
-自分さがしの果てに、見つけたよ(震災の後かたずけのついでに行った大掃除において)。-
今月一日、「もっと崩れろ!、もっと崩れろ!」と呪詛することについて言及(愚記事、今日の看猫 2011/3/1、あるいは、「もっと崩れろ!」の江藤淳をみつけたょ)、十日には、恒例ではあるが、東京大空襲の大量死について言及(愚記事、夷(えびす)を焼く弾(たま);焼夷弾)。そうしたら、翌日、大地震が来た。地震そのものよりも波に呑まれて死んだ人三万人あまり。おいらの部屋もちょっぴり崩れた(愚記事;筑波山麓で受けたM8.8の地の波の結果について、おいらの見たこと)。
■はやり、キチガイ。
おいらはやはりアタマ、おかしいと感じた。別に、自分探しに出ていたわけではないが、キチガイと改めてわかる。どういうことかというと、空襲の後の焼け野原や津波に瓦解した街の光景をみるに、その静かなただずまいに、何かこう、崇高な気持ちが湧いてくるのだ。死んだ人たちに対する悲しみとか、さぞかし無念だったろうにとかという同情よりも、何かある種の感慨。何か静かな感じ。いそいで付け加えると、別に航空写真的風景をみてだけで湧きあがってくる感慨ではなく、国内メディアでは"検閲"されているが、海外メディアでは報道されているぬんげんが岡に上がった魚のように無惨に多量に横たわっている虫瞰的風景をも見てのことだ。
そしてこれが本当なんだろうという感慨。おいらは昔から繁栄した巷に廃墟を幻視してしまう。これは、はやり、病院に行った方がよかったのかもしれないのだろうか?幻視する廃墟というんは端的に先の大戦でやられた戦災後の街々。(愚記事;■おいらが近代日本で一番好きな画像はこれかこれである。)敗戦後20年以上もたって生まれたのになぜこうなのかわからない。さらには、生まれ育った札幌はB29の空襲にも逢わず、戦災とは無縁な街だ。親類縁者で空襲で死んだものなぞいやしない。
思い当たるのは子供のころから戦記ものをみてきたからだろう。
▼耐"狂"資質
日本人は「耐"狂"資質」がある。「耐"狂"資質」とは今つくった言葉。日本人以外ならパニックになって狂乱状態になるような場面でも、日本人は大丈夫。これは諸行無常のミーム(文化的遺伝子)が染みついているかのようである。
神戸の震災の後、聞いた話。これはメディアや講演会とかではなく、一対一で直接聞いた話。その人は、あの神戸の震災の時、外国からの留学生を"世話"する役職にいた。あの震災の朝、多くの外国人留学生はパニックになり、ある者は"発狂"した。荷物の片づけもそこそこに即効で帰国した留学生もいた。一方、神戸の街は静かだったと。
日本人は不条理な大量死や大規模な瓦解、崩壊に対し耐性があると言わざるを得ない。天地動転しても、まわりで無意味に多量に人が死んでも、発狂しない。上記"ミーム"というのは冗談である。でも、日本人は、諸外国に比べ、不条理な大量死や大規模な瓦解、崩壊に対し耐性があるというのは観測事実なので、そのメカニズムは明らかにすることは楽しいことだろう。例えば、こういうのものがあるよね。
あと、直接関係ないが、精神病者、端的に狂人の扱いは日本とは全然違う(らしい)。おいらが、カナダで会った兄ちゃん。高校から留学、ホームステイして学校に通っていた彼は、いわゆる日本でいう「切れる」という行為をホストファミリーに対してしたら、精神病院に収容される寸前だったと言っていた。
「耐"狂"資質」とは、狂気を自分の中で飼いならすことなのかもしれない。常にそれを冷却しているのが日本人ってことか。その冷却装置がぶち毀れると狂気が臨界に達し、狂気炸裂の連鎖反応を始めるのだろう。おとろしいことだ。その狂気炸裂の連鎖反応は国民的なものとなる。⇒これだ!