大田区を散歩した。大田区は田園調布から羽田空港と広く、多様。今回は多摩川沿いの東急電鉄鵜の木駅から池上本門寺を経て、龍子記念館、大田区立郷土博物館までの散歩。
大田区広域図に記した散歩経路
散歩経路
1鵜の木駅、2昭和のくらし博物館、3呑川・国道1号線交点、4池上本門寺・本門寺公園、5龍子記念館、6大田区郷土博物館 →バスでJR大森駅
大田区の台地は久が原台と荏原台。台地の構成地層と段丘面の形成時代が異なる。2つの台地の間には呑川が流れる。2つの台地の南側は沖積低地。
■ 1鵜の木駅 ⇒ 2昭和のくらし博物館
▼ 2昭和のくらし博物館
昭和のくらし博物館(web site) 昭和26年建設。内部は撮影禁止なので、画像は挙げられない。
昭和のくらし博物館(しょうわのくらしはくぶつかん)は、東京都大田区に位置する昭和時代の庶民のくらしを展示する博物館である。
元々、東京都の建築技師だった小泉孝が建てた自宅を、孝の長女で生活史研究家の小泉和子(元京都女子大学教授)が、昭和時代(特に戦後、昭和20〜30年代)の庶民の暮らしを後世まで伝える目的で、博物館として、1999年(平成11年)2月28日から公開している。
住宅の間取りをそのまま残した館内の構成になっている。常設展では小泉家が過ごした住宅風景がそのまま残っている。2階建ての建物で、1階は書斎兼応接間、お茶の間、台所、座敷。2階は子供部屋,企画展示室,次女の知代に関する記念室,談話室からなっている。 (wikipedia)
■ ⇒ 3呑川・国道1号線交点
池上線を渡って、東へ。久が原台は土地が平。
「豪族」の家をみた。
呑川。
▼ おひる
すかいらーくグループの店舗が上下に入ったビル。
■ 3呑川・国道1号線交点 ⇒ 龍子記念館
大坊坂
坂を登って、荏原台の表面(下末吉面)に上がる。池上本門寺。
池上本門寺の東側の墓地を横切ると、本門寺公園への入り口がある。階段で下る。段丘崖だ。
▼ 本門寺公園
1938年に当時の東京市の公園として開園した。
荏原台には縄文遺跡があるとのこと。当時は海進の時代だったので、現在の低地は海で、このあたりが海岸の近くであったのだろう。
■ ⇒ 大田区立龍子記念館と龍子公園
汐見坂
中央五丁目12番と13番の間の坂道。坂名について、かつてこの坂から大森の海や舟の白帆、海苔ひび(注釈)などがよく見えたため、この名で呼ばれるようになったといわれます。
昭和の初めに耕地整理が行われるまでの汐見坂は、今より道幅も狭く、赤土の坂道で上る左側は畑でした。
また、この坂道は池上本門寺へ通じる池上道の近道でもありました。
今日では大森方面にビル群が建てこみ、惜しくも海などは見られなくなってしまいました。
(注釈)海苔ひびとは、海苔を付着させるため、海中に立てておく木や竹の枝をたばねたもの (大田区 web site)
▼ 大田区立龍子記念館
注目点は「高床」と「竹」。
龍子記念館は日本画家川端龍子(1885年〈明治18年〉 - 1966年〈昭和41年〉、wiki)が自ら建てた美術館。現在は大田区の資産、管理。
終戦を翌々日に控えた1945年(昭和20年)8月13日には龍子の自宅も空襲に遭った。使用人2人が亡くなり、家屋のほか食糧難をしのぐため庭で育てていた野菜も被害を受けた。この後すぐ『爆弾散華』(2m49cm×1m88cm)を描き上げた。金箔や金色の砂子の背景にトマトが爆風でちぎれ飛ぶ様を描いたこの作品は、戦死者への追悼も込められているとみる解釈もある。また爆撃によりできた穴を「爆弾散華の池」として残した(wiki)
【ズバリ解説】川端龍子《爆弾散華》1945年制作【大田区立龍子記念館所蔵作品】
▼ 龍子公園
下の画像の通りを挟んで記念館の向かいに龍子公園がある。旧宅とアトリエがある。
凹の字の建物が記念館(美術館)。上の木々が茂る区画が住居とアトリエ(最上部:戦災を免れた)。
竹がふんだんに使われている。
《椰子の篝火(かがりび)》(1935年)
1934(昭和9)年には、サイパンやパラオ、ヤップ等の南洋の島々にまで旅立って、島民の暮らしを本展出品の《椰子の篝火(かがりび)》(1935年)に描きました。(公式 web site)
川端龍子は上記のように南洋に行った。「高床」や「竹」はこの頃に得た趣向なのかもしれない。
【龍子記念館】龍子公園紹介動画
▼ 戦争画
1944年(昭和19年)に製作した『洛陽攻略』、『輸送船団海南島出発』については、戦後、GHQに軍事主義的であるとして他の作家の戦争画とともに没収された。その後、1970年(昭和45年)になって無期限貸与という形でアメリカ合衆国から一括返還。東京国立近代美術館に収蔵された。 (wiki)
■ ⇒ 大田区立郷土博物館
大田文化の森前から北西に曲って荏原町へ抜けるバス通りの坂道です。
昔から馬込より大森へ出るには、この坂と闇坂が主な道でした。このバス通りを昔は田無街道と呼んでいました。馬込を抜け、荏原町から三軒茶屋を経て田無へ通じる街道でした。
明治4年に東京府制が施行されてからもこの道路は府道第56号大森田無線と呼ばれています。
臼田坂の坂名については、坂のあたりに臼田姓の家が多かったので、この名が起ったといわれています。
また、坂周辺には大正末期から昭和初期にかけ、萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み、「馬込文士村」という言葉も生まれました。文士村のメインストリートであったこの坂も、当時は今日と異なり赤土の急坂でした。萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。 (大田区 web site)
大田区立郷土博物館は、大田区を中心とした人文科学系の博物館で、考古、歴史、民俗の各分野に関する資料を保存・展示しています。入館は無料です(特別展・企画展の観覧料については、お問い合わせください)。(大田区 web site)
特別展「大勾玉展-宝萊山古墳、東京都史跡指定70周年-」 をやっていた。200円だった。
常設展
■ バスに乗ってJR大森駅に行く。
歩道を自転車で走る警視庁警官を見た。
▼ まとめ 通過町
東京都大田区
鵜の木、南久が原、久が原、池上、中央、南馬込