会津若松市の奥座敷である東山温泉にも、司馬遼太郎は何度か足を運んだようだ。つい先日のことだが、昭和63年夏、宴会の席に呼ばれたという芸妓さんが、思い出話を色々と語ってくれた。司馬遼太郎は、週刊朝日に連載していた「街道を行く・奥州白河・会津のみち」を取材するために、編集者と一緒に滞在していたのだろう。細面で、夢二のモデルになりそうな顔をしていたので、ついついからかわれたのだとか。竹久夢二も東山温泉を度々訪れている。それを知っていたから、そうした話が出たのだろう。その芸妓さんも、かなりの読書家で物知りなので、ついつい話が弾んでしまったが、一番大事なことを聞きそびれてしまった。司馬遼太郎が日頃口ずさんでいたという、「蒙古放浪歌」を披露したかどうかということだ。戦車隊の小隊長として、満州にも出かけており、大陸への思いは人一倍であったはずだ。それだけに、酔えば歌うような気がしてならないからだ。今の日本人の多くは、そうした浪漫を持ち合わせていない。大陸への憧れを引きずってきた世代の人たちが、次々とこの世を去ってしまい、「男多恨の 身の捨て所」という歌詞も、もはや死語になってしまった。いくら司馬遼太郎に笑われようとも、恥ずかしながら、この国の主権を死守するだけで精一杯なのである。
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