いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ひとまわり昔の話;産業構造激変の参照資料 2004年プロ野球オールスターの冠企業のゆくえ

2016年07月14日 20時53分20秒 | 日本事情


   今も使っている うちわ。

年がひとまわり違うとは12年の差を意味する。干支が十二支であり、この前の申年(さるどし)は2004年であった。

その申年・2004年の7月に行われたプロ野球のオールスターゲームの後援冠企業は三洋電機であった。

2004年のオールスターゲーム (日本プロ野球) [wiki]

正式名称は2004 サンヨー オールスター ゲーム(2004 SANYO ALL STAR GAME)

覚えてますか?

今の十八君は知らないだろう、三洋電機。

この2004年のプロ野球オールスターゲームの「谷町」であった三洋電機は、

この後、坂道を転げ落ちて、今では、事実上、消滅している。

我々は奔流する歴史の中で生きているのだ。

 >>2004年のオールスターゲームは7月10日と7月11日の2日間開催された

その日のおいら;

2004年7月10日 : 金乞いの少年・コロニー考 

2004年7月11日 : 憧れのタージマハル 

タージマハルに行けたのは、おいらのつまらなかったずんせいで、いくばくか喜びを覚えた日であった。

■ まとめ

おいらは、から、ブログをやっている。

ってか、やっていたら、昔の人になっていた。

 

 

 


(無題)

2016年07月12日 19時47分34秒 | 日本事情

全共闘を体験した人は、積極的かつ過激だった人だけに少なめに限定しても、十万人はいる。これらの人は、苦悩の中で沈黙したり、新たな道を模索したり、あの全共闘時代と、続く鉛色の十年の意味をとらえ返しつつ生きている。
呉智英、『インテリ大戦争』、1982年

1980年代前半、おいらが十代の頃に読んだ呉智英さんは"全共闘「崩れ」"だった。呉智英さんが本を出し始めたこの頃(1980年代初頭)、村上春樹もデビューしていたのだ。おいらが村上春樹の『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』を読んだのははたち位の頃で、この3部作が出た時期からやや時間が経っていた。中曽根内閣300議席の頃だ。そして、『風の歌を聴け』は"全共闘「崩れ」"の話らしいと推定できた。(関連愚記事: 傷痕文学」なのだ

その村上春樹の『職業としての小説家』に書いてある;

 僕が早稲田大学に入学し、東京に出てきたのは一九六〇年代の末期、ちょうど学園紛争の嵐が吹きまくっていた頃で、大学は長期にわたって封鎖されていました。最初は学生ストライキのせいで、あとの方は大学側によるロックアウトのせいで。そのあいだ授業はほとんどおこなわれず、おかげで(というか)僕はかなり出鱈目な学生生活を送ることになりました。

 僕はもともとグループに入って、みんなと一緒に何かをするのが不得意で、そのせいでセクトには加わりませんでしたが、基本的には学生運動を支持していたし、個人的な範囲でできる限りの行動はとりました。でも反体制セクト間の対立が深まり、いわゆる「内ゲバ」で人の命があっさりと奪われるようになってからは(僕らがいつも使っていた文学部の教室でも、ノンポリの学生が一人殺害されました)、多くの学生と同じように、その運動のあり方の幻滅を感じるようになりました。そこには何か間違ったもの、正しくないものが含まれている。健全な想像力が失われてしまっている。そういう気がしました。そして結局のところ、その激しい嵐が吹き去ったあと、僕らの心に残されたものは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのとき身をもって学んだのは、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。言葉には確かな力がある。しかしその力がある。しかしその力は正しいものではなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きをしてしまってはならない。
(村上春樹、『職業としての小説家』、第二回 小説家になった頃)

一方;

 最初に小説を書こうとしたとき、いったいどんなことを書けばいいのか、まったく考えが浮かびませんでした。僕は親の世代のように戦争を体験していないし、ひとつ上の世代の人たちのように戦後の混乱や飢えも経験していないし、とくに革命も体験していないし(革命もどきの体験ならありますが、それはとくに語りたいようなしろものではありませんでした)、熾烈な虐待や差別にあった覚えもありません。
(村上春樹、『職業としての小説家』、第五回 さて、何を書けばいいのか?)

つまり、あの「大学紛争」は革命もどきであったと村上春樹は認識している。これは、"革命的な、あまりに、革命的な"という絓秀実さんの認識とは違うことを示している。

なお、冒頭の呉智英さんの文章は一部抜き書きであり、省略がある。省略部分も示す。そもそも、この文章は津村喬の本に対する書評の冒頭である;

全共闘の恥部 -津村喬 「全共闘―持続と転形-」 五月社

 津村喬は、全共闘の恥部である。全共闘を体験した人は、積極的かつ過激だった人だけに少なめに限定しても、十万人はいる。これらの人は、苦悩の中で沈黙したり、新たな道を模索したり、あの全共闘時代と、続く鉛色の十年の意味をとらえ返しつつ生きている。その中で、津村喬だけが、何の臆面も内省もなく、全共闘を口にしている。

津村喬は1948年生まれ。村上春樹は1949年(早)生まれ。ともに、早大文学部。同時期に同じ場所にいたのだろう。村上春樹は津村喬のアジビラを読んでいたのかもしれない。

■ まとめ

呉智英、津村喬、絓秀実、そして、村上春樹。 みんな「サラリーマン」[1]にならずに済んでるらしい。

[1]

 こういうことを言うと、あるいは腹を立てる人もいるかもしれませんが、出版社の編集者は日本の場合、専門職といっても、結局のところサラリーマンですから、(以下略)[強調 いか@] (村上春樹、『職業としての小説家』、第六回 時間を味方につける―長編小説を書くこと)

 


ぐるっとパス2016 ;あるいは、墨東些譚 [a trivial record in the former Death Area]

2016年07月10日 11時26分22秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス2016 ;あるいは、墨東些譚 [a trivial record in the former Death Area

ぐるっとパス(web site)を今年も買った。そのパスではスタンプラリーをやっている。去年はスタンプを集めて応募したら、当たったので、今年も2匹目のドジョウを狙ってみたい。6つのエリアに分けて、各エリアで一か所以上いけば、スタンプラリーのスタンプが揃う。現在、上野エリア、皇居エリア、墨田エリアに行っていない。この3か所に本日行く。

武相境から、まずは、押上へ。

■1. たばこと塩博物館 (web site

今の若い人はたばこと塩がどういう関係にあるのか?なぜ、たばこと塩が一緒に博物館に集められないといけないのかわからないかもしれない。両者とも専売品だったから。なので元来資金は潤沢らしく、博物館は豪華で展示もきれいでわかりやすい。そして、普通に入っても、入場料100円。ちなみに、この日(7/8 [金])見学者は我々以外、毛唐さん連れ3人組のみ。

・塩の展示フロア


岩塩(英国産)

日本は海に囲まれているので、塩には恵まれていると思っていたら、そうでもないと知る。

人類の塩のソースは岩塩が主流。

塩製造のコストは煮詰めるための燃料費。江戸時代は薪しか燃料はない。たしかに塩分は日本に多いが、固形(=自ずと結晶)の塩を得るのは大変なのだ。

現在は大半が輸入らしい。

・たばこの展示フロア

ガレオン船の模型。その奥は江戸の煙草屋(昨日記事)。

ガレオン船はタバコが南米からヨーロッパに伝わった事情を説明するため。

■2.Amuse Museum (アミューズ ミュージアム web site)

浅草寺の横にある。

屋上に上がれて、浅草を「睥睨」できる。


常設展 BORO

key person: 田中忠三郎

■3. 三井記念美術館  (web site

■ まとめ

 


新しい街でもぶどう記録;第89週

2016年07月09日 19時39分56秒 | 草花野菜

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の看猫


たばこと塩の博物館( web site )の展示

眠っている三毛猫の下の段の白い包みは「角包み」と呼ばれる刻み煙草を直方体にして紙に包んだもの。


展示の全景。江戸時代に、夫婦が営む煙草屋に客が煙草を買いに来た様子。
夫が煙草の葉を刻み、妻がそれを巻いているところに客が来たというところらしい。
「角包み」に限らずこの展示のあらゆるものの意味の解説が書いてあるのだが、当然?、三毛猫への言及はなかった。

■ 今週の市

ほおずき市。浅草寺境内。

■ 今週の食堂


食堂筑波 (食べログ) [関連愚記事:東京に現れたる 筑波]


なすのみそいため定食

■ 今週のイラン地下秘蔵物

その食堂で新聞を見ていたら、こんな記事があった;


(読売新聞。この記事のネット版は見当たらなかった)

記事:: イランのテヘラン現代美術館は、地下倉庫で保管するアンディ・ウォホールやピカソなど欧米の近現代絵画作品を、読売新聞に公開した。

コレクションは、美術愛好家だったパーレビ国王のファラ王妃の監督下で69~77年に収集。ゴッホ、シャガールなど19~20世紀の傑作。

以前、ポラックの作品展で推定言及したことがある;

*なぜかしら、テヘランの美術館にある。 

おそらく、パーレビ時代に、すなわちイスラム原理主義革命によるホメイニ政権樹立の前に、西洋流に世俗化し、かつオイルマネーを持った好事家がポロック作品を購入したのだろう。イラン革命の時、それが私物で、没収されたからテヘラン現代美術館なる所に保有されているのかは不明。

(愚記事; A piece from Tehran; ジャクソン・ポロック展

やはり、パーレビ時代の遺産だったのだ。

なお、この読売の記事を読むと、テヘラン現代美術館は読売新聞にのみ公開したと読める。この読売の「スクープ」と読売アンダパンダン展 [wiki: 読売アンデパンダン展] 主催の読売の過去の遺産との関連は不明。

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七夕、あの日、盧溝橋で会えた織姫と彦星@1937

2016年07月07日 21時19分11秒 | 中国出張/遊興/中国事情

(戦争拡大に)積極的だったのは、日本側では関東軍で、中国側では共産党だった。
北岡伸一、 『日本の近代5 政党から軍部へ 1924~1941』

七夕といえば、盧溝橋事件の日である。

盧溝橋事件と柳条湖事件は、全然違う。柳条湖事件を起こしたまともな帝国主義者は先の見通しを考えていた。

盧溝橋事件。 誰が「絵」を描いたか、未だに不明。 もちろん、柳条湖事件の「絵」を描いたのは石原莞爾だ。

今、もっとも検証すべき仮説が盧溝橋事件は「コミンテルン」が「絵」を描いたものであったこと。一方、日本の帝都は東京の政府中枢・首相官邸には「コミンテルン」の工作員が事務室を持っていたことは「史実」である。しかしながら、首相官邸に事務室を持っていたコミンテルン工作員の尾崎秀実がどう具体的に「支那事変」を拡大させていったかの詳細は不明である(愚記事; 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々  )。

さて、おいら。三田評論がある待合室(関連愚記事)とは別の待合室にいた。がきんちょ向けの歴史本があった。

今日七夕のあの事件はどう書かれているのか興味が湧いた。見た。

(戦争拡大に)積極的だったのは、日本側では関東軍で、中国側では共産党だった。ということが、一方的に2つの象限のみの要素で書かれていた。日本好戦派とチャイナ避戦派。 日本避戦派とチャイナ好戦派が描かれてない。

「支那事変」=日中戦争の炎上・拡大は日中の戦争拡大勢力の緊密なる協力の元に実現したのだ。

日中・戦争忌避/積極には4象限ある;

日本: 戦争積極派=軍部の支那一撃派+コミンテルン工作員 、 戦争忌避派=参謀本部・石原莞爾

チャイナ: 戦争積極派=中国共産党 、 戦争忌避派=蒋介石・国民党?

そして、日帝はチャイナ大陸に深く誘い込まれ・おびき寄せられ::何度となく支那兵の死體の上を乗り超えて

侵略戦争を革命へ!という中国共産党の夢を実現したのだ。

夢を実現したのはこの方たちだ。


日帝的鬼子、あるいは、父を求めて三千里

日本の皇軍なしには、わたくしたちが権力を奪取することは不可能だったのです。

さて、中国共産党の革命成就の「産婆」役であった日帝の最高「産婆」はこの方;

盧溝橋事件を日中の全面戦争に発展させ、さらには戦争解決を放棄する。

いいね、小学館。いいね、この説明。 こいつが日帝を亡ぼしたんよ。

侵略戦争を、亡国へ! 

惹句は、もちろん、暴支膺懲

 


この街の図書館事情;あるいは、こちらも「高学歴で裕福な家庭出身」@文革礼賛者たち

2016年07月05日 20時45分13秒 | 東京・横浜

「つくば」からこの街に来て1年半が過ぎた。やっと慣れてきた感じがする。以前の生活と大きな違いは自家用車を手放したこと。「つくば」時代はどこに行くのも車だった。例えば、図書館にも車で行っていた。10分もかからない。一方、今の住居から一番近い市立図書館の分館は、まずバスで一番近い鉄道駅に行き、そこから鉄道で数駅先である。行くだけで小一時間かかるだろう。なので、この街に引っ越してきた時は、もう図書館へはいけないだろうなと思った。事情は違った。今の住居から約1キロメートル先に公民館的なものがある。そこで市立図書館(本館分館あわせて18館あるらしい)の蔵書400万冊が貸り出し可能なのだ。ネットで検索できて、サイトで申請すれば、その近所の公民館に届くのだ。もちろん、自分の家のパソコンから手続きできる。その分館に頼んだ本が届くと、ご丁寧にメールで知らせてくれるので、取りに行く。こういう制度を享受できるのだ。これはすごいと感動している。

その制度で借りた本;

ピンボケでごめんよ。 津村喬、『われらが内なる差別  日本文化大革命の戦略問題』、三一新書、1970年

今、Amazonで三万円だ;


Amazon

浜っ子でよかった!丘陵地に住んでるけど。 タダで借りられ、読めるのだ。 ありがとう、Mayor はやしふみこ さま。

● 最近の課題; 津村喬の問題!

 
愚記事:  川本三郎は、津村喬にくびを賭けず、赤衛軍・Kにくびを賭けた

呉智英さんから全共闘の恥部と呼ばれていた津村喬。そして、「津村は、血筋のせいか、少将といった見当でした」といわれていた津村喬。

その「血筋」の意味とその利を用いた赤色貴族の事情を、おいらは、やっと、最近、すこし認識した。

そして、絓秀実さんにより1970年7月7日の「華青闘告発」が全共闘運動・新左翼運動の転機となったことが強調・指摘されるが、その「華青闘告発」の主張が書いてるのが、津村喬、『われらが内なる差別  日本文化大革命の戦略問題』、三一新書、1970年。そして、津村喬は1970年に3冊も出版。上の『われらが内なる差別』、そして、『戦略とスタイル』と『魂にふれる革命』。この年、津村喬、22歳。

赤色貴族の事情とは、津村喬の父親は高野実。終戦直後の総評の指導者;

総評はもともと、反共的労働組合のナショナルセンターを作ろうとしたGHQの意向に沿う形で発足したが、翌1951年高野が初代事務局長に当選すると、(1) 全面講和 (2) 中立堅持 (3) 軍事基地反対 (4) 再軍備反対の「平和4原則」を採択し、「ニワトリがアヒルになった」と驚かれるほど左旋回させていった。高野は総評を対米従属下にある「民族の苦悩の担い手」と位置づけ、政治面では左派社会党(以下「左社」と略す)の躍進を助けながら、破壊活動防止法反対闘争(1952年)や内灘基地反対闘争(1952~1953年)など (wikipedia 高野実

津村喬は高校生の頃から中共に行っている。数カ月滞在。訪中理由は父・高野実の療養。実質は日本国内中共派の勢力拡大の"陰謀"の立案(???)や工作資金の受領。1964年、1967年の2度の訪中。 1967年は文革真最中。

この頃高野実は総評や労働運動内でとっくに失脚。まともに働いてないんじゃないか。それでも、中国旅行。これは赤色貴族の特権である。

津村喬はこの赤色貴族の特権を使って、その当時そんな経験ができる日本の学生がほぼいなかったのに、中共文革を見聞できたのだ。

そして、この『われらが内なる差別  日本文化大革命の戦略問題』の裏表紙に推薦文を書いている新島淳良[wiki]も裕福な家庭の出身だ。

親が、あの「山と渓谷」社のオーナーらしいのだ (⇒ Google [山と渓谷 新島章男 新島淳良])。

なお、津村喬は早大中退、新島淳良は一高中退。でも、「高学歴で裕福な家庭出身」の主旨を支持する事実だろう。

そして、横浜市長の林文子さんは、高卒である [google]。

 

 


富士山遠巻き鈍行列車旅行

2016年07月03日 15時18分37秒 | 日本事情

 

横浜から中央線で甲府に入り、身延線で南下。富士山の西脇を海へ向かう。その途中、下部温泉で泊まり、身延山に登り富士山を見ようと試みた。身延線の終点、富士で東海道線に乗り換え、横浜に帰り着いた。

■ 大月

中央線は大月止まりの列車だったの。大月で途中下車。大月駅の待合室は観光客向けで綺麗だった。

なお、たまたま見た光景で中国人が改札口越しに駅員に話していた。すると、その駅員はちょっと待ってという雰囲気。すると、中国語ができる駅員が出て来て対応していた。これはJRのサービスで普通のことなのか? 大月駅の観光客対応か?

■ 甲府駅

昼ご飯は、ほうとうと鳥モツ煮。 ベタな甲府名物。

■ 山梨県立美術館

山梨県立美術館がある芸術の森公園。建てものは文学館。 美術館は↓; ミレーの肖像フラッグが見える。

 
 
 site; 山梨県立美術館とミレー・バルビゾン派の世界

⇒ 愚ブログに現れたるバルビゾン

ここに来てよかったのは; 米倉壽仁 [google画像google すべて] ≪ヨーロッパの危機≫ 1936年

■ 彷徨える小泉チルドレンを見た;

■ クリスタルミュージアム

site; クリスタルミュージアム

■ 下部温泉

甲府駅から身延線で下部温泉へ。

線路猫を見た。 (関連愚記事;線路を渡る猫

昭和の温泉宿に泊まる

露天風呂に入って、雲を見た。

ホタルの季節だった。 たくさん飛んでいたが、画像が撮れたのはこれだけ。

翌朝。開店前の食堂; いつか食べたい ⇒ 馬鹿丼(うまかどん)

■ 身延山

200数十段の急峻な階段を登りきった後、 余裕の 、心臓バクバク状態での、振り返り撮影画像。 ⇒ Google

この日、富士山は見えず。

■ 身延線

身延線は富士川が刻む渓谷、山あいを行く路線。

■ 東海道線

おいらはそんなに鉄ちゃんではないが、この電機機関車は西日本方面ブルートレインの牽引車でないか!

ネットで調べると、平成になっても製作されていたらしい (wiki; 国鉄EF66形電気機関車

■ まとめ

2日にわたって富士山を遠巻きにまわったが、富士山はまともに見えなかった。

 


新しい街でもぶどう記録;第88週

2016年07月02日 21時04分23秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の草木花実

おいらのかぼちゃ

■ 今週の 忌


https://twitter.com/Iwanamishoten/status/747672957372203008

有名作家の命日は、しばしば、忌の名が与えられている。 さて、林芙美子にはあるのだろうか?とネット調べたら、「あじさいき」とあった。どうやら、尾道の林芙美子顕彰組織がやっているらしい(site)。ちなみに、林芙美子ゆかりの地として有名なのは、尾道、北九州、そして逝去した落合の旧自宅、現在林芙美子記念館だ。その落合の林芙美子記念館では特に、「あじさいき」というのはやっていない模様。

現在、新宿区落合の林芙美子記念館で催しているのは、アトリエ展示 「巴里の交流」(site)。


パスポートの文字は「大日本帝国外国旅券」。身長が1.47Mと記載されてるとのこと。昔のパスポートは身長を記入したんだ。

右は『1932年の日記』(関連愚記事)の"原稿"。パリのデパートで買った育児用日記を使って書いた。

『林芙美子 巴里の恋、巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙』にある”巴里の小遣ひ帳”の原稿はこんな風;

■ 今週の 50年

今週のニュースで、ビートルズ来日50年[google]というのがあった。 そうなんだ。 中国で文革が勃発した頃、ビートルズが来日したのだ。

おいらは、以前書いた;

1966年のビートルズの来日の状況はホントのところはどうだったのだろうか?

でも、史実として、騒いだらしい。おまわりさんが。羽田空港から都心までビートルズが車で来る時、首都高は封鎖され、異常な数の警察・機動隊が動員された。

それは、1960年のハガチー事件[1]の経験を踏まえた、来るべき騒乱の時代への演習であったとされている。 

首都と羽田空港を結ぶ攻防戦での佐藤首相訪米阻止闘争(wiki)は、ビートルズ来日の3年後。

すごいぞ!警視庁の先見性。 (愚記事; アムステルダムで、約半世紀前の日本版Beatlesアルバムを見た 

どうやら、間違いであると、気づいた。

■ 今週知ったこと ①

ビートルズ来日後、首都中枢と羽田空港を結ぶ道路を巡る最初の重大な公安事件は、上記の1969年の佐藤訪米阻止事件ではなく、1967年の羽田事件[wiki]なのだ。ビートルズ来日から1年ちょっとだ。 「第一撃」を見落としていたのだ。

六七年十・八の歴史的な意義は、単にゲバ棒の登場にあったのではなく、ベトナム人民を前にした或る羞恥の感覚、この消費文明の中に生きることにはすでに「原罪」がはらまれている、「なぜって、それはみにくいから」(山崎博昭の”日記”)という、原罪意識の復権にこそあった。自らの根拠と闘う、自分を革命の主体でもあれば対象でもあるととらえるプロレタリア的闘争が、「戦後」の、「近代」の解体が、ここに始まった。こうした根源性、そこにおける闘争の質的断絶の表現が、闘争の暴力的形態だったのである。 
津村喬、『われらの内なる差別  日本文化大革命の戦略問題』、1970年、三一新書

こうして六七年、最も完成された市民運動としての中核派とべ平連の季節がやって来た。六七年から日本帝国主義は「高度成長」のもたらした消費文明の安定にのって、いよいよ本格的に東南アジアへの進出を開始する。佐藤の訪越に抗議した学生と「市民」のヘルメットとゲバ棒は、消費文明の重層的仮象に挑戦した、劇的虚構(悪いイミは全くない)であり、日帝への現実的打撃というより、日常性への挑戦により「市民」の自己組織化、プロレタリア化を促す手段だったのだ。山崎博昭は自らの死を予見するかのように「日記」に書く―この消費文明の日常に生きることは「みにくいから」すでに「原罪」だ、と。 
津村喬、『魂にふれる革命』、1970年、ライン出版

 一九六七年秋、日本人民は、この文化戦争への反撃の、文化革命への、「第一撃」を見出したのだ。街頭を舞台に変えた「異装」集団によるゲバルト闘争がそれである。この破壊性―主要には想像力にとっての―は、大学闘争というかたちで普遍化し、定着した。持久戦への状況の反転の序幕は、まつりの真似事として、貧弱にもせよスタイルの饗宴として、実現した。
津村喬、『戦略とスタイル』、1971年、田畑書店

そして、上記の文に続くのは4年後(1971年)の現実である;

そしていま、出発から四年近くが経とうとしている。われわれは今一度夢見、そして、醒めた。しかし、醒めていながらなお、<持久戦>について口にすることをやめない。「七〇年」が語られた。やがてそれは、「七〇年代階級闘争」にとってかわられ、その言葉も消えた。われわれは疲労し、その口は重くなった。しかもなお、<持久戦>について語ることをやめない。 津村喬、『戦略とスタイル』、1971年、田畑書店

津村喬は毛沢東主義者であった。そして、同じく毛沢東主義を奉じた連合赤軍のリンチ事件が発覚するのは翌年、1972年である。

■ 今週知ったこと ②

ネット情報によるとビートたけしが1967年の羽田事件に参加していたとのこと[wiki: ビートたけし(羽田事件に参加したといわれる[3])]。

そのたけしは最近の雑誌文藝春秋で云っている; 

たけし 確かにおいらも学生運動に打ち込んだことがあるしね。でも、60年代後半の「ベトナム戦争反対」や「日米安保反対」でワーワー騒いでいたのは、「ファッション」だった。 (ソース

そのたけしが「1968」の経験から得た考えはこれだ;

たけし ちょっと前だけど、民進党の辻元清美代議士が学生時代に創設した「ピースボート」も似たような活動だったかも。SEALDsのメンバーたちも、結局、政治家になりてえのかな。でも、「弱者の味方」のフリをするやつにはいつの時代も気を付けた方がいい。スターリンや毛沢東のような独裁者は最初、そんなこと言ってたんだから

●そして、今、知ったこと;

戦後最大の不況と謂われた昭和40年(1965年) [google]

つまり、50年前のぬっぽんずんは、経済的にも、常に、「もはや戦後ではない!」を信じ切れず、政治・経済ともに、「逆コース」にまっさかさまを恐れていたのだろうか!!!???

■ 今週の本屋

(兵役とシベリア抑留の)五年半ののち、私は生きながらえて妻子のもとへ帰ったが、改造社の山本実彦社長は十一年の私の労働にたいしただの一銭の退職金も払わず、私の妻は学校の教師の口が見つかるまでのまる四年間、ピアノや衣類を売ってようやく三人の娘を育てたのだという。私が召集令状を受けとって中座した日の社長との交渉は拒否されたと昔の仲間から聞き、私はこれはあわれな最期をとげた改造社史の汚点として必ず書き残しておくべき事実だと思った。 (高杉一郎、『わたしのスターリン体験』

そのアインシュタイン来日の企画を立ててスポンサーとなったのが、改造社。今はない出版社だ。その創立社長(おそらく廃社時も)が、山本実彦。愚記事

とかつて書いた。 今週、甲府に行って、駅ビルの本屋を覗くとびっくり。 改造社の看板が...。

ネット調べると、出版はやめたが、「現在では改造社書店、改造図書出版販売株式会社として関東地方と中部地方の複数店舗で書籍の販売業などを営んでおり、」とのこと(wiki)。 知らなかった。

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2016.06.27(月) 355 PV 100 IP 9230 位  / 2538525ブログ
2016.06.26(日) 294 PV 89 IP 9498 位  / 2537659ブログ
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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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2016.06.12 〜 2016.06.18 5738 PV 967 IP 7259 位  / 2530100ブログ
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