みんな大好き、中川八洋 先生! のはずが、goo blogのタグ #中川八洋 に記事がない。
とはいうものの、中川八洋 先生マニアはどのくらいいるのだろうか? 昔の著作の中古価格は軒並み高い。
【思想概要】中川八洋 先生の思想(思想本籍)は一筋縄では説明できない。昔は「タカ派」の筆頭であった。難しいのは日本の核武装を主張するが、それは日本単独ではやってはいけない。米国との協力なしには全く認められないという立場である。さらには、GHQ万歳思想の持主である。したがって、現在流行の「保守派」とはかなり異質である。なにより、反安倍である。現在流行の「保守派」で反安倍はいないだろう。その点、適菜収に近いのかもしれない。中川八洋 先生の思想の特徴は、民族派を敵視することである。民族派として江藤淳、西尾幹二などを挙げて、徹底的に罵倒している。
【思想本籍】以上のような事情なので、中川八洋 先生の思想本籍がわかりずらい。なお、思想本籍とは八洋先生自らの言葉である。中川八洋 先生の思想判断基準は共産主義か、否かである。しかし、これも大雑把な話で、ソ連なきあと、ロシアを敵視しており、共産主義か、否かだけでは基準とならないはずだ。
【統一教会】ということを前世紀末から、おいらは考えていた。さらにそれ以前、冷戦時代から考えていたことは、中川八洋筑波大学教授って統一教会の(筆頭)信者、あるいは、原理研の(幹部)活動家なんだろうかということであった。ただし、エビデンスは何もなかった。エビデンスは何もなかったので愚ブログでは中川八洋 先生に何度も言及しているが、統一教会のことは触れなかった。中川八洋筑波大学教授が文鮮明の徒であろうとおいらが空想した理由は、福田信之。
【福田信之】とは、筑波大学の学長にもなった物理学者。朝永振一郎や仁科芳雄の弟子、部下。何より、文鮮明の熱心な信徒であった。何と、1970年代は「筑波大学副学長、学長」などの肩書で統一教会の集会に参加していた。特に、今では伝説となっているあの「文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」」にも参加。1974年。つまり、公然信者であった。wikipedia
さらに重要な点は反共主義者であった福田信之は、元来、共産主義者であったこと。
ただし、福田信之の共産主義者時代の情報は(少)ない。紹介できるのは、自分の発言のみ;
終戦後数年ですかね、当時科学者の中にたくさん左翼がいて、そういう連中と一緒に左翼運動に身を投じていたんです。科学者運動というので、先輩の武谷さん以下、たくさん付き合った。
今日も教育大の関係者たちと話したんですが、ああいう左翼学者というのはフェミニストですよね。僕は成田の過激派のようになんでも爆弾投げてやるくらいなら、これはそれなりに評価できる。ところが彼らはそういうところには出かけない。真面目な連中を煽って、自分はいかに金をもうけるか。金をもうけるのが達者な連中ですね。
僕ら若い時は真面目にやったもんだから、だからなおさら悪さがはっきりわかってくる。(福田信之、『国際化時代と大学』、1980年)
推定するに、25歳で理研の研究者(原爆材料開発研究)として敗戦を迎えた福田は、敗戦の衝撃で共産主義者になったのだろう。25歳というと少しトウがたっているが、インテリで軍国青年/従軍経験からアカ(共産主義者)になるという例は多かった(例えば、色川大吉とか)。福田は数年活動したといっているが、『原爆・水爆とビキニ死の灰まで : 図解原子物理学』を1954年に出している。反核運動をやっていたというから、1954年にはまだ転向していないのだろう。さらに、推定すれば、朝鮮戦争勃発で日本共産党が非合法され、「地下」活動をする共産主義者がいた時代。山村工作隊など。福田信之のいう「過激派のようになんでも爆弾投げてやるくらい::僕ら若い時は真面目にやった」とはこのあたりのことではないかと、おいらは邪推している。
そして、福田信之は、東京教育大学の筑波大学への「移転」(法制上は、東京教育大学の廃学、筑波大学の設置・開学)の推進者筆頭であり、「移転」反対派の「左翼」に対し、福田は、自らの左翼知見を以て、勝利した。下記記録がある;
移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之(1921-1994)教授であると言われていたが、彼はある雑誌(「経済往来」)の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく機動隊を使うことだと、得意げに述べている。事態はすべて彼の「3原則」通りに進行したと言え、福田教授こそは筑波大学建学の最大の功労者であったと言えるであろう。(彼は三輪知雄、宮島龍興につづいて筑波大学の第三代学長になる。)福田教授は反対派の学生をつかまえて、「お前はレーニンを読んでるか、俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、どうもこの福田3原則にはレーニン主義の影響が感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論にならって推進派独裁をやっているかのようである。 (東京教育大学小史)
【中川八洋、筑波大学】中川八洋が筑波大に就職したのが1980年(科学技術庁の課長補佐から転職)。福田信之の時代だ。これもエビデンスなしに、おいらは、勝手に、反共つながりで八洋先生は筑波大に勤まったのだろうと考えていた。その後も、中川八洋筑波大学教授って統一教会の(筆頭)信者、あるいは原理研の(幹部)活動家なんだろうなと空想していた。しかし、エビデンスは一切見つからなかった。中川八洋は年譜を公表しているが、この件に関する情報は見当たらない。
さらに、福田信之と中川八洋の接点も全く確認できない。
【そして、思想本籍開示】近日の統一教会騒動の余波で、中川八洋が(おそらく)初めて、統一教会についての認識を示した;
また、統一教会とは、朝鮮労働党党首・金日成が朝鮮戦争で疲弊した北朝鮮を再建すべく、その資金を韓国の民衆から集めるべく、1954年、韓国に亡命中の北朝鮮人&教条的コミュニスト文鮮明に命じ、“財産収奪宗教団体”として発足せしめたエセ宗教組織。当然、反共ではなく、逆に狂信的な共産主義一色の教団。 (中川八洋ゼミ講義)
と罵倒している。なので、中川八洋は統一教会と無縁なのだろう。ただし、不自然ではある。上記認識があったのであれば、福田信之を罵倒してもよいはずである。
【はたまた、村松剛】 1980年代の筑波大学「右翼」教授として著名だったのが、村松剛。村松剛と中川八洋は交流が深かった。八洋先生の年譜に書いてある。
おいらは、村松剛の本を何冊か読んだことがある。気に入ったところは、「保護領」(protectorate Japan) 認識や、何より、米国が嫌いだと公言していることだ。米国嫌いは占領のトラウマで、村松剛は進駐軍キャンプに出入りいして「闇商売」をしていた。家が建つほど儲かった。基地で米兵に自動小銃銃撃され「蜂の巣みたいになって死んだ日本人はいくらでもいた」といっている。国家主義的というか、普通に主権国並みに軍備をしろという主張をするのを、マッチョでいいなと思っていたのかもしれない。
ところが、昨日買った古本(愚記事の■今週の購書)に恐ろしいことが書いてあった;
村松剛氏と言えば R 大学助教授、文芸評論家、仏文学者で、皆さんよく御存知の日本のモナリザ、村松英子さんの兄貴であるが、この男、肩書きに似合わず甚だそそっかしい。学問芸術については実に博学多識であるが、俗世間の下情についてはほとんど知らん。彼が美空ひばりをヒバリ科に属する鳥の一種だと長い間、信じていたという実話は友人にはあまりに有名な話であるし、野球をやらせるとバット振って三塁にのこのこ歩き出すような始末である。
もう五年ほど前になるのであるが、当時彼は成宗近くの都電停留所の前に住んでおった。
ある朝、いつものように講義におもむくべく、ネクタイをしめ、上衣を着、ノートを入れた鞄を持って家を出た。ちょうど都電が停留所にストップしたところであったので、大急ぎで飛び乗ったところ、乗客一同、眼を丸くし口をポカンとあけて自分を注目しておるではないか。
注目するのも当然である。彼は上衣を着、ネクタイをじめ、鞄こそ手に持っているが、下はモモヒキ一枚だったのである。 (遠藤周作、『ぐうたら社会学』
うーん、剽悍決死の人ではなかったのだ。まあ、しょせん「知識人」だよね、と当たり前のことに気付かされた。
【蛇足】中川八洋さんに戻って、八洋先生の敵は共産主義者と民族派である。民族派として、江藤淳、西尾幹二が挙げられている。なお、八洋先生の脳内では、共産主義者と民族派は同じものの現象形態が違うものである。民族派とは反米右翼のことであるが、そうであるなら、典型は西部邁である。八洋先生の年譜では、あまたの「保守派」知識人が罵倒されているが、西部邁はその罵倒を免れている。理由や評価基準はわからない。西部邁は元アカで民族派で反米右翼の典型なのに。八洋先生の年譜での西部の言及箇所は下記;
《わたしが初めて西部遭氏と会ったのは二十年近く前だった。中川八洋氏が主宰する勉強会に西部氏が講師としてあらわれ、難しい講話が終わってから六本木のビアホールでビールを相当量飲んだ。中川氏はソフトドリンクを飲んでいた。
何を話したかは綺麗さっぱり忘れている。》「辛口コラム 書評その5のA 西部邁著 『妻と僕 寓話と化す我らの死』(飛鳥新社)」http://miyazaki.xii.jp/column/index5.html
コメント、ありがとうございます。ご指摘のことが重要です。つまり、「中川八洋は統一教会とは無縁」ではない。
問題は、中川八洋と統一教会の接点を示すエビデンスが昔から(1970-1980年代頃の接点)ないことです。反共思想での「共闘」のエビデンスもみたことがありません。
これは、不思議なことです。
小田先生にはなじみがなく、「聖人・小田晋」https://tatakaiudon.seesaa.net/article/201305article_3.html を再読しております。 ふたりの宮台「切りつけ」は、ご指摘「諸君」の「ボクちゃん社会学者 希代の煽動家か,それとも…--宮台真司助教授はこれだけキレている」 1998年4月です。 社会は価値紊乱で崩れていくのかと嘆く視点より、なぜ無秩序ではないのか?という視点でみることの云々だったと記憶しています。 なお、小田先生は筑波大1977年赴任なので、開学組らしい。根っからの○○に違いありません。西部の縁者って、H.A. ?
「91年の訪朝による金日成との協力関係」は衝撃的だったと思います。この時点で、文鮮明を疑って当然だと思います。
しかし、安倍氏や安倍氏周辺の学者を批判するまでに時間的(時代的)ギャップがありすぎるので、謎です。