南軍の敗北に終わった南北戦争終結から数年。テキサスの荒野を、騎乗した大男が進む。戦後に行方しれずだった彼は、兄の家族のもとへ帰るのである。しかしどことなくもの憂げに見えるし、迎えた兄夫婦も(こどもたちほどには)歓待するふうでもない。
「どうして、ウチを出て行ったんだ」
兄は本気でわからないようだが、家族を見つめる牧師(警備隊の隊長でもある)の目は、なにやら察しているようだ。
観客も、大男イーサンと兄嫁のあいだに何かあったのだろうと感づくことになる。あのジョン・ウェインを使って、こんな小津安二郎みたいなドラマを構築するとは。
イーサンはインディアンの事情に明るく、同時に激しく憎んでいる。牛泥棒があらわれたと聞くや「コマンチに違いない」と志願して追跡するが、それはコマンチの罠で、逆に兄の家族は(娘たちをのぞいて)皆殺しにされてしまう。もちろん、兄嫁も。
「駅馬車」や「荒野の決闘」のように、底にどこか楽天性があった名作と違い、この映画には、なんというか屈託みたいなものがぎっしりつまっている。
明確には描かれないけれど、イーサンはインディアンの死体の両目を撃ち抜くし、兄夫婦の家に残されていたのは、頭の皮をはがれた(と同時にレイプもされていたかもしれない)遺骸だ。
イーサンとともに、“拉致された”末娘をさがすのはインディアンとの混血の青年であり、見つけたその娘はほとんどコマンチに同化しているという……なんというかどこかで聞いたことのあるようなお話。
刹那の物語であることが多い西部劇なのに、捜索者たちの旅は数年に及び、積雪をかきわけて進む馬、雪解け水あふれる河をわたる警備隊……およそ西部劇のイメージとはかけはなれたシーンも数多い。いったいなんだろうこの作品は。
確かにみごとな映画だし、傑作であることを認めよう。でも、どこかに薄ら寒くなるような部分が見え隠れするのはなぜだ……。ヴェラ・マイルズは美しいしナタリー・ウッドは可憐だ。でも、でもとにかく、この映画ってどっか変だよ!