思想家や作家を論じるにあたって、私はほとんど敬称を付けたことがない。面と向かっては先生と呼んでいたにもかかわらず、私が書く文章では「西部邁」で通した。一人の思想家として遇するならば、ある種の距離を置くことで、いかに相手が保守に属する人間であろうとも、その信者になることを拒否したいからである▼私たちの年代では、吉本隆明と懇意にしていた連中は、好んで「吉本さん」を口にしたが、それが試行グループ特有のアットホームさがあったからだろう。それはそれで否定しないが、保守は徒党を組むべきではないのである▼かつて日本文化会議や「心」グループに集まった、田中美知太郎、三島由紀夫、竹山道雄、高山岩男のような識者は今どこにもいない。英語ができて、色々なパイプを持っているとか、人よりも歴史を知っているということを武器にしているだけだ。現在のような危機的な状況下であっては仕方がないことだが、それは思想や哲学と呼べる代物ではない▼大衆化社会にともなうサヨクのポピュリズムに対抗するには、それしかは手はないのだろうが、そこにとどまっていいわけがない。保守は政治を訥々と語るのが常であり、地味で大衆的な盛り上がりには欠ける。だからこそ手堅いのである。保守を自任する私は、田中美知太郎や竹山道雄の本が座右の書である。本物の保守の哲学を忘れてはならないのである。
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