Denki Groove Niji WIRE99 1999.07.03
PART1はこちら。
かつて「I Don’t Want to Die」としてイラクの人質事件を特集したとき、顕著だったのが「自己責任」というフレーズだった。“お上”が禁じているにもかかわらず行ったのだから、すべて自分で始末しろと。
おかげで人質の家族たちは、他に選択肢がないにもかかわらずチャーター便を自費で利用せざるをえなかった。人質、および家族たちへのバッシングは相当なものだった。自己責任と主張することは、要するに自分には関係ないと言っているわけだとそのときに痛感した。
今回は、それほどの騒ぎにはなっていない。湯浅氏がいかにもマスコミの好餌になりそうな経歴をもっているにもかかわらず。もちろんそれは後藤氏が、すべて自分の責任において赴く旨の動画を残すほど慎重だったこともあるし、日本人の成熟もあったかもしれない。しかし読者はこう考えた。
「私は安易な自己責任論がなりを潜めたというよりは、こう言ったら語弊があるかもしれないのですが、あまりよろしくないほうの「同胞意識」が以前より強くなってきたのではと。」
「テロに屈しないなどと言っているだけではなんの解決にもならないと思っています。そう思っている人はたくさんいるはずなのに、どうしてあの人はわからないのでしょう。」
マスコミの論調は、しかし前回とは少し違っている。それは後藤氏の目的が、政治的なものではなく、戦場においてもっともしわ寄せが向かうのは弱者だというレポートのためだったという事実、日ごろの彼の活動がまさしくこの目的にかなうもので、多くのマスコミ人がそれを保証したことによるだろう。
逆に言うと、それでもやはりバッシングはあって、後藤氏にいちゃもんをつけられないために後藤氏の母親に矛先は向かったりした。
わたしは思う。後藤氏のようなジャーナリストがいる世界といない世界。どちらが生きやすいのかと。やみくもに恐怖をあおり、警察国家化にまい進することは、はたして後藤氏の想いにこたえることになるのか。
自己責任だ、ツケを国民にまわすなと叫ぶ人にも問いたい。これからいっそう社会が高コスト化するのは確実で、あなたの税金は何も生産しない部分に大量に注ぎこまれるのは承知か。そちらにも反対の声はあげてくれるんだよね。
読売と産経が、朝日新聞がシリアに記者を派遣していることを鬼の首でもとったように報じているのを見ると、いやはや日本ではイラク以来の悪夢がつづいているのだと思い知らされる。後藤氏のような人物は、やはり必要だったのだ。
本日の一曲は電気グルーヴの「虹」五島良子ノリノリバージョン。美しい曲にミニー・リパートンばりのボーカルがのる。あ、例えが古すぎますか。