晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠三角道の謎-5 8/3

2019-08-02 | あなしら上林

2019.8.3(土)晴れ

 なぜ大岩を切り崩してまで峠道を変更する必要があったのか。1824年(文政7年)以降のことなのだが産業道路として牛馬による運搬も盛んになり、そのデポ地としてあるいは休憩地として広い場所が必要になったことが考えられる。旧峠だと稜線の幅が狭く、広い場所が確保できない。現峠の東側なら充分な広さが確保できる。現にその部分は広い休憩地となっている。

大栗峠東の平坦地
 もう一つは藩の出先機関があったのではないかという想像である。それは広場の中にある四角の平坦地である。茶屋があったという話も聞いたことがあるが、確証は無い。関所とまでは言わないが公の出先機関があったとする理由は、何鹿郡鋳物師の清水家に残る大栗峠通行札である。こういったものがあるというのは清水鋳物師井関八左衛門(文化2年)の末裔故井関重一先生の奥様にお聞きしたものである。是非現物を見たいものだとお願いしているのだが、まだ実現していない。鋳物師の通行は完成品の輸送のみならず、原材料(地金)の輸送が大規模であったと考えている。

出荷用木箱(鋼)とこも包み(鉄)、10貫目の重量がある。(胡麻高原探訪に掲載)
 それは一国一座の鋳物師鋳物師が田辺引土国松家、何鹿郡上林井関家、船井郡胡麻新町勝田家、園部、八木、馬路などと街道、水路に沿って存在していることに関係してはいまいか。鉄、鋼の地金の生産は出雲や伯耆で冬季に行われ、北前船で宮津や田辺の港に荷揚げされる。そうすれば田辺ー上林ー胡麻ー園部ー八木ー馬路と順次輸送されたのではと想像できる。その傍証として田辺から上林に越える木住峠であるが、峠から上林遊里に下る道は本来の道で荷車等の通行は困難であるが、清水に向かう実に立派な道が峠から派生しているのである。その道の末端はなんと清水鋳物師村の中心地を通り、金屋のある八左衛門宅に至っているのだ。木住峠は小さな峠なんだが、その北側田辺側に小さな四角い平坦地を見つけた。

木住峠上林側、右に行くと清水鋳物師村、左は遊里。
向こう側の右手に視覚資格の平地がある四角い平地がある。
 胡麻の勝田家に向かってそれから先の分まで運ぶとするとものすごい量の物資となる。大栗峠が単なる通行路から産業道路に変革したのはこの鋳物師の地金輸送が大きなウェイトを占めたのではないだろうか。清水から胡麻までどのように運んだのかと思われるが、実は胡麻には由良川ー高屋川ー畑川という立派な水路があり、
胡麻新町のすぐそばの塩ヤ淵まで船が通っていたのである。大量の地金は、清水ー弓削道ー大栗峠ー上粟野ー上和知川ー由良川ー黒瀬ー畑川ー胡麻ー殿田ー大堰川と運ばれたのではないだろうか。

上和知川に水運の跡はないものだろうか。
 胡麻、殿田間は陸路水路(胡麻川)とも考えられるが胡麻鋳物師勝田家が多頭の馬を所有し、運送業を営んでいたという報告もある。京街道は篠原から大迫、岩江戸と由良川沿いに東進した模様だが、鉄地金や物資の輸送は川運を利用したと考えるのが順当である。つづく

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大栗峠三角道の謎-4 8/2

2019-08-02 | あなしら上林

2019.8.2(金)快晴

 忠町と十倉志茂町の大栗は地形的に類似する以外に、はっきりとした共通点がある。それは古墳であり、前者には隣地に堂ノ下1,2号墳、後者には大栗1,2,3号墳がある。小規模な古墳だが自然石を使って造られている。小規模といっても石材は大岩でその付近で調達したものと考えられる。

忠町の堂ノ下古墳、大きな岩が使われている。
 綾部市城山町には多くの古墳があるが工業団地の造成で残存しているものかわからない。そこは大栗ではないが栗ヶ丘という地名である。
 河原や山地に大岩があるだけでは地名とはならない。地名は人びとの生活に影響のある事柄こそがなり得るものだと考える。さすれば古墳に使用する大岩があるところを大栗と呼んだとして納得がいく。ところが志古田には古墳は無い、ところが志古田で最も顕著な場所、大栗峠に大岩があったとしたら、これを地名とするのは必然である。そうだとすると小字の大栗より先に大栗峠の名が付いたのかもしれない。
 永年追い求めてきた大栗地名がようやく決着が付いたように思える。

クリックして拡大のこと 
永年追い求めてきたと言えば奥上林村誌(昭和31年発行)に、今も志古田の山中に「左・京道 右・弓削」と書いてある石碑が残り、云々という文がある。この石碑を図分探し回ったが遂に見つけられずにいる。
 大栗峠付近にこの石碑が無いとなると、志古田道の道中に弓削道に向かう分岐があるかもしれないと探索した。志古田から弓削に向かうのに使用することは無いだろうが、志古田道が災害で崩壊した際に弓削道を迂回するするかもしれないと考えたからだ。しかしそんな道は無かったし、あったとしても臨時的な道に石碑を建てるはずも無い。やはり峠付近にあるのが順当と考える。旧大栗峠と考えるとC道の両サイドどちらでも、志古田の方を向いておれば方向は成り立つが、ここにはbの地蔵さまや現存の石標があるのでちと奇妙な状態になる。さてここで、旧大栗峠があったとすると志古田道は現在のとおり走っていたのだろうか。クランク状に峠に至るのは不自然である、旧峠に直接か或いは近接して合流するのが普通ではないか。その部分は現在植林の斜面で、かつて道があったかどうか確認するのは困難な気がする。というのもこの考えは最近気づいたもので、その斜面をそれなりの観察をしていたわけではないからだ。ここで明治28年陸地測量部の地図を見てみる。残念ながら現在の地形図と同様なのだが、志古田道の記載がどうも現実と違うような気がする。地図上では沢筋を真っ直ぐ下っているようだが、実際は左に降って尾根上を下り、最後にジグザグに降って谷をトラバースして右の尾根を捲くように下っていくのである。
IMG_3363.JPG
志古田道の降り口、今はシダは無い。
 この下りは2回の経験しかなく特段何も考えずに歩いたので記憶が定かでは無いのだが、もし左よりに降って尾根を下っているとしたら、その尾根を直登すれば旧峠辺りにたどり着くのではないか。もしそんな古い道(D)があったとしたら、その道の道中、或いは登り着いたところに「左京道 右弓削」の石碑があってもおかしくない。なにか夢のような話だがもし古道の痕跡でもあれば、そしてそこに例の石碑でもあれば大発見となるのだが、そうは甘くなさそうだ。
 なにか現実離れした話になってきたが、現在の峠道は無くて、旧大栗峠通行説は信頼できそうだ。さすればどうして新しい峠道が開通したかという問題が重要になってくる。つづく

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