特攻の若き瞳を唄いたり「この一戦に勝たざれば」とも
坂下(ばんげ)では渡部実その人が演歌スターの桧舞台に
かにかくに春日八郎唄いたる軍歌なりせば父を想えり
愛国は春日八郎会津人(びと)昭和維新の歌に泪す

にほんブログ村

↑
会津っぽに応援のクリックをお願いします
「あまり強硬なことを言うのは間違っている。外交というのは足して二で割ることだから」ともいわれるが、中共などと交渉するのに、そんなことでいいのだろうか。今は亡き江藤淳は「日本的交渉法」(『こもんせんす』に収録)という一文を残している。江藤によると「足しで二で割ってまん中をとる」というのは、あくまでも日本人だけのことのようだ。「両方とも原則を捨てる」ということが前提になっているからだ。しかし、外国に対しては、それは通用しないのである。そこで江藤が問題にしたのは、日本人にとって、他人がどういう存在であるかということだ。「もともと日本人は、どうも他人というものは存在しないと思って生きているんですね。他人は自分の延長だと思っている。したがって自分が肚の中で考えていることと、ほかの人間も本質的には同じことを考えているだろう」と決めてかかっているので、「自分の延長としてとらえることのできない人々ばかり」の外国人に面食らってしまうというのだ。評論家としての江藤の功績は、他者という概念を導入したことであった。その方法論をもって、日本外交の拙さを批判したのである。菅直人首相も、前原誠司外務大臣も、「他人は自分の延長だと思っている」のではなく、国益を優先させて、突き放した見方をすべきなのである。
にほんブログ村
↑
会津っぽに応援のクリックをお願いします
崩壊前のソ連がそうであったように、中共は危機的な事態に直面しているのではなかろうか。反日デモにしても、あれは中国共産党が裏で糸を引いている。国民の目を外に向けようと必死なのである。中国共産党一党独裁への国民の不信感は高まっており、何か一つきっかけがあれば、暴動に発展するのは明らかだ。特権階級化している層が富を独占化しているからだ。北朝鮮へのテコ入れも、それをしなければ、自分たちも一蓮托生だからだろう。中共軍が北朝鮮に駐留するというのも、時間の問題ではないかと思う。北朝鮮が倒れれば、民主化の波が一挙に押し寄せてくるからだ。また、ここにきて頭を抱えているのは、韓国ではないか。北朝鮮に中共軍が居座ることになれば、それこそ軍事的な脅威が高まるのは必至である。頼みの綱の米国は、東アジアから手を引こうとしている。そうなると日本しかいないが、朝鮮半島に手を出せば、清国を宗主国としていた朝鮮の独立運動に手を貸したのと同じことだ。それが明治27年の日清戦争の引き金となったのである。良かれと思ってやったことが、手痛いしっぺ返しを食らった教訓を、日本人はまだ忘れていない。今の日本ができるのは、せいぜい自らの領土を守り、国内の治安を確保するだけだ。
にほんブログ村
↑
会津っぽに応援のクリックをお願いします