわけではなかった。それに、前回のフォークランド戦争のことが頭にあったから、そしてイギリスもアメリカに同調して早々と多国籍軍への派兵を決めていたから、周囲に戦争の匂いがして、大げさながら緊張感のようなものがあった。

絨毯は偽物をつかまされることが多いといわれ、また、値段も10倍くらいは平気で吹っ掛けると言われていたので買う気がなかったが、出張時のイスタンブール事務所長が旧知の間柄で彼の勧めで買ったのがこのトルコ絨毯。別に彼に絨毯を見る目があるというのではなく、もし友人を裏切ったら二度と商売しない、という圧力を絨毯商にかけてカモにされないようにしてくれた、というもの。大きさは玄関マットにちょうどいくらいが、さすがにそれなりの値段のしたもので普段踏みつけるのには忍びなく今はサイドボードの上に広げている。シルクなので肌触りも良く、光線の加減で見える色が明るくなったり暗くなったりするところも魅力だ(ただ、ある人に言わせると絨毯は踏まれて締まるもので、踏まれないところに置くのは良くない、とか。素人目にはまだ、結び目は緩んでいないようだが・・・)。

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壊れた花器

2021年02月14日 14時32分08秒 | 日記

まるでとてつもない大きさの巨人の手で家をわしづかみにされて振り回されるような感覚になる地震、バレンタインデー前夜のプレゼントとしてはあまり歓迎できない。日本に生まれた以上、誰にとっても地震は生活の一部であって常にそれに備える心構えが必要だから多少の揺れでもそう驚かないが、昨夜の地震、福島県の震度6強というのは想像すると確かに恐ろしくなる。これまで自分自身が経験したのは、2011年の大震災での震度5強。品川のビルの23階で仕事をしていて、見慣れた窓の外の風景が時間が止まったようになり、周囲の高層ビルが横揺れで一瞬重なり合うように見え、また室内では書棚が大きく移動してしまうほどの揺れだった。

その晩は部下の帰宅を見届けるために事務所で一夜を明かし、眼下に見えるJR と京急の品川駅からゆっくりと電車が動き出すのが見てから帰り支度をした。その日土曜日の昼過ぎ杉並の自宅に着いてみると外壁には異常がなかったものの、部屋の内部は文字通り足の踏み場もない状態。辛うじて書棚は倒れていなかったが中のいくつかの飾り物は破損していた。一方で食器棚は大きく移動して扉があき、食器が飛び出して被害が大きかった。

その前20年ほど過ごしたロンドン、ニューヨークはともに地震とは無縁だったので駐在中に大きな揺れを感じたことはない。たしか一度日本に出張したときに夜中震度3程度の地震に遭遇したことがあり、年甲斐もなく動転したことがある。足元の大地が頼りなく、まるで軟体動物にでもなったように揺れるということほど人間を不安にさせるものはない。

2011年の大震災の翌週には釜山へ1週間の出張の予定が入っていた。まだ余震の続く日曜日の夕方成田を飛び立ったJALが東京都心の上空を通過すると、街全体の明かりがいつもの数分の一にまで少なくなって暗い中に沈んでいたように見える。そのなかで、明かりの乏しい新宿から西に伸びる甲州街道を走る車の灯りの列が一際鮮やかだった。その頃日韓関係は今ほど険悪ではなく、行く先々でまずは地震についての状況が話題になり(日本には多くの韓国人がおりその安否を気遣う人も多かったから)、そして丁寧なお見舞いの言葉をかけられたことを思い出す。+

2011年の震災の時自宅には地震保険が掛けられていた。保険会社はほかの膨大な保険事務処理に忙殺されていたのだろう、簡単な調査の後、家財道具に被害が出たということで保険金として25万円ほどを支払ってきた。一つ一つの被害額を算定してはいないが、建物に大きな被害が出たわけではなく、壊れやすい家財道具が破損した程度だったからそれにさほど不満はない。そうは言っても家の中の整理には数日かかったように思う。

この時に破損したひとつが19世紀末のドイツ製といわれる3脚の手描きの絵入りの花器。3本あるライオン足の一つが棚からころげ落ちた時に根元から折れてしまった。幸い破損個所はそこだけでありまたきれいな割れかたをしたので、接着剤で取り付けてみたところ遠目にはわからない程度にまで修理できた(当然骨董品としての価値は殆どなくなったが)。

この花器、取手が3つあり3面にーそれぞれ異なった美しい女神たちの姿が描かれている。重量感があって、置き物としては申し分ないが、花器としては足が1本折れたのでもうあまり無理はできない。

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