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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

平城官僚の筑波山麓『看淫録』

2007年01月01日 00時49分00秒 | 筑波山麓

筑波山からの見晴らし。新緑の季節

鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の
その津の上に 率(あども)ひて 娘子壮士(おとめおとこ)の
行き集い かがふかがひに 人妻に 我も交はらむ
我が妻に 人も言(こと)とへ この山を
うしはく神の昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみは
めぐしもな見そ 事もとがむな

『万葉集』巻9ー1759 

現代語訳は;
筑波山の裳羽服津の泉のほとりに、男と女が連れだって集まり、
唄い踊るかがいでは、私も他人の妻とずっぽしずこずこ交わろう。
だから、私の妻に他の男もずっぽしはめさせよ!と声をかけよ。
この山を支配している神が、昔からお許しになっていることだ。
今日だけは女を監視するな、男を咎めるな

■このうたは高橋虫麻呂のもの。平城京から筑波山麓に来た官僚さん。
719年(養老3年)前後、藤原宇合が常陸守であった頃に宇合の下僚となる (ウィキペディア・高橋虫麻呂)
つまり、大宝律令ができたばかりの小中華帝国の官僚として、地方に出向いた。ちなみに当時の常陸の国は東北に対する最前線である。

うたよみが主任務なのか、役人業のかたわらでうたよみをやっていたかわからないが、とんだリビドー・役人との伝あり↓。
性欲のかたまり・オン・ザ・ロード

■虫麻呂が実際に かがひ つまりは「乱交パーティー」を見たかどうかは根拠がない。たぶん、きっと、見聞なぞしていないのだろう。 せいぜい現地での伝聞、場合によっては虫麻呂の「妄想」の可能性すらある。 つまりは、「帝国主義」時代において、本国で性的抑圧を受けていた帝国本国人が、しばしば、植民地において現地人に「性的放埓」を幻視すると言われるあれである。 その点、大宝律令で発足した<帝国>は、案外、毛唐さんよりずい分先取りをしていたものだといわねばならない。そして、現在の筑波山麓は<ポスコロ>状況(2000-700=)1300周年ということである。

天皇陛下マンセー! 2007