文在寅がチョ・グクを強引に法務部長官に据えたのは、革命政権として当然のことをしたまでであり、法を破る力の憲法制定権力を行使しただけなのである。何かすると法の支配とか立憲とか騒ぎ立てる日本の野党やマスコミは、必死になって今の韓国を弁護してきただけに、言葉を失ってしまったようだ。チョにまつわる疑惑も、安倍首相が批判された官僚による忖度どころではなく、まさしく国家権力による介入であった▼法務省改革などというのは、あくまでもスローガンでしかなく、文在寅は権力を一手に集中したかったのである。文在寅の支持基盤である与党の共に民主党は、今回の人事を支持しており、一定程度の韓国民も理解を示している。韓国の保守派はいくら頑張っても、このままでは文在寅を倒すことはできない。これから韓国民は自由と民主主義を奪われ、全体主義者の前に膝を屈することになるのだ。軍隊や警察はすでに文在寅のコントロール下にあり、最後まで抵抗している検察を骨抜きにすれば、革命政権としては上出来なのである▼昨日から韓国は無法者国家となった。それに抗するには、我が国も危機意識を持たなくてはならず、目前に迫った内閣改造もそれを念頭に置かなくてはならない。寝惚けた日本のマスコミは、反日の動きが強まることを危惧しているが、もはやそんなレベルではなく、敵対国として我が国を位置づけ、一戦も辞さないのが今の韓国なのである。
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「『高麗史』『高麗史節要』の両方に1333年7月から1335年4月までの記録が全く見当たらない。(引用者注:著者の推測では、)1335年(27代忠粛王)のときに、高麗から元の朝廷に使節を出して、童女を探す――つまり、強制的な人さらい――のを止めてくれと嘆願したとの記事が見える。(中略)つまり、記事内容があまりにも惨め過ぎて、李朝の史官たちが書き写すに忍びなかったので、ばっさり削除したのではないかと想像される」。(『本当に悲惨な朝鮮史』)
“従軍慰安婦”問題とは、当時の貢女や童女さらいになぞらえて、あたかも「江戸のカタキを長崎で討つ」ごとく、“モンゴルの恨みを日本で晴らす”プロパガンダなのではないだろうか。
「1271年初頭に元宗は、モンゴルの皇女(フビライの娘)を自分の息子の嫁に欲しいと願い出た(請婚)。10月には使者がモンゴルから戻り、フビライの許可が下りたことを知らせる。世子(後の忠烈王)がモンゴルから戻ってきたが、すっかりモンゴル風の服装と髪型(弁髪)になっていた。」(同書)
以後、31代恭愍王に至るまで、歴代の国王は元王室の王女と結婚した。
「モンゴルはこれまでの契丹や女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれた。(中略)一方、『高麗史』には忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。」(Wiki)
「また胡服弁髪の令(1278年)を出したほか、一切の律令制定と発布はモンゴルの権限とされた。以降の王はモンゴルの宮廷で育ち、忠宣王は『益知礼普花』(イジリブカ)、忠粛王は『阿剌訥失里』(アラトトシリ)、忠恵王は『普塔失里』(ブダシリ)と、モンゴル風の名も持っていた。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した。」(同)
だが、韓国の『検定版 高等学校韓国史』には、あっさり「モンゴルと活発に文化を交流する」とあるだけである。(笑い)