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東映の新作において前面に押し出されているのは、山本五十六の左手の指が二本欠損していることだ。そのことに驚いたお汁粉屋の少女に、あとでリボンをプレゼントするきっかけにもなっている。
この欠損は日本海海戦における負傷。つまり五十六が戦場の人であり、机上の空論をもてあそぶ司令部との乖離を強調するものだ。
戦場と司令部の対比は「連合艦隊」の方でも行われていて、戦争末期、司令部が日吉の慶応大学地下に移転し(知りませんでした!)、地下からはなにも見えはしないというセリフまで用意してある。
セリフといえば、「連合艦隊」の方では予備役だった船大工の財津一郎が、息子(中井貴一のデビュー作でした)の海軍兵学校入学を喜ぶものの、のちに息子が特攻隊に志願したことに気づき
「わしは何ちゅうあほな親じゃ。下士官上がりのひがみ根性が、せがれの命を縮めてしもうた。」
と悔やむシーンは泣けたなあ。
あ、話がそれた。この二本の五十六映画において、最大の差はなんと特撮なのだ。円谷英二の職人技は戦前から高名で、だから戦後も彼の特撮は使い回しなどが平気で行われるレベル。「ハワイ・マレー沖決戦」「ゴジラ」はその金字塔。スーツアクターの中島春雄(酒田出身)の回顧録などでもおなじみ。
「連合艦隊」では、直弟子といえる中野昭慶が特撮監督。円谷の技術、あるいは過去の作品のフィルムをそのまま援用している。これが…………やはりCG全盛時代の目からみるとしんどい。戦艦大和が岬から現れるあたりの“匂い”がいかにも東宝特撮だけれど、精巧なミニチュアを使った特撮はやはり過去のものだとしみじみ。
その点、しがらみも伝統もあまりない東映の新作は、最初からCGと割り切っているためにわたしのような円谷で育った観客の意表をつく。
五十六の命を奪った米軍機が、五十六の頭上に襲いかかってくるカットなど、みごとなものだ。平成ガメラシリーズがプラズマ火球で驚かせてくれたように、円谷を超えろのかけ声は、いまや十分に達成されてるんだなあ。
報道が事実を報ずるよりも、読者を啓蒙しようとした過ちは、いまもくり返されている。特撮のみごとさも含めて、そのテーマもあまり声高に語っていない点で、やはり礼儀正しい作品。ぜひ。