今夜もどうでもいいことです。
父がいつも留守がちだったのは、海外出張が多かったからである。
私の小学生である五〇年代は、いわゆる「戦後復興期」であるが、その五〇年代の大半を、父は、中南米ですごしていた。父の勤めていた会社は、現在でも日米貿易摩擦の中心と見られる会社で、当時から、海外進出に力を入れていた。ただし、その頃は、アメリカのような先進国にはまだ進出せず、中南米が中心であった。父が二年行っては三カ月帰国し、三年行っては半年帰国するというように、いつも単身出張していた国は、メキシコだった。
呉智英、『大衆食堂の人々』、12 オルテガたち―少年の、そして大人の、1984年
1970年代後半、1980年代初盤は日米貿易摩擦が絶頂に達した。1979年に大来外務大臣はワシントンの雰囲気を開戦前夜といった。上の呉智英さんの文章はそういう時代のもの。日米貿易摩擦の最大懸案が自動車問題。上の文章から呉さんのお父さんは自動車会社に勤めていたと推定できる。そして、呉智英さんは尾張の出身だ。もう、トヨタに間違いない(???)。
話が飛んで、津村喬さんは呉智英さんの「天敵」だ(愚記事:呉智英さんから全共闘の恥部と呼ばれていた津村喬)。
その津村喬さん(1948年生まれ、当時22歳)の1970年に書いた本に、「関 曠野」(1944年生まれ、当時26歳)[wiki]が引用で出て来た。
なお、もし、呉智英さんのお父さんがトヨタに勤めていたとしたら、こういう文章がある。関 曠野による1985年のもの。
日米貿易摩擦の深刻化とともに、一九八五年は日米関係が戦後最大の転機を迎える年となることがはっきりしてきた。ちょうど戦後四十年にしてこうした事態が起きていることは、偶然とは思われない。(中略)
私がこんなこと[戦争は資本主義経済に深くビルト・インされた現象である]をいうのも、戦後日本の「平和と民主主義」とか「繁栄」なるものが、やはり二重三重に戦争に規定され戦争の影の下にあることを改めて強調しておきたいからに他ならない。(中略)
今日の超大企業トヨタ自動車を倒産寸前の状態から救った朝鮮特需については、今さらいうまでもないだろう。
関 曠野、「小判ザメ民族の戦後の終わり」 『野蛮としてのイエ社会』
こういう左翼流が嫌で、封建主義者になったのかな?呉智英さん。
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呉智英さんのお父さんの話にもどって;
1950年代で中南米に貿易の仕事。すなわち、スペイン語屋さんだったのだろうか?そして、呉智英の生年1946年から推定して、呉智英の御尊父は戦争に行った世代の可能性がある。少なくとも、教育は戦前に受けて、戦前に職業についていたのだろう。呉智英さんの御尊父は戦前何をしていたのだろうか?呉智英さんの「インテリ」性は生育環境のものと思われる。つまり、呉智英さんの御尊父も何かインテリ、あるいは戦前では少数派の中産階級だったと思われる。そして、スペイン語。呉智英さんの御尊父はこれ関連?。大きく邪推してみた。
● まとめ
呉智英さんは黒類。津村さんは赤類。
なので、呉智英さんは、サラリーマンにやさしい;
「資本主義の会社に勤めている人。何の恥ずかしいことがあろうか。がっちり儲けて、そして読書をしてほしい」(呉智英、『読書家の新技術』、1982年刊行)[愚記事]
でも、全く恥ずかしさのないものに「何の恥ずかしいことがあろうか」とはいわないよね。やっぱ、...