いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

壁新聞から壁新聞へ; 百醜図の伝搬について、あるいは、支那通事情:江頭数馬と秋岡家榮は同期の桜

2016年04月17日 13時57分35秒 | 日本事情

 
大手町、産経新聞社

 先日、東京駅ステーションギャラリーに行くため、地下鉄大手町でおりた。地上に出た。

産経新聞社がある。「壁新聞」の画像を取得した。

「壁新聞」とまた奇を衒った言い方で書いてしまったが、どこの新聞社も自社のその日の新聞を社屋前に貼り出す。

これすなわち、壁新聞。

1967年1月27日、下記画像が「サンケイ」新聞に載り、この大手町の本社前にも「壁新聞」としても貼られたに違いない。

つまり、日本人は文革勃発後半年で、文革の実状を知ることができたのだ (愚記事群[文化大革命])。

柴田穗、『報道されなかった北京 =私は追放された=』より、コピペ。

この画像は1966年初夏に勃発した中華人民共和国におけるプロレタリア文化大革命での、文革派による「反動分子」の吊し上げの模様の写真。例えば、最上段の「彭真」は文革勃発前までは北京市長、共産党中央政治局委員も務める党エリートであったが、毛沢東に再三名指しで批判され、それに乗した文革派の「リンチ」に遭う。その様子の画像。

彭真に限らず、文革勃発初期にリンチにあった共産党エリートの受難図がこの写真群。これが壁新聞として北京市内に公開された。その北京での壁新聞写真が、東京は大手町の「壁新聞」に登場した経緯は以下の通り;

 こうして年が明け、一月も半ばすぎになった。ある日、北京市党委員会の前を通りかかった。人だかりがしている。みると写真をべたべたならべたポスターだ。アッと息をのむほど驚いた。彭真氏がからだよりも大きな名札を首からぶらさげ、前につんのめったように立たされている。闘争大会の”現場写真”だ。「百丑図」(百醜図)と書いてある。
 ずっとみるといるいる。陸定一、羅瑞卿、楊尚昆・中央委員会書記、林楓・党高級学校長、中共国家「義勇軍行進曲」作詞者の田漢・戯劇家協会主席、夏衍・文化次官(劇作家)、呉冷西・新華社社長と大物がずらりとならんでいる。両手をうしろにねじあげられ、髪を振り乱している范瑾女史(北京市党委機関紙「北京日報」「北京晩報」の社長)の姿も見える。写真全体が鮮明でないだけに、よけいに陰惨な印象をうける。
 文化大革命のすさまじい断面をみせつけられたわたしは、これをどうしても日本に伝えなければならないと思った。さいわい、カメラをぶらさげている。そのころはまだ写真をとることが、いまより少しは自由だった。
 ポスターに近づいたわたしは、分厚い綿入れオーバーに身を包み、大きなマスクをかけて、ポスターに見入っている男女の頭と頭の間から、まずポスター全体をとった。シャッターの音を聞いてふりむく。ここで文句をいわれれば引き下がるしかない。だが、だれもなんともいわない。どの表情もかたく、写真のどぎつさに唖然としているようである。もうこわさを忘れた私は、どいてくれと手まねでいい、押し分けて真に進んだ。
 あとはもうピントに神経を使うだけで、立てつづけにシャッターを押した。二枚、三枚、・・・。ポスター全部をまんべんなくカメラに収めたわたしは、ホッとひと息ついた。もう一度ポスターを見あげる。彭真氏の姿を目に焼きつくまで見て、そっと人混みを離れた。
 電報局にもっていったら、また必ずことわられる。たしかに届く方法がいい。わたしはフィルムを未現像のまま東京に郵送した。二十七日の本紙朝刊は、一面と三面にこの写真を大々的に扱った。反響は大きかった。あの写真一枚で文化革命のきびしさがわかった―とほめてくれる友人もいる。あれが出たので自民党は選挙でだいぶとくをした―という思わぬ反響も耳にした。もちろんわたしとしては、ただ文化革命の重要な断面をリアルに日本に伝えたかっただけだ。その後彭真氏のつるし上げ大会は何回となく行われていることが壁新聞で伝えられた。だがこのような生々しい写真が出たのはこれが最初で最後だった。
柴田穗(サンケイ新聞社 前北京支局長)、『報道されなかった北京 =私は追放された=』

中華の都である北京から、東夷の都・東京の倭人に「真実」を伝えた 柴田穗はこの8カ月後、追放される。

9月10日、毎日・江頭数馬、産経・柴田穂、西日本・田中光雄の三記者に「警告に背き佐藤内閣の反中国政策に呼応して中国情勢をわい曲して報道した」との理由で国外退去を通告。

(愚記事、誰か、 田中光雄 を知らないか? 北京帰りの み つ お

文革報道で伝説の特派員となった「柴田穂」ら3人の日本人報道家(毎日・江頭数馬、産経・柴田穂、西日本・田中光雄の三記者)が追放された1967年9月の時点で、これまた、全く別の意味で「伝説」の記者となった朝日新聞社の秋岡家栄はまだ北京にはいなかった。

全く別の意味で「伝説」の記者となった朝日新聞社の秋岡家栄が、北京に赴任するのは、1967年11月である。つまり、サンケイ新聞の柴田とは入れ違いということだ。もちろん、秋岡家栄が、北京に赴任したとき、初冬の"北京の空は青かった"に違いない。

 朝日新聞社の秋岡家栄の伝説とは、端的に云って;

秋岡家栄[いえしげ]」さんはもっと前の文革中のときの朝日新聞の北京支局長で、一九七一年の林彪事件のとき、「プロレタリア文化大革命という歴史的偉業を成し遂げた中国に異変などあろうはずがない」という原稿を送ってきたという伝説を六角机(新聞社編集部の当番デスクたちの詰める机)でさんざん聞かされました。

船橋洋一の証言; 馬場公彦、『現代日本人の中国像、日中国交正常化から天安門事件・天皇訪中まで』の証言篇、(元朝日新聞北京特派員)船橋洋一へのインタビュー、「改革の陣痛に立ち会って―『内部』の項」

『あえて英語公用語論』で有名で、米国屋さんかと勝手に思い込んいた船橋洋一さんが実は、元来、チャイナ屋さんだったと知ったのはわずか2年前のことだ(愚記事① 習近平の「近平」の由来を知る; あるいは、産経、朝日 「支那通」にみる出自 ②;栗塚、 そして、船橋洋一 『内部』がきた、あるいは、円本を肴に )。

朝日 「支那通」にみる出自 という観点から;秋岡家栄は1925年生まれ、上海のあの東亜同文書院で学んだ。敗戦後は京大に進学、その後朝日新聞入り。そして、1925年生まれ、東亜同文書院に入学という経歴は、毎日新聞の江頭数馬と同じ。さらには、江頭も京大に進んでいる。どうやら、支那通の世界は狭いらしい。

■ journalismに背いて会社戦略で勝利した朝日新聞、journalismで成功し「会社戦略」で失敗したサンケイ新聞

文革の武装闘争は1969年には事実上収束し、毛沢東は米国、日本ら帝国主義国との提携に向かう。戦略目的はソ連包囲。

日中国交回復を前に朝日新聞社長の広岡知男は中国の否定的面の報道をしないよう秋岡家栄に求めていたとされる。理由は日中国交回復が最優先の目的で、中国の非民主的実状が判明し、日中国交回復が実現できなくなっては困るという動機だ。つまり、朝日新聞には日中国交回復の実現という政治目的があり、journalismは二の次だったのだ。journalismは捨て置いても、日中国交回復という「社是」だったのだ。果たして、21世紀の現在、秋岡家栄は林彪事件を知っていたのに、故意に、報道しなかったとされる。

一方、サンケイ新聞社は、社是とはいわないが、台湾派であった。台湾・国民党政府との国交こそが日中国交関係であり、済がうまく作動する資本主義国の名誉あるブル新=ブルジョア新聞であるサンケイ新聞は、資本主義を否定する共産国との国交開始することは、自分のきちんと掲げている本義とは相いれない。別に、柴田穗さんは、反共プロパガンダの尖兵や闘士になろうとおもったわけでもなく、淡々とjournalismに徹し、文革を伝えた。それが、結果的に、「文革報道で伝説の特派員となった」。

でも、サンケイ新聞社をもっともかっていたに違いない、日本国内台湾派・国民政府派は、1972年の自民党、田中角栄内閣による日中国交樹立、台湾との断交という策を施した。 サンケイ新聞社の「社是」は敗れ去ったのだ [1]。

■ まとめ

 日本の文革報道は、journalismがpropagandaに負けた事例である

なお、秋岡家栄さんは御存命。

この日の地下鉄東京駅。
柴田穗さん(1930-1993)もあの世でびっくりの風景。中国人観光客が都心にあまた。
今年は、文革勃発50年。


 [1] メディア工作としては『産経新聞』(ママ)のみ断交後も台北に支局を維持しつづけ、鹿内社長と国民党中央部副秘書長秦孝儀が交渉し、大プロジェクト『蒋介石秘録』が国民党・総統府・外交部・国防部などの支援を受け、一九七四年八月から七六年一二月まで六五〇回にわたり同紙に掲載された。
馬場公彦、『現代日本人の中国像、日中国交正常化から天安門事件・天皇訪中まで』 第5章

それにしても、このキャンペーンは日中国交回復後である。それにしても、馬場公彦にせよ、福岡愛子にせよ、なぜ、この当時のこの新聞を『産経新聞』と書くのだろう? この当時は、『サンケイ新聞』である。こういうことにこだわるのが、学者、研究者だと、素人のおいらは思う。 terminologyにこだわるのが、学者、研究者の重要資質だとおもうのだが...



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