晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠三角道の謎-6 8/12

2019-08-12 | あなしら上林

2019.8.12(月)曇り 大栗峠三角道の謎ー5は2019.8.3

 大栗峠、木住峠に藩の出先機関があるとすれば、それは国境警備かもしれない、特に幕末が近くなると何かと必要性が出てくることだろう。古文書でも調べれば出てくるかもしれないがその時間も能力も無い。
 それなりの建物を建てようとすると、旧峠では無理である。新たに現峠の付近に建てると、例の大岩が邪魔になる。それで大岩を取り崩して新たな道を通したと考えたい。崩した大岩を建物向かいに岩室として使い、旧峠付近にあった地蔵を移転した。また左の地蔵さま(a)はこの時に造られたものかもしれない。そうすると慶応
元年(1865年)の開通ということになる。

 また、四角の平地が公の出先機関跡であったとすると、峠を通行する人馬は例え目と鼻の先であっても旧峠を通られると具合が悪い。あくまで抜け道と言うことになるからだ。石標(C)が引き抜かれて倒されているのはそういう理由があったのではないだろうか。
 「左志こた 右わち」と書かれた石標(c)については、「北山の峠」(下)で金久氏は次のように書かれている。
 それとも石標のあった場所が
それとも石標のあった場所が移動したのだろうか。横転しているところを見ると引き抜かれたとも思われる。どうもこの横転石標のある場所は移動されたもののようである。石室の前にあればぴたりと方向が合う。やはり石室の前が峠であろう。(P80)
 石室の前にあったとすると、倒された石標をなぜ現在の位置に移動する必要があったのか。なぜ倒されたのか。という疑問が解消されない。それに現在はきれいに整理されているが、石標が倒されていた場所には礎石とも思える石がいくつか散在していた等の理由で石標は現在の位置に倒されていたと考えるのが順当なのである。つまり金久氏は往時から現在と同じ状態で峠が存在したと考えられるから無理な発想となるわけで、現在の峠道(A)は無かったとするとすべてが矛盾なく考えられるのである。
P1000079P1000085
石標はこの状態で倒れていた(2011年)
 大栗峠の四角い平地が公の出先機関だとすると、疑問に思うことがある。公の機関だと屋根は瓦葺きだと思われるのだが、その瓦はどこへ行ったんだろう。あちこちの城跡などを見て回ると、戦で倒壊した建物、明治になって壊された建物など千差万別だが、
必ず瓦の破片が落ちているものだ。ところが大栗峠周辺には一片のかけらも見当たらない。
 大胆な想像だが、峠から数分のところにある上粟野道の六地蔵に転用されたのではないだろうか。そこは六地蔵といえども現在は一体だけで、もともと六地蔵で
あったことは金久氏も確認しておられる。残る五体がどこに行ったのか、なぜ一体だけが残っているのか謎なのだが、そこに残されている大量の瓦も気に掛かっていた。
P1000382
一体だけ残された地蔵さまと大量の瓦、鬼瓦も見える。(2011年)
 古い街道には必ず地蔵堂がある。大栗峠上粟野側の取り付きやや下にもあったし(先年の大水で流されてしまった)、木住峠遊里側肥刈谷や清水道にもある。
P1000370
上粟野道の地蔵堂、清水道の地蔵堂。
 それらがどのような状態であったか写真をみて確認するのだが、すべてがトタン葺きになっている。つまり往時は板葺きか藁葺きだったと考えられ、瓦を用いていることは考えにくい。そうすると大栗峠上粟野道の六地蔵跡に残された瓦はかなり不自然なものとなる。
 この瓦が峠の出先機関の建物から転用されたと考えれば一応つじつまがあうのだが。
つづく

コメント
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