hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

宿場町を歩く⑨〜杉戸宿②

2022-07-17 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その9。杉戸宿②、近津神社から少し歩くと左側に再現された『高札場』がでてくる。



高札場とは幕府や諸藩のお触れを一般民衆に知らしめるために屋根のついた木製の掲示板に貼り出したものでこれを往来の激しい地点などに設置した。この高札は日本工業大学の学生などが再興したものでよく見ると英語で書かれたものもある。



隣には『豊嶋屋』という造り酒屋があり、屋号は関口酒造と名乗る。メインは豊泉という銘柄だが、この日光道中を記念した『杉戸宿』という清酒も発売されている。



次の角を左に曲がった所に杉戸町役場がある。杉戸町は明治22年に杉戸宿、清戸村、倉松村が合併してできた町で埼玉県北葛飾郡に属する。市町村合併では春日部市、北埼玉郡宮代町と交渉はしたが、実ってはいない。



お茶の販売店、『お茶のいとや』は明治10年創業の老舗であり、カフェを併設していた抹茶を使ったメニューが色々とある。暑いので抹茶かき氷や抹茶オレなど入りたい衝動に駆られる。入口近くにあるカエルはお客様に帰ってきてもらいたいという思いを込めたものだとか。

向日葵の花が咲き乱れている咲きの民家の中に『三本木一里塚跡』の説明板がある。板の説明書きによると、このあたりに縦横9mかという大きな一里塚があり、さらにその上に榎が植えられていたが。



しかし、残念ながら明治中頃に交通の邪魔になると言うことで取り壊されてしまい、説明板が残るのみであった。(以下、次回)

宿場町を歩く⑧〜杉戸宿①

2022-07-11 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その8。杉戸宿①今回は日本橋を出て日光道中5番目の宿場町杉戸宿を歩く。最寄りの駅は東武線伊勢崎線東武動物園前駅である。実はこの駅名は1981年に東武動物園が完成した際に改名されたもので1899年に駅が完成した際には『杉戸』駅であった。さらにややこしいのは駅の所在地は杉戸町ではなく、お隣の宮代町、杉戸町は駅西口すぐの古利根川に架かる古川橋を越えてからなのである。



駅西口に出て古川橋を渡り、川沿いの道を右に曲がる。毎年夏にこの川では『古利根川流灯祭り』が催されているが、コロナ禍のため2年連続で中止とのこと。



お洒落な山小屋風の喫茶店の先に杉戸町観光協会がある。ここで宿場印をゲット、さらに宿場の観光案内図も貰う。するとどのくらい宿場印を集めたのか聞かれ、日本橋・粕壁・越ヶ谷を集めてここで4ヶ所目というと近くばかりでなく、日光まで集めて下さいと言われ、退職して暇になったらと話す。



単なるスタンプラリーでなく、宿場町を端から端まで歩くことにしているので1日に幾つも回れない。次に行く東福寺のことを聞くとわざわざ外に出て道を教えて貰った。



少し戻り、川から外れたあたりに『東福寺』がある。今は緑の瓦屋根が立派な民家のような建物だが、ここはかつての杉戸宿と清池村の境であり、明治22年の市町村制導入時に町役場が一時置かれたほどの寺である。



少し行くと旧日光街道(現、県道373号線)に出る。旧街道ではあるが、2車線でそれほど交通量が多くない。



ただ、橋本屋(蕎麦屋)・田中建具店の2軒の看板づくりの商家は並んで現役のようである。



杉戸高校、杉戸キリスト教会の前を通過。杉戸キリスト教会は埼玉県で2番目に古い教会である。



そのお隣が『近津神社』、元の社殿が造られたのが1684年という記録があったので江戸時代よりは古いが2001年に不審火で本殿は焼失、仮本殿がある。



境内には富士塚や立派な銀杏の木、古い狛犬などが残っており、由緒ある神社であったことは間違いない。

それにしても真っ直ぐではなく横を向いた狛犬は珍しい。(以下、次回)



宿場町を歩く〜越ヶ谷宿③

2022-07-03 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その7。越ヶ谷宿③、中町浅間神社の隣に小さな駐車場があり、そこから家屋、石蔵、土蔵と細長く連なり、旧街道に面するところまでが『木下平助商店』となっている。



説明板によると明治期より金物商であったが、明治32年の大火で被災、その後再興されたもの。今も金物屋を営んでいるが、伺った日はシャッターが閉まっていた。



(木下平助商店)
向かいは『小泉家』、江戸時代から続く呉服屋さんで店舗の横に蔵が並んでいるのは越ヶ谷宿ではここ一軒のみである。

(小泉家)

(鍛冶忠商店)
隣にあるのが『鍛冶忠商店』、荒物屋を盛業中で座敷箒や笊、日除けに使うよしずなどが並んでいた。

(旧大野家)

少し先に『旧大野家』がある。これは秤商を営んでいた大野家が明治38年に建てた屋敷を2018年に改修、レストランやショップなど6軒の店舗が入居する古民家複合施設となっている。



(会田金物店)

その向かいが『会田金物店』、こちらも現役。店の中央部の柱に『トタン板釘針金』と『トタン板釘』という青色と黄色のホーロー看板が打ち付けてあるのが印象的である。

お隣は『遠藤家の倉』、銅板が打ち付けてあり、緑青の色が渋い。元は木綿問屋を営んでいた。

(稲荷屋)

『稲荷屋』という食堂が出てくる。こちらも盛業中、『季節天麩羅蒲焼』という看板がかかっている。奥の蔵カフェを見ようと入るが、稲荷屋の壁には昔の看板が薄く見えていくつかの品名があるが、志る古だけはなんとか判読できた。

奥の蔵カフェも面白そうだが、やはり週末しか開かないようだ。

(米長乾物店)

隣に『米長乾物店』、店は開いていなかったが、店の前のタバコ自販機は現役だった。

向かい側には『市神神明神社』があり、これを通り過ぎると元荒川が流れていて、大沢橋が架かっている。ここまでが越ヶ谷宿、この先は大沢宿である。



大沢宿に入っても相変わらず古くからの店舗は幾つも残っていた。

ここから再び越谷駅まで歩いて戻る。駅近くには大きな餅菓子屋(?)の伊勢屋さんの店が開いていて和菓子はもちろん、惣菜やおにぎり、飲むわらび餅まで商っており、喫茶室もあるみたいである。



駅並びには到着時には開いていなかった観光案内所『蔵屋敷』が開いていてマスコットのガーヤちゃんがお出迎え。日光街道宿場印もゲットして宿場町巡りを終えた。

宿場町を歩く〜越ヶ谷宿②

2022-06-29 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その6。越ヶ谷宿②、再び旧街道に戻り、街道沿いの建物を見て歩く。すぐのところに田中米穀店、今も現役である。昭和初期の木造二階建の建築物だが、2階の戸袋に貼られている銅板が緑青となり、いい色である。


斜め前の行徳屋も同様の木造二階建、戸袋も先程の建物と同じ造りである。





するとピンクの診療所が現れた。横田診療所としてこちらも現役だが、洋風の木造建築で昭和10年に作られた旧越谷郵便局をそのまま利用している。建物ばかりでなく、庇の金具や照明にもモダンな物が使われていてレトロな映画セットに出てきそうである。



次の道を左に曲がると可愛らしい蔵が見えてくる。『油長内蔵』と言って江戸末期の蔵をここに移築。曳家でここまで持ってくる技術の高さに驚く。週末はまち蔵カフェとして中にも入れるらしい。



先を右に曲がると再び蔵のある家が出てくるがこれが『白鳥家』。周りには黄色やピンク色の百合の仲間が花をつけていて美しい。



次の角は有瀧家の立派な黒塀で囲まれていて中にはタブの木が生えている。さらに中にはマンションと不思議な光景。表札には『タブの木の家』と書かれていた。このタブの木の樹齢は400年とも言われている。


黒塀から50mほど歩くと目の前に大きなけやきの木が見えてきて一段高いところに中町浅間神社が祀られている。欅の木は説明板によると『市の天然記念物に指定され、木の周りが7m、高さが23mある。越谷市では最も高い欅で樹齢600年』らしい。(以下、次回)







宿場町を歩く〜越ヶ谷宿①

2022-06-27 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その5。越ヶ谷宿①、今回は江戸を出て日光道中3番目の宿場越ヶ谷宿を歩く。東武日光線で30分、越谷駅に到着、ここからスタートする。前回の粕壁宿も春日部駅と駅名と宿場名の表記が異なっているが、越ヶ谷も駅名は越谷とケがない。

越ヶ谷の名前の由来は『越=腰の谷』、「こし」は山地や丘陵の麓付近という意味でこれに低地である谷を加え、『大宮台地の麓にある低地』という意味である。ケのある無しは1954年の町村合併で越谷町が成立した際に合併前の越ヶ谷町と区別するため、ケを取った。つまり、駅名の北越谷・南越谷・新越谷などは1954年以降、越ヶ谷小学校は1954年以前ということになる。また、町の中心部には『越谷市越ヶ谷』という地名が残る。

越谷駅を降りて、観光案内所がまだ開いていないため、街歩きをスタートする。駅前通りを少し行くと旧日光街道、さらにその先には県道47号線が並行して走る。旧日光街道を右折して歩くと人形を商う店が数店、あとは銀行や小規模な町工場など特徴はない。



先程の県道と交差する中央分離帯に『表程里』がひっそりと立っている。それによると『雷門五里二十粁、浦和三里半十四粁・・』などと書いてある。



さらに旧街道を戻ると右手に『不動尊道しるべ』を発見、寛保元年(1741年)造立とある。石塔の上には不動明王像、下が道標で「是よ里大さかミ道」と彫ってあるらしいが、こちらが越ヶ谷宿の起点を示している。

きた道を戻り、駅前通りの交差点の先には植木人形店、お隣は金春人形店と並んでいる。植木人形店の看板には羽子板・破魔矢・ひな人形・よろい・かぶと・鯉のぼり・日本人形・西洋人形と品揃えはかなり幅広い。

ほぼ向かいには『水田家』、昭和初期の木造二階建てであり、元は漆喰の材料となる布糊の問屋、その後文具屋であった。



角を左に曲がると『新町八幡神社』の鳥居が見えてくるが、手前は歓楽街でスナックが並んでいる。夜、幾つネオンが点くかはわからないが狭い路地、そして神社というのは中々のロケーションである。

旧街道まで出て左に曲がる。次の道を左に曲がると神山材木店。今も現役だが、こちらもかなり古い建物である。(以下、次回)



日本橋〜宿場町を歩く④

2022-05-18 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その4。今回は五街道の始点である日本橋周辺に行く。と言ってもほぼ毎日通っている場所だが、日光道中御宿場印は日本橋の南詰にある観光案内所で販売しているのである。日本橋には観光案内所が2ヶ所あるが、こちらはまさに橋の上、中央区観光協会が運営している。



日本橋が初めて作られたのは1603年と言われている。翌年には江戸幕府が日本橋を起点に各街道に一里塚を築かせることに関する記載がある。今の日本橋は1911年に架橋された20代目にあたる。

親柱には唐獅子が設置されているが、この唐獅子が抱えているのが東京市のマーク、また中央の麒麟の像は『麒麟現れば聖人生まる』という中国の故事に因んだものである。

北詰にある東京市道路元標は1911年に日本橋の中央に置かれ、都電・本通線の架線柱として使われていたものを1972年に現在の場所に移したものである。今の道路元標は新たに50cm四方の『日本国道路元標』が埋め込まれている。この文字は当時の内閣総理大臣佐藤栄作の書であるが、なにしろセンターライン近くにあるため、写真を撮るのが難しい。(写メはレプリカ)



また、里程標には『千葉市37粁(キロメートル)、宇都宮市107粁、水戸市118粁、新潟市344粁、仙台市350粁、青森市726粁、札幌市1156粁』と書かれている。ここを始点とする国道は1号(〜大阪府大阪市)、4号(〜青森県青森市)、6号(〜宮城県仙台市)、14号(〜千葉県千葉市)、15号(〜神奈川県横浜市)、17号(〜新潟県新潟市)、20号(長野県塩尻市)の6本である。



因みに日本橋の下を流れている川の名前は意外に知られていないが、実は日本橋川。川より橋が有名であるからなのか、神田川から分かれて隅田川に柳橋付近で注ぐまでの部分の名前である。

粕壁宿③〜宿場町を歩く

2022-05-10 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その3、粕壁宿③。ミセ蔵の反対に渡ったあたりが問屋場があったあたり。粕壁宿の案内板がかる。


その先も商家蔵が続く。永嶋庄兵衛商店は今も米穀商を続けていて慶長年間に創業、400年の社歴を誇る。現在13代目永嶋幸男氏が御当主であり、今も無洗米の工場として使われている。



倉庫は明治初期に建設されたものであり、注目すべきは中央部に鍾馗様の像が置かれている。鍾馗様は道教の神で疱瘡除けや学業成就のご利益があるとされ、また、魔除けとして屋根に乗せているものと考えられる。



お隣は浜島家住宅土蔵。国登録文化財に指定されていて戦前までは佐渡屋の商号で米穀商を営んでいた浜島家所有。この辺りに幕府からの触書を掲示する高札場があった。



右に曲がると新町橋、川の中央から眺めると大落古利根川と古隅田川の分岐がよくわかる。船着場跡の石積みがあるらしいのだが、私にはよくわからなかった。

ここから駅方向に向かう。先程の交差点を超えるとおかやすという食品・青果店があるが、そのお隣に立つ蔵は大谷石で作られたものである。立派な土蔵でじっくりと見学する。



公園橋通りに向かって歩くがこの辺りは区画整理中の様子で広い道路が突然切れて、空き地となっていることが多い。神明神社を越えると春日部駅東口に到着した。

街歩きをして宿場町の構造は町外れに神社や寺院を配置し、真ん中に本陣、さらに脇本陣があり、さらに商家と土蔵が並ぶ。



川に沿って街は形成され、江戸時代は旅籠と呼ばれる旅人の泊まる宿もあり、蔵からは川の船着場が近いという構造だったのではないか、ということがよく分かった。

粕壁宿②〜宿場町を歩く

2022-05-05 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を行く』その2。粕壁宿②。匠大塚の本社の斜め向かい辺りが脇本陣跡となる。



その先に東陽寺、奥に源徳寺。東陽寺の境内を抜けて行くが本堂は立派な寺で芭蕉が奥の細道で歩いた際に粕壁宿に泊まったという記載が随行した曾良の日記にはある。



国道4号線を左に曲がり、大落古利根川に向かう。すぐのところに大きな材木屋、歴史がありそうな店であった。



見えてきた橋が埼葛橋、川沿いには桜が植えられている。市民の散歩道となっているようで座って川を眺めている人もいる。


大落古利根川はその名のとおり江戸時代以前は利根川の本流(大落は農業排水路の意味)だっだが、現在は杉戸町と久喜市の境にある葛西橋から松伏町の中川に合流するまで26.7kmとなっている。川幅は広く、流れは極めて緩やかである。

次の橋が春日橋、車は一方通行の細い橋。昭和初期の建設で71mもある。元は渡し(渡し船)で右岸には舟運を祈願した碇神社がある。



また、碇神社は高さ12mのイヌグスが有名で県天然記念物に指定されている。夜そばを通れば怖くなるような大木である。



川沿いに歩くと変わった橋が現れる。古利根公園橋と名付けられ、国道16号バイパスと春日部駅をつなぐ。



まさに公園のように整備されていて天井部と欄干を結ぶラインがライトアップできるようである。気がつかなかったが、橋の左岸には粕壁〜千住を走っていた千住馬車鉄道のレリーフがある。

橋を左に曲がるとスタートした『ミセと蔵』に戻る。次は旧日光街道を右に曲がる。(以下、次回)

粕壁宿①〜宿場町を歩く

2022-05-03 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その1、粕壁宿①。街歩きも城巡り、橋巡り、坂巡りなど色々とやってきたが、先日歩いた草加宿に倣い、旧宿場町を歩いてみたい。今回は日光街道4番目の宿場、粕壁宿を歩く。

日本橋-千住-越ヶ谷-粕壁とくるのだが、東武伊勢崎線春日部駅で下車する。観光案内所を探すと住所は『春日部市粕壁1ー18』、これを見て『春日部』と『粕壁』が混在していることに気づく。

調べてみると『春日部』は鎌倉時代にこの辺りを支配していた新田義貞の家臣春日部重行という領主に由来している。一方で『粕壁』は江戸時代日光街道の宿場として使われた粕壁宿に由来するもので実際の地名は時系列にすると粕壁町(1889年)→春日部町(1944年)→春日部市(1954年)となっている。つまり、併存しているのである。

前置きは長くなったが、春日部駅にはクレヨンしんちゃん、春日部情報発信館『ぷらっとかすかべ』にもクレヨンしんちゃん。彼のルーツはこの町、駅前にはちゃんとイトーヨーカドー(サトウココノカドー)もある。

この発信館で日光街道および日光西街道の宿場毎にある宿場印を貼る宿場印帳と宿場印をもらい街歩きを始めた。



まずは古利根川に向かって歩く。次の交差点には『ミセと蔵』と書いた説明板。すぐ裏にある田村荒物店が今も使っている蔵が古利根川まで連なっている。



春日部大通り(旧日光街道)を右に曲がる。古い商家の前には道しるべ、これに『北 日光、東 江戸、西南いわつき』と書いてあるらしいのだが、西南いわつきしか読めなかった。



丸山医院という古い診療所、左のモダンな建物と右側の木造の建物。いずれも現役のようである。



今度は『本陣跡』という説明板。こちらは1753年(宝暦4年)まで本陣があった場所。関根次郎兵衛家が勤め、その後3回移転している。


次のブロックには『匠大塚』春日部本店がある。春日部は大塚勝久氏の生誕の地であり、大塚家具創業の地のため、2016年にここに匠大塚の本社(西武百貨店春日部店跡を再開発したもの)を移転した。

急に大きな建物が現れ驚いたが、中に入る人はいなかった。(以下次回)