エリック・ホッファーは「われわれの時代が大衆の時代であるとはとんでもない。今は知識人の時代なのだ」(『現代という時代の気質』柄谷行人訳)と喝破した。しかもそれは、知的エリート層に属しているという優越感なのである。
ホッファーにいわせれば、それも実際的な行動力を重んじるアメリカでは、かついぇは知識人という存在がぼんやりしたものであった。ところがアメリカにも、知識人が支配する世の中に代わろうとしているのうぃ、沖仲士の哲学者は目撃したのだった。
注目すべきは、ホッファーが「『文人』として説得の技術にたけているはずの知識人は、政治においてひとたび権力を握るとこの技術を発揮することを拒否する。彼は説得ではなくて命令をしたいのだ。われわれは今では、説得による政府というのは教養人よりもむしろ商人の発明であったことに気づいている」と書いていることだ。
学歴の高いお偉いさんからすれば、自分たちの権力を行使することが喜びなのである。国民に理解してもらう必要などないのだ。そして、ホッファーはその知識人たちが、教育の現場でも同じ権力を行使している、それに忠実な者たちが、さにら新たな知識人を形成するのである。
これに対抗するには、大衆が知識人化しなければならない。大衆が賢くなることなのである。学歴エリートのお粗末さに気づいた私たちは、だから学校という決められた空間ではなく、あらゆる場所で学ぶことができ、喜びを感じるようにしなければならない。人間は向上していくからこそ人間であり、それに目覚めることによってしか、学歴エリートの横暴に対抗することはできないからである。
ホッファーにいわせれば、それも実際的な行動力を重んじるアメリカでは、かついぇは知識人という存在がぼんやりしたものであった。ところがアメリカにも、知識人が支配する世の中に代わろうとしているのうぃ、沖仲士の哲学者は目撃したのだった。
注目すべきは、ホッファーが「『文人』として説得の技術にたけているはずの知識人は、政治においてひとたび権力を握るとこの技術を発揮することを拒否する。彼は説得ではなくて命令をしたいのだ。われわれは今では、説得による政府というのは教養人よりもむしろ商人の発明であったことに気づいている」と書いていることだ。
学歴の高いお偉いさんからすれば、自分たちの権力を行使することが喜びなのである。国民に理解してもらう必要などないのだ。そして、ホッファーはその知識人たちが、教育の現場でも同じ権力を行使している、それに忠実な者たちが、さにら新たな知識人を形成するのである。
これに対抗するには、大衆が知識人化しなければならない。大衆が賢くなることなのである。学歴エリートのお粗末さに気づいた私たちは、だから学校という決められた空間ではなく、あらゆる場所で学ぶことができ、喜びを感じるようにしなければならない。人間は向上していくからこそ人間であり、それに目覚めることによってしか、学歴エリートの横暴に対抗することはできないからである。