いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

さよなら、武相境:こどもの国駅から武相荘へ

2024年04月12日 18時42分11秒 | 武相境

3月22日、晴れ。横浜を去ることになったので、最後のお別れの散歩。都県境を越える散歩をした。この付近は1960年代までは丘陵地帯で谷戸が発達していたが、高度経済成長による人口の首都圏への流入と生成した中産階級、しかも「アッパーミドル」層用の住宅地が造成された地域。小田急や東急の私鉄が走り、それら電鉄会社などが開発した住宅地が広がる。一方、開発されない、開発できない域も残っていて、旧来の丘陵、谷戸の面影を残している。特に、東京都と神奈川県の境は自然の境界、つまり、地形が厳しくて元来人の往来が難しい処が境界となっている。そういう往来の難しい場所はけものみちのようなものがある。その道を散歩するのが武相境での10年の暮らしの趣味だった。実はこの道はかつて紹介したことがある(愚記事:横浜・川崎・町田散歩;こどの国駅⇒川崎・岡上⇒鶴川)。

白洲次郎・正子夫婦が鶴川の能ヶ谷の百姓屋敷を購入し「疎開」してきた昭和18年[1943年]に、そのうち東京は焼け野原に帰すと予測したが、30年も経ないで周囲が突如勃興した中産階級に包囲されるとは予想しなかったであろう。その能ヶ谷の百姓屋敷は、今では、武相荘として有名だ。人気らしい。でも、その人気の担い手は中産階級の俗物に違いない(???!!!)。白洲次郎ブームとか、おいらは、身の毛がよだつ。でも、中産階級を俗物だと思う本当の俗物のおいらは、武相境を去ることになったので、これが最後だと、お参りに行った。


1,こどもの国駅、2.玉川学園台団地/横浜市・川崎市境の尾根、3.鶴見川渡河、4.武相荘

▼ 谷戸を潰した日本中産階級

 

 

■ 1,こどもの国駅 ⇒ 2.玉川学園台団地/横浜市・川崎市境の尾根

玉川学園台団地の地区概要(横浜市の web site

 ・昭和46年の造成から40年以上が経過
 ・約500世帯、約1,500人
 ・高齢化率:奈良町30.2%(青葉区17.7%)【2013年9月末】


尾根に登る階段


「芝の庭を持つ白い平屋の家」


GooleMapより


横浜市と川崎市の境界のフェンス

■ 横浜市・奈良 ⇒ 川崎市・岡上


a:「芝の庭を持つ白い平屋の家」、 b:尾根に登る階段、c: 横浜市と川崎市の境界のフェンス、d:川崎市岡上の谷へ下る入口、 e:岡上の谷へ下る急崖の階段、 f:十番坂

岡上:川崎市の飛地:これから急崖を下っていく地域は岡上といいますが、川崎市です。東京都町田市と横浜市に囲まれ川崎市本体とは切り離されています。飛地となった経緯は、川崎市麻生区に飛び地ができた経緯とは!?に詳細がある。説明に「隣接していても奈良村などとは山や坂が険しいという地形的理由で交流が少なかった」とある。まさに本散歩はその山や坂が険しいけもの道を行くのだ。


岡上の周囲の奈良の玉川学園台団地や町田の三輪は丘陵を大規模造成して宅地化されている。一方、岡上は造成された大規模宅地はなく、農地が多い。

1938(昭和13)年、同じ都筑郡の南にあった田奈村、中里村、二俣川村、新田村が横浜市と合併し、東の稲田村、向丘村、宮前村、生田村は川崎市と合併。

このとき岡上村は、横浜市か川崎市のどちらかとの合併を迫られた。岡上村は関係の強かった柿生村と協議を行い、川崎市との合併を決定し、翌年1939(昭和14)年に川崎市と合併した。

岡上村は関係の強かった柿生村と同じ市になることを第一に考えたようである。特に小田急線開通後は交流が活発になり、逆に隣接していても奈良村などとは山や坂が険しいという地形的理由で交流が少なかった。
1938(昭和13)年、同じ都筑郡の南にあった田奈村、中里村、二俣川村、新田村が横浜市と合併し、東の稲田村、向丘村、宮前村、生田村は川崎市と合併。

このとき岡上村は、横浜市か川崎市のどちらかとの合併を迫られた。岡上村は関係の強かった柿生村と協議を行い、川崎市との合併を決定し、翌年1939(昭和14)年に川崎市と合併した。

岡上村は関係の強かった柿生村と同じ市になることを第一に考えたようである。特に小田急線開通後は交流が活発になり、逆に隣接していても奈良村などとは山や坂が険しいという地形的理由で交流が少なかった。
ソース


T字路。左折すると十番坂。


十番坂

十番坂についてはたくさんの情報がネットで見ることができる;
Google [十番坂 画像]。 特に詳しいブログ記事:川崎市岡上の急坂に挑む(俺の居場所 様)


和光大学

■ 3.鶴見川渡河

■ 小田急線鶴川駅付近

■ 武相荘

▼ カフェ

▼ 内門

▼ レストラン

▼ 母屋・ミュージーアム

公式 web site       ミュージアムエリア(母屋)入場料 1,100円


縁側の外からの室内撮影。ひな人形に五人囃子がいなかった。

家屋の内部は撮影禁止。でも、どうしても撮りたい場面があった。撮った。許してください。

現在の旧白洲正子邸は、正子の死後そのままの状態を保持しているらしい[1]。

[1] 武相荘は町田市の史跡に指定されている。通常、史跡等に指定された民家は建築当初の形に復元されている場合が多く、現在の生活から切り離された昔の空間が再現されているが、武相荘は白洲正子の亡くなった平成10年の時をそのまま展示してある。(タウンファクトリー一級建築士建築設計事務所  建物雑想記 「モダンな古民家の史跡・武相荘」 町田市)

車谷長吉の『赤目四十八瀧心中』があった。なお、江藤淳の『南洲随想』もあった。正子は薩摩の樺山伯爵家の出だ。車谷長吉と白洲正子は縁がある。車谷長吉の本のどこかに、正子の生前、能ヶ谷に来た話がある。白洲正子は早くから車谷長吉を認め、それが故車谷は正子を崇拝していた。でも、よく考えると自分を認めた人を崇拝するのは自分が映った鏡を崇拝することではないか(!!!???)。

参考ブログ:百休庵便り 様 白洲正子さんと車谷長吉さん~「かくれ里」&「特別展 作家 車谷長吉。魂の記録」図録より 、 あべまつ行脚 様 「白洲正子から、車谷長吉へ

さて、白洲次郎は「かっこいい」として大人気だ。そして、車谷長吉...。ふたりは、「超俗性」ということで共通している(???)。

 


間取り(上のリンクより)

 
1960年代の航空写真と現在のそれ。「+」が武相荘。中産階級に包囲されることになった顛末だ。
なお、白洲次郎が、越してきて間もなくの頃だろう、戦時中だから、この地で近所の竹槍訓練に出た話は以前の愚記事でした。隣組の竹槍訓練に参加した白洲次郎はどうなったか?

  

■ まとめ 通過街

横浜市 青葉区 奈良

川崎市 麻生区 岡上

町田市 能ヶ谷



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。