お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

彼岸の入り

2010年03月18日 | 仏教
 「暑さ寒さも彼岸まで」 と言いますが、寒暖の差が大きいこの頃。
 九州は桜も開花。
 年度末で、何かと「動く」「変わる」時節でもあります。

 さて、きょうから 春の彼岸(一週間)

 昨夜、ヘキサゴン(TV番組)で、タレントのM君が、
「彼岸」を「カレキシ」と読んで爆笑でしたが

 煩悩多く、自己中心性のため、ますます苦悩する 凡夫の世界 である 此岸(しがん)に対し
 一切の苦悩がない、安らかな さとりの世界、仏さまの世界 である 彼岸

 太陽が真西に沈んでゆく、西の岸(西方浄土)とも言われる 彼岸

 慌ただしい年度末ではありますが、

 忙しさに 文字通り、心を亡くさないよう、

 彼岸に 心を向けたいと思います

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葬式は要らないか? その2

2010年03月17日 | 仏教
 そもそも仏教には 「葬式をどうするか」ということは、出てきません。

 日本で、今のように、仏教で葬儀が行われるようになったのが、
いつ頃からなのか、私は存じませんが

 何のために葬式をするのか

 浄土真宗の場合ですと

 お寺のサポーターさんであり、念仏の教えを喜んでこられた「同行」(どうぎょう;同じ教えの道を歩む仲間)の 死 に接し、

 仲間の代表者である僧侶が、遺族、友人と共に 故人の死を悼む

と同時に

 故人は、人間としての「いのち」を終えると同時に、阿弥陀如来の本願力「はたらき」によって、浄土に生まれ、阿弥陀さまと同じ「はたらき」の仏と完成された と、尊ぶ

 そういう心で、導師(儀礼のリーダー)を勤め、一同と共におつとめする。

 浄土真宗の「葬儀」は、故人のために「してあげている」のではなく、
遺族、友人が、故人に「させていただく」こと。

 悲しみのなかにも、故人が「仏さま」(真理を覚られ・法と一体)に成られたと尊ぶ 儀礼であります。


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ペットの死 その2

2010年03月16日 | Weblog
 16年間一緒に生活を共にした、大型犬を亡くされたMさんのお話により、初めて知ったのですが

 ペット専門の葬儀業者さんがおられるそうで、

 黒のスーツに白手袋の紳士(業者さん)が2名、来宅。

 ペット用のかわいい棺桶(ペットの大きさに合わせて)に納棺。
 
 飼い主の希望通りに、動いてくださるのだそうです。
 人間と同様に通夜・葬儀をするのか、火葬場に同行して、骨拾いするのか、納骨は、個別のお墓にするのか、共同埋葬でいいのか等々・・・

 Mさんは、火葬を業者さんにお任せし、納骨は共同埋葬でお願いされたそうです。
 後日、ペットの法要の案内まで来て、びっくりされたそうですが、法要日が、ちょうど彼岸の中日(春分の日)。

 「私は、お寺(法専寺)のほうにお参り来るので、ペットのほうは、気持ちばかりお金を送って、それでおしまいにしようと思います」
と、Mさん。

 今回、Mさんの老犬の死を通して、
ペットの死について、いろいろ考えさせられました。

 
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ペットの死

2010年03月15日 | 雑感
 このブログで数回ご紹介したことがあるM・Sさんちの老犬ボビー。

 毛が薄くなり、体力も落ちてきていたので、覚悟はされていたようですが、
今月初めに、老衰のため、静かに、気づいたら亡くなっていたそうです。享年16才。

 立ち上がれば130cm位ある大型犬なのに、実におとなしく、お利口さん。
 家の中で飼っておられましたが、
私がお参りに伺うと、ボビーも出迎えてくれ、仏事の間は おとなしく座って「お聴聞」?してくれておりました。

 一人暮らしのM・Sさん
「(老犬を)亡くしてみて、どんなに癒されていたか、初めて気づきました・・・」
と仰っていました。
 16年間一緒に生活した家族同然の老犬の死。
 寂しくなられたことと、思います。
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法名

2010年03月13日 | 仏教
 以前にも何度かご紹介していますが

 浄土真宗では、「戒名」と言わずに「法名」

 法名は、死んでからの名前ではなく、生きている内に仏弟子となる儀式を受けて、いただく名前。それが、正式です。

 でも、生前に法名をお持ちでない方が多いので、ご葬儀にあたって、住職が法名をおつけすることが多いのですが
 「法名料」などは、ありません。

 しかも 釈○○

 この3文字だけ。

 本願寺に貢献された方には、院号が授与され、その場合は、○○院釈○○となりますが、
院号がついたからエライわけでも何でもない

 浄土(仏の世界)にランクはなく、
 皆、平等であります。
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葬式は、要らないか?

2010年03月11日 | 仏教
 ベストセラーになっている

 島田裕巳氏 著 「葬式は、要らない」 幻冬舎新書

を 拝読いたしました。

 全体通して、島田先生のご意見に反感だけでなく、同感する部分が、多くありました。

 帯には、「葬式大国、日本の葬式無用論」とセンセーショナルに書かれていますが、
島田先生は「葬式が要らない」と全否定されているのではなく、
 
 宗教心のない現代人
 葬式・法事の「お経上げ係」のように誤解を招いている僧侶・「葬式仏教」に対する問題提起だと思いました。

 葬式は、故人の遺言(意志)もあるかもしれませんが、
葬式する、しない は、遺族(ご家族・親族がない場合は友人)の気持ちの問題です。

 遺族(あとに残った者)が、故人の「死」をどう受け止め、どう偲ぶのか
やがて、間違いなく自分にも訪れる「死」をどう考え、どう生きるのか  だと思います。


 とりあえず、大きな問題になっている葬式の費用面から申しますと、
 
 葬式費用が莫大になるのは、全て業者さん任せで、遺族が「葬式」の「お客さん」になってしまっているから・・・  

 お寺への不満は、普段、お寺と接点なく、お寺の成り立ちも、葬儀の意味も全くわからないから。 これは、お寺側の布教努力不足が原因 

 大切な「法」が伝わっていないのが、最大の原因

 それと、真宗には無く、他宗のことですので、申し上げにくいのですが

 「戒名料」
 どう考えても、一字増えるごとに「格が上がる?」何十万?と言う、高額な「戒名料」は、私には理解できません。

 つづく・・・

 
 
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車の窓から

2010年03月10日 | 雑感
 先日、車を運転中、某交差点で信号待ちをしていた時

 前の車のドライバーが、運転席窓から何かをポイッと、路上に投げた。

 それは、火のついたままのタバコ 

 えっ、えっ~ 

 佐賀で、そんなことをする人、見たことがなかったので
びっくり、がっかり。

 タバコを投げ捨てた20代と思しき彼には、
ぜひ、路上の清掃奉仕をしていただきたいです。
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春の花

2010年03月08日 | 雑感
 きょうは、強風が吹き荒れ、寒く感じますが、

 しばらく、暖かい日が続いたので、春の花々が咲き始めました。

 
 春が来て、
 芽が出て、花がつぼみ、
 精一杯咲いて、散ってゆく・・・

 先日、テレビで拝聴した禅僧が仰っていました。

 人間も自然の法にかなって、
 生まれ、自分の人生を精一杯生き、
 人間のいのちを終えて逝く
 
  
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負けて本願に帰す

2010年03月06日 | 仏教
  利井明弘 師 「でや、うまいやろ」 探究社

 利井先生のお寺 常見寺さんの法話集です。

 その中で、山本仏骨先生 の 言葉を紹介されておられます。

 「負けて本願に帰せ」

 山本和上が若い僧侶がたに、こう言われた。
「お前たちは、横綱と相撲を取って、百回に一回でも勝てると思うか」
「そんな百回どころか、一回でのびてしまいます」
「そうじゃろう、阿弥陀さんと智慧くらべするな。負けて本願に帰せ

 また、利井明弘先生の曾祖父さまの言葉も書かれておられます。

 「無我とは、我 はからい が、仏の はからい に負けて、仏の はからいの勝った時をさすのである」
 「勝とうとすると 力もいるし骨も折れる。しかし、一旦負ける気になれば 力も入らぬ骨も折られぬ、その心安さは比類がない。されば、真宗は 我が折れ 我が負け、我がなくなった時に はじめて 如来の大悲が頂けるのである」

 如来の大悲 とは、阿弥陀如来の大きな慈悲のこころ、私に寄り添ってくださるこころ「本願」のことです。

 自分の容貌すら客観的に見る力のない私なのですから、自分の頭で考える世界は、実に客観性がない・・・
 
 負けて本願に帰す とは、 自分の危うい主観(思い込み)を捨て、真如(はたらき として、私にわかりやすく現れてくださったのが、阿弥陀如来・南無阿弥陀仏)に帰依する(まかせる・ゆだねる)ことだと、しみじみ味わっております。

 
  


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私の顔は

2010年03月05日 | 雑感
 何だったか忘れましたが、ある雑誌か本かで

 自分の顔は、自分のためでなく、人のためにある

という言葉がありました。

 言われてみれば、その通りで・・・

 まず、「私」を人に認識してもらうのは、「私の顔」でしょうし・・・

 また、私の顔は、自分のもの と当然思っていますが、私の顔 って、自分が一番見ませんよね。 
 鏡を見ないと、自分では見えない。

 私の顔・・・残念ながら、美人ではなく、まあ「それなりに」の上、だんだん小じわも大じわも増えるけれど、

人のために何かできるか というと、

 自己満足の化粧をすることよりも、

ずばり、笑顔 なんだと思います。

 仏教で、布施(人に施すこと、お金とは限らない)の中に

 和やかな顔 というのがあります。

 自意識過剰で、「人にどう見られるか」を意識した作り笑顔でなく

 人のための 穏やかな笑顔 で ありたい と、あらためて思ったことでした。 
 
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