有栖川宮 熾仁(たるひと)親王像
北白川宮能久親王像
■昨日の有栖川宮 熾仁(たるひと)親王像は東征軍大総督であり、徳川追討が使命であった。 一方、明治になって北白川宮となった能久(よしひさ)さんは戊辰戦争の時は輪王寺の宮として奥羽越列藩同盟が担いだ「天皇」であった。東北で薩長軍に抵抗する奥羽越列藩同盟とともにあった。薩長の文書では、仙台は偽帝を擁し、と罵倒されている「偽帝」である。
■奥羽越列藩同盟が敗北し、明治となって、北白川宮が創設されて、元「偽帝」は、当主となる。陸軍戸山学校を卒業、37歳で陸軍少将東京鎮台司令官、45歳で中将となり師団長として日清戦争に従軍。52歳で近衛師団長。日清戦争後の下関条約にもとづく台湾占領のため渡台。直後、台湾で病死、戦病死。
▼日清戦争より前、東征軍大総督・有栖川宮 熾仁親王を担いだ最高実力者・西郷隆盛は日帝最初の陸軍大将となるも西南戦争を起こし、征伐される。
■北白川宮は、皇族の外地での戦病死ということで祭神となる。顕彰の勢いも強く、上記北白川宮能久親王像は皇居の北の丸公園にある。
『屯田兵、北へ南へ。あるいは、賊軍・官軍。』というお題で書いたことがあるが、北白川宮能久さんも東北から台湾へ、『宮様、北へ南へ。あるいは、偽帝・宮様将軍』、といそがしかったんだね。御苦労様。
「大日本帝国貴顕御肖像」
2019/7/4 ネットで大きな画像を拾ったので、貼る。ジャパンアーカイブス様より。
中央にむつひとさんがいて(真ん中のちびっこがのちの大正天皇、その右がむつひとさん)、向かって右端が有栖川宮。左端が北白川宮という並び。
つまり、明治天皇をはさんで、昔の東征軍大総督と奥羽越列藩同盟の「帝」が並んでいるのである。
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