いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

毎週、ぶどうの木の画像を撮っています; 30週目

2011年11月12日 09時30分30秒 | 草花野菜

おいらのみかん。だいぶ色づいてきました。ひとつぶもぎって食べました。

きわめて酸っぱかった。甘みが全くない。

小春日和に喜ぶうめちゃん。

【いか@ 筑波山麓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

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過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

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2011.11.10(木) 1125 PV 180 IP 6310 位  / 1652757ブログ
2011.11.09(水) 1282 PV 178 IP 6631 位  / 1652422ブログ
2011.11.08(火) 1074 PV 178 IP 7201 位  / 1652108ブログ
2011.11.07(月) 1268 PV 165 IP 8076 位  / 1651672ブログ
2011.11.06(日) 1157 PV 176 IP 6791 位  / 1651283ブログ
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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2011.10.30 ~ 2011.11.05 10289 PV 1374 IP 6102 位  / 1650945ブログ
2011.10.23 ~ 2011.10.29 9313 PV 1227 IP 6957 位  / 1648419ブログ
2011.10.16 ~ 2011.10.22 8044 PV 1175 IP 8010 位  / 1646139ブログ

 


今日の看猫 2011/11/10, あるいは、Narble(犬理石)の崖の上で誰が踊る !?

2011年11月10日 19時47分00秒 | ねこ

―お庭のうめちゃん。左上奥の「おいらのみかん」@一粒もよろしく!―

■いか@の日常。 おいらは、何だかよくわからないが、death valleyで、がんばっている。

0.38mmのゲル・インキを使って、がんばっている。
(ゲル:英語発音だとジェル;くらげ=gelly fish ジェリー・フィッシュ。つまり、ゲルはドイツ風。今日のお題は独英問題)
別に、death valleyで働いていなくても、ゲル・インキを使ってがんばっても、かまわない。
でも、使いやすいょ、0.38mmのゲル・インキ。大好き。インクが断続的に最後まで、ベロベロ、過不足なく、出る。
うれしい。おいらの、最近のラボノートはずっと0.38mmのゲル・インキで書かれている。

0.38mmのゲル・インキ、および、そのインク排出部分(ボール?)には何ら問題はない。
でも、壊れたよ。ポケットに差すための「部分」(上図中の赤←指示部、以下「ひっかけ部分」)が壊れた。
(後日追記;この「ひっかけ部分」はクリップというとわかる→Google画像


書くことそのものには支障はないのだが、作業服のポケットに入れる時困る。
なぜなら、バイト先の作業服のポケットの左右のサイズが存外大きく、ペンが水平近くまで傾き、ポケットの底まで沈んで行くのだ。

ラボノートに書き込む際に、いちいち作業服のポケットに手をつっこんで、奥底から取りださなくてはいけない。

めんどうだ。やはり、ひっかけ部分は必要なのだ。

気付いた。前回最後までインクを使い切った「0.38mmのゲル・インキペン」が、捨てずにあったなぁと。

発掘した。そして、「ゲル・インキ」の芯だけ取り換えた。無事、「ひっかけ」付きの「0.38mmのゲル・インキペン」ができあがった。

こうして、おいらの日常は過ぎていくのだ。

▲今となって、二十歳のおいらに伝えたいこと; 「ラボノートはプチ・論文にしろ!」

偉いセンセはおっしゃている:「実験ノートをプチ論文化すると、日々の実験が楽しくなってきます」。

http://www.bioreg.kyushu-u.ac.jp/saibou/qanda.html#p5 (このリンク先のページのずーっと下の方のQ29

残念なことに、私は今まで多くの学生に実験ノートをしっかり付けるように口うるさく指導してきましたが、結果的にきちんとノートをつけたと思われる人はたったの3人しかいません。そしてその3人と他の人との研究能力には圧倒的な差があります。」だって。

 

■いか@の非日常。おいらは、何だかよくわからないが、真の極右になろうと、がんばっている。

   郵便物の中にギュリヒ中尉からの手紙があった。東部戦線の彼の連隊本部で『大理石の断崖の上で』がよく読まれているとして、
「― 戦いの緊張や恐ろしい経験が解ける夜、私たちはテントの中で、『大理石の断崖の上で』を読みますが、これは私たちがまさに経験してきたことです」と言う。 
 エルンスト・ユンガ―、『パリ日記』、山本尤・訳 Amazon

エルンスト・ユンガ―(→wiki) の著作は日本語訳が少ない上に、『大理石の断崖の上で』は売り切れで、中古価格はべらぼうに高い。6000円を下らない(⇒Amazon)。

それでは、英訳本をと思い、Amazonを見る。 やっちゃってるよ。 On the Narble Cliffsって、意訳すると、「理石の断崖の上」ってところか?
画像で8,243円となっているが、おいらは3000円ほどで購入。8,243円とは、その後の状況である。


ここより→Amazon

 もちろん、ドット・コムの方は大丈夫;

ドット・コム

●バンザイ・クリフはこちら→ 夏休みには二人してサイパンへ行ったわ

■なんだよ!このキュリー「像」。先日のGoogleのトップページ。

貴婦人のお茶会ならぬリンゴジュース試飲かよ。

キュリーって何トンもの土砂の中から、自ら真っ黒になって、放射性物質を抽出し、そして放射線をバンバン浴びて、白血病で死んだのだょ。

愚記事; 帰化、あるいは、the first Hibakusha


怪童が行く; つくば-牛久 学園西大通り、そして、らぁめん 喜乃壷(きのこ)

2011年11月08日 20時24分09秒 | ラーメンたべた

愚ブログのカテゴリー、「ラーメンたべた」が2009年3月の「福山ラーメン 三十二匁 」を最後の記事として、追加がない。そもそも別にラーメンマニアでもなんでもないのになぜ「ラーメンたべた」というカテゴリーを作ったのか理由なぞ忘れてしまった。

口さがない京童にもまして、怪しい記事(例えば; 【デマ(拡散禁止)】 Hibakusha; 日本ブランドのバージョンアップ )を書きなぐっているおいらは、慢性中二病なので「童」ともいえる。そんなしいも、街道を行ってみた。学園西大通り。 おいらの利用する鉄道駅はJR"ひたち野うしく"駅だ。車で行くと、駐車場がたくさんあるので便利。そのJR"ひたち野うしく"(下の図中⑦)につくばの中心部から行くには、学園西大通り(②)、を通る。稲荷前交差点(⑤)には「学園ゲート」がある。「学園ゲート」ととはおいらが勝手に命名したものだが、つくばにはいくつかの「学園ゲート」がある。おそらく、つくば市なんぞないころに「学園」への入り口として四方八方に作ったのだろう(⇒こういうイメージ)。城壁なき田園都市の街のゲートだ。北は大穂にある。この稲荷前交差点(⑤)の「学園ゲート」は南端のゲートだ。


図1 怪童が行く; つくば-牛久 学園西大通りの言及場所、道路など。番号の内容は本文にあり。


さて、TXつくば駅のあるつくば中心街から、学園西大通りを通って、JRひたち野うしく駅に行く途中、右手に「喜乃壷」と大きな看板を出した店がある。でも、おいらが通る時はいつも閉店している。そして、平日の昼間に店を開けているとわかった。行った。ラーメン屋だった。

つけめんをたべた。チャーシューは4種類の中から選べる。炭焼きチャーシューとバラ巻きチャーシューを食べた。バラ巻きチャーシューは噛み切れなかった。うけスープは、豚骨+魚合わせ出汁っていうやつ。鰹の粉がかかっていて(上図参照)、魚風味優位な気がした。

壁には「きのこ」の画像がかかっていた。店員さんはみな「求道系」で、異常にきびきびしていた。そして、お客さんのだれもが退店時に、「ありがとうございました」という店員さんの声に、頭を下げていた。みんなラーメンを食べさせていただいて、ありがとうという気持ちを表していたのだ。

■さて、怪童が行く; つくば-牛久 学園西大通り;

図中⑨の「かるがんがんこや」は、以前に記事にした。①みぞれラーメン  ② 薫風ラーメン

いいよ、この店。

図中⑧の「月読神社」にも以前行った。愚記事; <てらすこと>と<よむこと>、あるいは影の薄い中間子・月読命

そして、今回このらぁめん屋・「喜乃壷」の場所をブログに載せようとした小さな動機で、改めて地図を見ると、らぁめん屋・「喜乃壷」のある場所は土浦市の乙戸のすぐ「裏」であることにきずいた。そして、このらぁめん屋・「喜乃壷」がある場所は、学園西大通りと学園東大通りが極めて近接していることに初めて気付いた。この近接距離は、稲荷前交差点と大角豆交差点の距離よりはるかに小さいのだ(図1の④の赤点線)。これまで気付かなかった理由は簡単である。この近辺で、学園西大通り(②)と学園東大通り(③)を直接結ぶ道路がないからだ。

らぁめん屋・「喜乃壷」がある稲岡は、土浦市の乙戸のすぐそばではあるが、牛久市に属する。つまり、牛久市稲岡は牛久の辺境としてあまり開発されていないのではないか?事実、つくば中心街から、学園西大通りを通って、JRひたち野うしく駅に行く途中は、かなり空き地がある。一方、荒川沖駅(図1の⑥)から乙戸あたりはかなり開発されている。

稲岡と乙戸が背中合わせとは今日まで気付かなかった。ありがとう!らぁめん屋・「喜乃壷」

 


筑波山腹みかん狩り2011

2011年11月06日 14時07分49秒 | 筑波山麓

3年前から始めて恒例とした、「筑波山腹みかん狩り」

筑波山腹みかん狩り、2010 

・初めての筑波山腹、みかん狩り (2009)

今は普通の温州みかんの園となっているが、もともとは筑波山腹で「フクレみかん」が自生していることが発見され、その山腹の特異性が認識されることになった。

↓フクレみかんの木。背が高い。「フクレみかん」の実は小さい。


毎週、ぶどうの木の画像を撮っています; 29週目

2011年11月05日 11時39分32秒 | 草花野菜

おいらのみかん;

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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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2011.10.23 ~ 2011.10.29 9313 PV 1227 IP 6957 位  / 1648419ブログ
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「私の方は生き残れたが、クーンの方はハーバードに生き残れなかった。」中山茂、「クーンの講義ノート」

2011年11月03日 17時44分30秒 | その他

中山茂という学者がいる。科学史家として有名で、著作も多い。特に世間に知れているのはトーマス・クーンの『科学革命の構造』の日本語への翻訳者としてかもしれない。事実、Amazonで「中山茂」で検索すると、彼の著書は多い(⇒Amazon)。 著名な『科学革命の構造』も出る。

 そのトーマス・クーンの『科学革命の構造』は科学史にとどまらず、20世紀後半の思想史での歴史的著作である⇒wiki

もちろん現在にいたるまで賛否両論が多く、20世紀後半吹き荒れた相対主義の嚆矢として、批難する者もいる。とまれ、賛否を超えて、『科学革命の構造』を経ることなしに、科学という人間が行う現象を論じること(「科学」って何だべ?)はできない。
(今、トーマス・クーンがシンシナテイの出(で)だと知る。おいらは、行ったことがあるだよ;愚記事① 愚記事②

 さて、おいらは、なぜ、中山茂がトーマス・クーンの『科学革命の構造』を翻訳したのかの理由は知らなかった。そんな1998年、講談社から、"現代思想の冒険者たち" というシリーズが刊行された。トーマス・クーンもあり、野家啓一が担当であった(現在、『パラダイムとは何か クーンの科学史革命』として再販Amazon)。その野家啓一の『現代思想の冒険者たち、トーマス・クーン』の中に月報があった。そして、その8ページのパンフみたいなものに、中山茂の回顧文があった。中山は1955年にフルブライト留学生として渡米し、まだ「無名」だったトーマス・クーンと出会っていたのだ。その中山版 "「藤野先生」物語" がその文章では語られていた。もっとも、なぜ中山にそんなに親切であったのかは特に書かれていない。後で触れるように中山茂がHiroshima-survivorであったと知っていたわけでもないだろう。一部を下に抜き書きする。

― クーンは一九五五年に私が初めて会ったころはまだ業績も少なく、無名で、ハーバード大学院に入ったら、たまたまそこにいたに過ぎない。

  クーンはテニュアなしの助教授で、「科学的宇宙観の興隆:アリストテレスからニュートンまで」がその講義の出し物であった。ところが、私はアメリカへ渡る 前には英語の講義など聴いたことがなかったから、さっぱりわからない。それも全神経を尖らせて集中しても、五十分の授業の半ばに達すると、疲れが出てき て、ついて行けなくなる。(中略)こういう調子だから、中間試験はうまく行かなかった。

  後から知ったことだが、ハーバードでは外国から大学院生を採るときは、そこの国の学問水準がわからないものだから、一応試用期間として入学させておいて、 残すかどうかを最初の学期の実績で評価する、ということになっていた。そしてどうも当時のまわりの様子から察するに、私も追い出されかけていたらしい。

  クリスマスの休みの前に講義を終えたクーンは、私に「僕の講義をどれくらいわかるか?」と尋ねた。「二十%くらい」と私。「それは少ない。じゃあ、僕のこ の講義ノートを冬休み中貸そう。ただ、これは僕の命の次に大事なものだから、決して失ってくれるな」と念を押した上で、分厚い講義ノートを渡してくれた。

そして、皮肉なことに当のトーマス・クーンは任期切れ、再任されず、ハーバード大学を去らねばならないといけないことになる。クーンはテニュアを取れなかったのだ。一方の中山は無事ドクターコースを乗り切る。まだトーマス・クーンの無名時代、もちろん『科学革命の構造』出版前のことだ。中山は上記文章に書いている;

私の方は生き残れたが、クーンの方はハーバードに生き残れなかった。

クーンにとってハーバードから追われたことはショックだった。さんざん恨み節を聞かされた。それは彼が名声をはせた後まで、生涯続いた。私に会うと最後はその話になるのが通例であった。でも私は、クーンが『科学革命の構造』を書けたのは、ハーバードを離れたからではないか、とひそかに思っている。

■ この話は1998年から知っていたのだが、去年、中山茂にまつわる話を知った。猫々センセの『文学研究という不幸』に”東大駒場の中山茂事件”という題で書かれていた。もちろんこういう状況であったとは知らなかった。なぜこんなに履歴も十分で、業績のある研究者がひどい状況にがまんさせられるのかびっくりし た。びっくりしたのは、少し別の観点。人事やポストにまつわる「嫌な」状況というのは、ふた昔前くらいの時代においては(今でも?)、(古い)大学では、よくあることだった。もっともその大半が、 「業績のない古株の助手(当時のポスト名)」 をどうするという問題 (消えて欲しいけど、居残っている!) だったように、当時のがきんちょであるおいらには見えた。さらには、例は少ないが、助教授センセなのに教授サマより業績がずばぬけすぎている研究者の処遇問題もあった。

中山茂の場合は、履歴も十分で、業績のある中山が「借りてきた」ポストにいることに対する周囲からの隠然とした「白眼視」に苦しんでいたというのだ。

猫々センセのゴシップ報告だけなら、今日のブログ記事にするほどでもないのだが、なんと、中山茂センセご本人の回顧文がブログとして公開されているとわかった。一部を抜き書き;

ここで僕は、この手記、記録をもとにして書けばよいのだろうが、それは欲求不満、怒り、呪詛の塊のようなものであって、決して僕にとっても思い出すにも楽し いことではないし、読者にも読むに耐えないものだろう。今ここで、遅ればせながら、この事件の僕なみの解釈を得て、多少心の平安を取り戻し、その高みから 書いてゆくことにしよう。 

こういう事で、僕は毎日苦しんでいた。定年まで30年近く毎日怒っていたのである。怒って何も出来ないその時間は毎日平均3時間以上はあったろう。

このことの中山の当事者としての回顧は彼のブログの記事「自伝51」あたりから詳細に書いてある。
paradigmerのブログ、中山茂 (科学史)、自伝50 事件に巻き込まれる   現在リンク切れ。 自叙伝として出版済み。

OhSって、大森荘蔵のことなんだろうなぁ。表記が、途中でOhSが、OhMになっちゃってる。心の中ではオーモリって名指ししているからだろう。

それにしてもおいらが不思議なのは、こんなに苦しんでまで、なぜそんなポストにこだわっていたことだ。80歳の今でもポストがあるとのことなので、壮年の当時なら国内でも米国でもいくらでももっとポストがあったはずだと思うのだが。そんなに東大駒場が好きだったんだろうか?

中山茂web site ホームページ  (現在、リンク切れ)

■自伝はいろいろ詳しく書いてある。中山がHiroshima-survivorであったことも書いてある。

自伝9 原爆の日(現在、リンク切れ)

 


■今日のつれづれ;

「自発核発生」ならまいぬつ考えているので、知っていたが、「自発核分裂」なんて言葉は聞いたこともなかった。外来中性子なしに核分裂するってことなんだろうな。その活性化エネルギーはゆらぎで実現されるのかな?

もっとも、「自発発生」と「自発分裂」って同じ核という文字で意味が違う。だめだな、日本語による科学。

自発発生::spontaneous nucleation
自発分裂::spontaneous fission


 

 

 


小さくなって、すごいでしょう、あるいは、「愛情サイズ」としての集団的自衛権の禁止

2011年11月01日 20時21分18秒 | 草花野菜

― 小さくなってすごいでしょ (森高千里オフィシャルサイト;「愛情サイズ」)-

ガーデニングで「セイタカワダチソウ」を植えている人はいないだろうなぁ。

よそんちの空き地にて。

■見つけたブログ;

小さくなったセイタカアワダチソウ

小さくなったセイタカアワダチソウ(その2)

小さいセイタカアワダチソウ

でも、逆襲篇もある;

セイタカアワダチソウの逆襲

セイタカアワダチソウの逆襲 (その2)

そして、

セイタカアワダチソウの仁義なき戦い

●まとめ

どうなるんでしょうね? TPP

▼それにしても、外来品種といえば、昨日、畏れ多くも、御言及申しあげたあきひとさんは、ブラックバスを「皇国」に持ち込んで、今日の事態にいたった当事者であります。

日本への移入は、1960年に当時の皇太子明仁親王(今上天皇)が外遊の際、シカゴ市長から寄贈されたアイオワ州グッテンバーグで捕獲されたミシシッピ川水系原産の15尾を日本に持ち帰り、水産庁淡水区水産研究所が食用研究対象として飼育したのち、1966年に静岡県伊東市の一碧湖に放流したのが最初とされていた。2009年に三重大学生物資源学部が発表したミトコンドリアDNAの解析結果により、全都道府県の56ヶ所で採取した1,398体全ての標本の塩基配列が、米国13地点で採取したサンプルのうちグッテンバーグで採取したものと完全に一致したことでこの事実が証明された[1]。

それについて天皇即位後の2007年第27回全国豊かな海づくり大会において今上天皇は「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」と発言した。

wiki

■すんぱいすんな。ブルーギルなんて、ちいさい、ちいさい。先帝陛下は、マック憲法だ!

 

今このような結果になったことに心を.... ???

▼「愛情サイズ」=吉田ドクトリンは永遠なり!

▲「愛情サイズ」の限界認識の 再表明;

ニュース: 集団的自衛権 行使できず

★蛇足; ♪~♪~ 夏休みには二人してサイパンへ行ったわ~♪~