さっきまでFMで 広上をゲストの番組を聞いていた。 流れる曲はどれも聞き覚えのある曲で、親しみはあったのだけれど、 ではさて その曲を自分の意志で選んでわざわざ聞くことがあるであろうか、という「現実」に行き当たる。小生は1967年以来、ずっとオーケストラにかかわってきたものですが、その当時からレコードやCDをきかない「変人」でした。聴くのはスコアを見ながらオケなどの自分の演奏に必要で参考のために利用していただけで「楽しむ」ものではありませんでした。基本的に音楽の鑑賞は行き当たりばったり、演奏会も含めて、あるとき出会ったその機会に聴いて楽しむ、という立場です。 結果として小生の所持したレコードやCDの数や知れたもの。基本的にレコードは「缶詰」であって、本物の「音楽」ではないと思っています。広上氏の言う「音楽はすべてを救う」というような話も 「本当かいな「」という感じで、全く乗れません。「名曲」とは何ぞや という話にもつながると思うのですが、あらかじめ「この曲を聴こう」という意思で聴くCDで感激を産むことができるか? 何度聞いても同じことの繰り返しで 感動が得られるだろうか。 小生は音楽は「生もの」と信じています。演奏会に(多少の予備知識はあったとしても)出かけてそこで出会う演奏こそ「音楽」、 FM でも生録の演奏をこそ「音楽」だと思う。演奏は生きもの、聴く方も生きもの、 何かの折に流れてくる「音楽」に耳を取られ「あ、これは知っている曲」と思って、思わずそのメロディーを口ずさむ、 それが名曲! いくら理屈であれこれ捏ねられても、実際、人々の口先に歌われる旋律を持っていない曲は 「名曲」とは言えない。それは 逆にこれまでの歴史の中で生み出された膨大な数の曲で今もこっているのはどれ程か、そしてそれらはなぜ残ったかを考えるとわかるだろう。本の世界でもそう、かつて一世を風靡したと言われる作品で、今に残るのはどれか、これからも残りうる作品はどれか、 レコードを聴くのと同じく、その作品を「偶然耳にする」では無く、「わざわざ」読み返す、そう思わせる作品がどれだけあるか? 現状はどうだろうか、レコード・CDもまた、本と同じく「多すぎる」。カラヤンの、ミンシュの、オーマンディの演奏がなんでいまも売れるのだろうか?今また聞かねばならない理由はなんだろう? 古本屋に行けば手に入る品物をわざわざ復刊し、古本価格の数倍の価格をつけ、またそれが売れるという 図式にも 全く理解が届きません。不易と流行 我が商売に陰に陽について回る言葉ですが、音楽の世界でも似たところがあるようです。 本当に自分に必要な「物(音楽でも 文学、絵画でも)」がどこにあるか。 世の商業主義と便利さ に惑わされないよう 心すべきと思います。本来「本」はそこにこそ存在意義ありと思いつつ。
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