今日は桜桃忌である。太宰治が愛人の山崎富栄と三鷹市付近の玉川上水に身を投げ、その遺体が発見された日で、71年前のことである▼福田恆存は『芥川龍之介と太宰治』における太宰評において「貧しきものへの同情」という見方を示した。「自信満々、社会にたいするおのれの役割を信じ切っているプロレタリアートではなく、心よわきもの、生活苦に重荷を背負えるもの、気兼ねしいしい、世の片隅につつましく生きているもの、という意味だ。とすれば、虚飾を洗いさってみたときの、それはあらゆる人間存在の根底につきまとう悲しさではないか」▼太宰の『乞食学生』での「僕は、心の弱さを、隠さない人を信頼する。」との一言を重視したのだった。左翼の運動は社会に役立つかどうかで全てを裁断する。福田からすれば、太宰は「他人に役立ちえぬもの、あるいは他人に厄介をかけるものをすら、救い愛そうとする思想にめざめた」ことで、そこから離れざるを得なかったのである▼それぞれの人間のどうしようもない悲しみは、この世に生まれたときからの宿命である。それを政治が解決してくれるという幻想は、誤った方向に人びとを導くことになる。自分を留置場にぶちこんだ巡査にすら同情を抱く太宰は、もっと奥深いところで、個々の人間を見ていたのであり、弱い人間同士がいたわりあうことを訴えたかったのである。
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「比べることが適切かわかりませんが、高邁な理想に燃えて思考を突き詰めていったあげく暴力的に自滅していった連合赤軍の幹部たちが、最も大切な“個人の痛み”という視点を切り捨て、あるいは克服すべき弱点とみなしていたのは、ヴェーユとの大きな違いである」。
ぜひ「山本 周五郎」を読んでほしい。
なぜなら、上級国民・学者・知識人たちは「富裕な家に生まれ大学に学び、社会の中産階級以上の生活しか経験しておられない。つまり、各自の経験が社会観、人生観の根底となっているので、貧しい庶民たちがどんな生活をしているか、かれらの日常がどんな感情で支えられているか、ご存じないばかりでなく知ろうともなさらない」(山本 周五郎)からであり、わたしたち庶民は日々の暮らしの中で“個人の痛み”に鈍感になりがちだからである。
“個人の痛み”
「山本 周五郎」が、語りかけるに違いない。
まず、「日々平安」と云う山本周五郎の短編集の最初、『城中の霜』(安政の大獄で処刑された福井藩士、橋本佐内の話)からおすすめする。