いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「反日」思想の源流;津村喬拾い読み

2016年07月28日 19時59分59秒 | 日本事情

最近、自分の誤解に気づいた。

いわゆる「南京大虐殺」をはじめとする大日本帝国(以下、日帝)の「侵略」戦争糾弾と当時者責任としての日本人糾弾は、結構、最近(といっても 四 半世紀前)の1970年7月7日からだったとの指摘。

おいらは、戦後ずうーっと、日帝の「侵略」戦争糾弾が行われてきたと思っていた。なぜなら、おいらが物心ついた1970年代後半からそういう反日的雰囲気であった。おいらが利用できる図書館にある本の世界は。そして、新聞なども。

こういうことに特に疑問を持たなかった。なぜなら、日帝の「侵略」の象徴であるいわゆる「南京大虐殺」などは東京裁判で責任問題となっていたからだ。いわゆる、東京裁判史観。くりかえすと、戦後ずっと東京裁判史観が日本を支配してきたというのが1980年初頭に中二病だったおいらの記憶。

事実、1963年に刊行された石田保昭、『インドで暮す』に書いてある;

 敗戦は悲しかった。中学にもどってふたたび勉強をはじめてはみたが、私は疑惑からのがれることができなかった。私が信じていた皇国と陸軍の栄光はくずれて行き、みにくい素肌が露出されてきた。一九三七年の上海上陸から南京までの道を、残虐のかぎりをつくしながら「皇軍」の進撃がおこなわれたことや、南京占領直後の大虐殺の事実などを私は知った。
 「皇軍」という心のよりどころをうしなって冷静に考えてみれば、満州事変いらいの日本の歴史は中国侵略の歴史だった。そのあいだに大陸の戦場にたおれた幾万の同胞将兵、そして、日本軍の戦死者の数倍、数十倍の罪なきアジアの民衆が、戦火の犠牲になっていったことも、かくしきれない事実だった。天皇は安奉だった。日本の戦争指導者たちは責任を回避するのに一生懸命だった。私はあのまま陸軍将校になっていたら、やはり、中国の人びとを殺すのに力をかしていただろう、と思うのだった。

ということで、戦後ずっと東京裁判史観が日本を支配してきたという印象をもっていた。

さて、反日運動。東アジア反日武装戦による三菱重工爆破事件は、当時小学生だったおいらの、記憶にある。

かの小谷野博士の記憶にもあるらしい(愚記事;小谷野敦博士[#1]の『ヌエのいた家』(文學界 9月号)を見たら書いてあったより);

ちょうど二百十日あたりの、涼しくなりかけの、どんよりとした曇りの日だったように記憶する。すると母から電話が掛かり、爆破事件のことを聞かされ、お父さんの会社も近いけどと言われて、どきんとした。 『ヌエのいた家』

ただし、おいらは、自分の街の、和人のアイヌ領侵略支配を攻撃する北海道庁爆破事件の当日の事件を知った瞬間の記憶はない(関連愚記事がきんちょのとき起きた道庁爆破事件は知っている。そして、どうでもいいことだが、おいらは大森勝久さんを見たことがある。)。

今思えば、もし、戦後ずっと東京裁判史観が日本を支配してきたのであれば、1950年代や1960年代に反日テロ事件が起きてもよかったのだ。

実際は違ったらしい。すなわち、1970年7月7日の「華青闘告発」までは、新左翼も含め、日帝に「侵略」のオトシマエをとらせるという行動にはでていないばかりか、自己中心的なナルシシズムに耽っていたというのだ(絓秀実、『1968年』)。

最近初めて、津村喬の本を見はじめた。そして、気づいた。これらは、『反日革命宣言 東アジア反日武装戦線の戦闘史』のネタ本だと。

1945-1970年の間、ぬっぽんずんは特に「中国侵略」の詳細を自責的にとらえて、何かしらほとばしる行動はとらなかったようだ。そういえばそうだよな。60年安保とかの記録で、日本の過去の侵略戦争のオトシマエをつけろ!とか云ってないよな。

何より、戦後って、米英撃滅国民大会を主催した新聞各社がそのまま生き残って活動してるんだから。

つまり、現在に流行の反日思想の源流は東京裁判ではなく、「津村喬」だと。

絓秀実さんにより、1970年7月7日の「華青闘告発」の大きな理論的貢献者とされているのが、津村喬。

もっとも、津村喬自身こう云っている;

絓秀実さんが、入管闘争でぼくの役割が非常に大きかったように書いてくれましたが、実際にたいしたことはしていません。その経験を思想的に総括をしたとはいえるかもしれませんが。

インタビュアーの「一九七〇年の七七シンポが日比谷公会堂であったさいに華青闘が反対集会をします。津村さんは華青闘に傾斜したスタンスだったと思いますが。」という質問に答えて。
馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』

その津村喬拾い読み(1968年6月21日付の津村の文章);

 われわれにとって戦争体験とは、そして戦争責任とはなんであろうか?
 かつて権力に「芦溝橋事件」を許し、国家=天皇制という民族共同体的幻想に眩惑し、銃を中国の兄弟たちに向けたわれわれの祖父、父たち、そしてその世代によって遂に解決されぬままの「意味」を負わされつつ「戦後」に生き始めたわれわれは、沖縄核武装化、日帝のベトナム侵略参加の現実の中で、どこまで図々しくも被害者を演じうるか、御都合主義の、あまえきった「国際連帯」を「支援」を「友好」をとなえつづけるのか!
津村喬、七・七(芦溝橋事件)三一周年早大宣言、『魂にふれる革命』、第三部 日本文化大革命への模索

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 どこまで図々しくも被害者を演じうるか、御都合主義の、あまえきった「国際連帯」を「支援」を「友好」をとなえつづけるのか!ってすごい啖呵だよね。でも、ホントそうだよね。米英撃滅国民大会を主催した新聞各社が平和と民主主義を唱えてきたのが戦後。今では、日帝侵略(元)子供が、平和と民主主義を唱えている!(今朝の文化放送のラジオのコメントで云っていた、アジアの部外者である米国を呼び込んで)中国さまに逆らうな!

こういう言い分; どこまで図々しく御都合主義の、あまえきった考えをしつづけるのか!は、1945-1970年の間はなかったらしいのだ。ホントなんだろうか?

調査は続く。

ところで、これは中二病の頃からうすうす感じていたんだけど、「自分は日帝侵略兵士の子供だから、親をしばいた!」とか、あるいは逆に悩んでいたとか、はたまた、「自分は日帝侵略兵士の子供だから恥ずかして生きていけないから自殺する」とかいう話はきかないよね。おいらが知らないだけなのかもしれないが。もっとも、米英撃滅国民大会を主催した新聞各社が恥知らずに存続してるんだからね。

● まとめ

どこまでも図々しく、御都合主義の、あまえきった自分で渡世するぬっぽんずん!