週末は都内六本木へ篠田桃紅の「生」作品を見に行った。 菊池寛実記念 智美術館。
数日前、ほんの偶然から、篠田桃紅の展示会をやっていると知った。
おっとり刀で、間に合ったのだ。 展示の主な作品は;
みなぎる朱/ Vermillion Harvest いしぶみ/Monument
展示作品リスト(表面のみ)↓ [クリックで拡大]
なお、作品の多くは、岐阜現代美術館のweb site で見られる。
【篠田桃紅作品とおいらの感覚】
おいらは、以前から、篠田桃紅の作品が好きであった。
正確に言うと、好きになった作品の作家さんが篠田桃紅という100歳を超える人、しかも美人!と知ったのだ (愚記事; 後衛の位置で愚痴っているおいらの発見;)。
さて、篠田桃紅さんは複数の自伝的本を出している。なので、そこに書いてあるらしいのだが、おいらは、未読なので、知らなかった。
ところで、おいらは、一方、猪熊弦一郎さんの作品にも興味があり、好きな作品がある(愚記事;猪熊弦一郎)。
そして、この日、『篠田桃紅 昔日の彼方に』の展示会の解説で知った。
篠田桃紅さんは1956-1958年に渡米。ニューヨークに滞在。
そうだったのか!!! おいらの脳内で、ビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!!!!が鳴り響いた。
篠田桃紅さんがニューヨークにいた頃、猪熊弦一郎もニューヨークにいたのだ。
篠田桃紅さんも猪熊弦一郎も(前衛的)抽象画家であり、そこがおいらの好みなのだ。
愚記事(越後屋 絵師)
■ そして、抽象表現主義
1950年代のアメリカ、特に、ニューヨークは、抽象表現主義のメッカだ。
1950年代のアメリカ、特に、ニューヨークは、抽象表現主義の震源地だ。 しかも、当時、地球的にみて、最も「豊かな」場所。
wikipedia [表現抽象主義] に書いてある;
1950年代のアメリカ美術の興隆
1940年代終わりから50年代前半にかけ、アメリカ国内で、それまでヨーロッパ美術の後追いとしか見られていなかったアメリカ美術の興隆が意識されるようになった。グリーンバーグは1948年に、西洋美術の将来はアメリカ美術、それもマンハッタンの34丁目の南にいる50人ばかりにかかっている(が、アメリカ社会の保守性のため滅亡寸前にあると悲憤慷慨する)という論文を発表しているが、50年代には次々現れるアメリカの若手美術家の力量がアメリカ国内で評価されるようになった。グリーンバーグやローゼンバーグは抽象表現主義絵画を盛んに紹介し、理論付けることで美術界を活気付け方向付けた。やがてヨーロッパの文化に対し、アメリカの文化が拮抗し逆転するようになったとの国家意識がアメリカの芸術・文化関係者の間で芽生え始めた。画家や批評家からなる「ニューヨーク美術界」がマンハッタンの南のダウンタウンに出現し、そこへマンハッタンの北にあるアップタウンから美術館・画廊・名家・財閥・成金たちがアメリカの抽象表現主義に殺到するようになるまで幾年もかからなかった。
抽象表現主義は、アメリカに豊かな創造性や生命力を持った絵画が生まれ得る事を証明し、ヨーロッパの美の基準に基づかないアメリカ独自の美学が誕生したことを宣言した。
同じく50年代にはフランス、イギリス、西ドイツなどヨーロッパ各国でアメリカ美術が盛んに紹介され始め、世界の最先端との評価を得るようになった。50年代前半にはまずパリでジャクソン・ポロック展が開催され、美術雑誌がアメリカ美術の特集を組んだ。50年代後半にはイギリスでもアメリカ美術に興味がもたれるようになり、ニューヨーク近代美術館が企画したポロック展やアメリカ現代美術家のグループ展など、複数のアメリカ美術の展覧会がヨーロッパ諸国を巡回した。この頃アメリカとフランスは美術の前衛の主導権争いを繰り広げる形となったが(「抽象表現主義」対「アンフォルメル」)、抽象表現主義につづきポップアートやミニマルアートなど西洋美術・現代美術を主導する美術運動や美術理論がアメリカから登場することで、1980年代まではヨーロッパ美術に対しアメリカ美術が主導権を持ち続けた。
■ 底の浅いおいらの感覚
そうなのだ。 おいらが、己の感覚で好きだと思う作品とその作品の作家たちは、1950年代のアメリカ美術=特にニューヨークを中心とした表現抽象主義の運動の一端、一環の一滴なのだ。
さらには、こういう指摘もある (同上wikipediaより);
冷戦下のCIAの美術工作
抽象表現主義は、冷戦下の政治の力の側面支援を受けたとも見られている。
抽象表現主義は50年代前半、思想戦・情報戦の武器としてCIAの関心を引くところとなった。東側諸国との冷戦のさなか、CIAは抽象表現主義の美術家や批評家を援助し世界に広めることにより、アメリカには「思想の自由」と「表現の自由」があり、政治・軍事・経済だけでなく文化面でも大きな成果を成し遂げたという証明にできると考え、ソビエト連邦の芸術や文化の硬直性に対し有利に立てると考えた。
アメリカや主にヨーロッパを中心とした進歩的文化人など、世界中の文化人に対するソビエトの影響力は圧倒的で、アメリカは哲学や芸術の世界では常に悪役であり劣勢にあった。この劣勢に対し、CIAは美術も含めたアメリカの芸術の自由さと斬新さ、先端性をアピールすることで、文化人に対するソビエトの影響をそぎ、アメリカの影響を高めようとした。また西洋の芸術のモダニズムや前衛の成果や運動は、今やアメリカの美術界が引き継いだと証明するために、抽象表現主義とその理論が利用された。こうして抽象表現主義は、「冷戦下の文化戦争の尖兵」となることになる。
CIAがいかにしてアメリカの抽象表現主義を世界へ宣伝するために、「文化自由会議」(Congress for Cultural Freedom)を通じて1950年から1967年までの間、展覧会や美術批評活動に対し資金面や組織面で協力したかは、「The Cultural Cold War: The CIA and the World of Arts and Letters [1]」という本に詳しい。
もっとも各国での美術工作の効果はさまざまだった。自国の伝統の深さからアメリカの芸術や理論を受け入れなかった先進国や第三世界諸国も多かった反面、多くの国では、グリーンバーグ的フォーマリズムよりも、ローゼンバーグ的なアクションペインティングが受容された。また、アメリカの美術や美術理論が時として自国の体制や資本主義に対する批判も行っているという点は、アメリカには「抵抗の自由」もある、と文化人が抵抗のモデルをアメリカ芸術に求めることになり、多くの国の進歩的文化人が自国に対する批判としてアメリカ芸術を受容することにもなった。
うーん、知らなかった。 おいらの感覚は「冷戦下のCIAの美術工作」的感覚の範囲内ということらしい。
【前衛】 篠田桃紅さんは、しばしば、前衛作家とよばれる。理由が少しわかった。篠田桃紅さんは、若い時、数年ある師匠について書道をならった。 その後は、「我流」とのこと。 すなわち、芸術学校で制度化された芸術教育を経たわけでもなく、ある流派での修行でその流儀に従い表現をしているわけでもないのだ。 確かに、墨での抽象画ってそれまで、これまで、なかったのだろう。
■ まとまらない、まとめ
自己の狭隘なイデオロギーや日常的意識を不断に反省する努力、といいながら、思わぬところで、おいらの狭隘な感覚を知って、びっくり。
最前線=the front =前衛、は自分の狭隘な感覚の中にこそあり。
すごいな、おいらの 脳内! 最前線=the front =前衛が、あるのだ。
▼ さらに、まとまらない、まとめ
篠田桃紅さんの本名は、篠田満州子! 大連生まれ。 (なお、大連は満州でありません。関東州です、念のため)
しかも、映画監督の篠田正浩は従弟にあたる(wiki)。
満州 映画 ゾルゲ と果てしなく話は続く。 興味は尽きない。
今日まで、知らなかったょ。
● 蛇足
満州- CIA -美人-絵画
昔、内閣総理大臣もされた政治家の岸信介さんとパリで食事をご一緒したことがある。
当時、岸さんは七十代後半であった。ラ・セールという、天井が開閉式になっている美しい建物のフランス料理店へ行った。
岸さんは、ヨーロッパの視察旅行で、各都市を一泊ずつするという忙しい旅程だった。ところが疲れもなく、フルコースを難なく召しあがった。
お酒も食前酒から白ワイン、赤ワインとこれもフルコース。岸さんは話題も豊富で、楽しい食事のひと時を過ごした。
高齢でいらっしゃるし、疲れてもおられるだろうから、フランス料理で大丈夫かしらと思っていた私は、ほんとうに驚いた。
長谷川智恵子、『気品磨き』