草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

グローバリズムを乗り超える超民主主義への不安

2024年03月24日 | 思想家
 人類が今後どのようになっていくか。ジャック・アタリの『21世紀の歴史』によれば、下層ノモド(現代の遊牧民)がグローバリズムの世界を根本から揺るがし、超民主主義の世界が到来するのだという。
 下層ノモドは、現代の貧しい遊牧民であり、2035年には35億人以上に達し、貧困に耐えられず農村から都市部に異動し、暴動に加担し、海賊的な経済行為にも参画し、怪しげな宗教団体のターゲットになる。
 それでいて、超民主主義が実現した場合には、彼らがその原動力となるというのだ。これはまさしく、アントニオ・ネグリのマルチチュードの思想と一緒ではないか。
 貧困と抑圧された少数者の違いはあっても、多数派を形成することで、負け組が勝利者となるのである。革命と呼ぶにふさわしいだろう。
 アタリが言うように「市場民主主義をベースとした利他愛に基づく人類の新たな境地」としての超民主主義に向かうというのは一筋の希望の光ではあるが、それが実現するまでに夥しい人々が犠牲になるのではないか。それを経過せずに済むようにするための知恵を、今の私たちが手にしているとは思えないのだが。
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岸田首相は後継に高市さんを指名すべきだ

2024年03月23日 | 政局
 ネット民は暴走しがちである。保守派ネット民は一時的な感情に踊らされてはならないのである。そもそも私たち民衆は、知識のあるなしや雄弁さを競って生活しているわけではない。額に汗して働いでいるのだ。
 それこそ「目に一丁字もない」者たちこそが、まともな場合が多いのである。保守派が一時的に、ネットを拠り所にしたのは、左翼文化人の平和ボケを、皆してこき下ろす場であったからだ。ある意味では、便所の落書き程度でもよかった。思っていても口に出して言えないことを、代弁してくれる自称保守派のブロガーや、ユーチューバーを陰ながら応援してきた。
 しかし、安倍元首相がテロリストによってこの世の人でなくなってからは、保守派としてのまとまりに欠けるようになった。そこで人気を博するようになったのが、より過激な主張する人たちであった。そして、いつの間にやら、左翼以上に自民党批判を繰り広げるようになった。もともと保守派は温厚な人の集まりであるから、それに背を向ける人たちも出てきている。
 当初は反左翼で一致していたのに、保守派同士の主導権争いに明け暮れている。岸田首相の節操のなさが原因ではあるが、新党まで立ち上げて騒がれると、高市早苗さんを女性初の首相にしようとする自民党内の勢力との亀裂が生じてしまった。
 それで喜ぶのは自民党内の親中派や親米派なのである。我が国は核武装も含めて重大な岐路に立たされている。保守派が四分五裂することで、岸田下ろしをできずにいる。
 こうなれば岸田首相に決断を求めるしかない。後継に高市さんを指名し、今日にでも高市さんを官房長官にして、リベラル色を一掃して、保守色を鮮明にするのである。
 そこまでしなければ、自民党は終わる。自民党が終わろうが終わるまいがどうでもいいいが、日本が終わってしまっては困るのである。それをやれば岸田首相は歴史に名をとどめることになるだろう。まず難しいとは思うが、それが日本を救うことになるのである。
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日本保守党の成否は大衆の支持を得られるかどうかだ

2024年03月22日 | 日本保守党
 日本保守党は大衆運動としての面が強いわけだから、今の世の中に不満を持った人たちが集まってきて、ワイワイガヤガヤ騒いでいると、そのうちの方向性が定まってくるのではないか。
 大衆運動をコントロールすることは困難である。ロシア革命だって、レーニンやトロッキーの思惑を超えて、先に先に進んでしまったのである。江戸幕府が倒れると予測したのは、勝海舟など一握りでしかなく、西郷隆盛は勝の話を聞いて、それでようやく討幕を決断したのである。
 日本保守党に勢いがあるのは、日本が追い詰められているという危機感が大衆に漲っており、現状を打破したいという思いがあるからだろう。大衆運動として突っ走るエネルギーは十分にある。
 一度始まった大衆運動のプロセスについて、エリック・ホッファーは「言論人によって開拓され、狂信者によって具体化され活動家によって強化される」(『大衆運動』高根正昭訳)と書いている。その発端から完成までそれぞれ役割分担があるのだ。「狂信者」という言い方には抵抗があるが、百田氏や有本氏は言論人として発言しており、どれだけ熱狂的な支持者が集まってくるかである。
 ホッファーは「活動家は自滅的な紛争と、無謀な狂信者から運動を救う。しかし彼の出現は、運動の動的段階の終了を示すのがふつうである」と分析した。大衆運動を締めくくるのは活動家なのである。今の段階でそこまで心配する必要はないのである。
 日本保守党に注目が集まるのは、日本が岐路に立たされており、方向転換をするには、革命的な大変革が迫られているからである。すでに賽は投げられたのだから、今後の成り行きを見守るしかない。
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天皇の正しい大御心と国民主権は一体だ

2024年03月21日 | 日本保守党
 日本保守党は「国体を守る」という主張を掲げていますが、その根拠は明確にされなくてはなりません。天皇を「統治権総覧者」と位置付ける国体論は、国民主権の現行憲法で否定されて、天皇は「国民統合の象徴」となったからです。
 それまでは大審院も「我ガ帝国ハ万世一系ノ天皇君臨シ統治権ヲ総覧シ給フコトヲ以て其ノ国体トナシ」と解釈していたのです。
 和辻哲郎は後者を支持しました。長期にわたって「天皇が武力なしで権威を持続せられた」(『国民統合の象徴』)という歴史的事実から、「その権威が国民の総意の表現にほかならなかった」(『同』)とみたからです。
 法哲学の尾高朝雄も和辻と同様な見方をしました。「革新の契機たる国民主権主義と伝統の要素たる天皇制とを新憲法の上に調和せしめ、明治憲法から新憲法へと巨大なる飛躍が行われるためにも、なおかつ、旧日本と新日本との間に一貫した『歴史の継続性』を認める余地が残されているであろうか」(『国民主権と天皇制』)との問題意識から、実力としての主権と、法の理念としての主権とを区別したのでした。
 だからこそ、尾高は「ノモスの主権」という言葉を用いたのです。先の戦争の反省を踏まえて「国体」についても違った考え方を示しました。
「天皇が現実の政治の上で常に最高の決定権をもっていたということでもなく、そういう政治の形態が永遠につづくべきものと考えられていたということでもなく、現実の政治はすべて『常に正しい天皇の大御心』に適うものでなければならない、という理念の表現に外ならないからである」(『同』)
 日本保守党が「国体」を語るならば、それがどういったことを意味するかを説明しなければなりません。天皇陛下を「玉」として利用するような者たちが、日本を誤った方向に引っ張ったのであり、断じてその轍を踏むことがあってはならないからです。
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日本保守党は福田恆存の論争の仕方を学ぶべきだ

2024年03月20日 | 思想家
 日本保守党に期待していただけに、あまりにも残念でならない。口汚く罵るのはやめた方がいい。岸田首相に批判的な僕であっても、度が過ぎると眉を顰めたくなるからである。
 保守派の論客であった福田恆存をお手本にすべきだろう。福田は全学連集流派(60年ブンド)の若者たちを罵倒しなかった。彼らの気持ちになって『常識に還れ』と教え諭した。
 そして、短絡的な物の見方ではなく、日本近代史の弱点である「異常事に興奮しやすい、緊張に堪えられぬ個人の弱さ」を問題にした。異常な速さで達成した近代化と、精神が未熟なままの矛盾から「時折、国民を軽挙妄動に走らせる」と分析した。
 また、福田は「民主主義もまた必要悪であることを知らねばならぬし、何事にも必要悪が伴なうものである以上、それを回避するには何が必要かを深刻に考えなければならぬ」(『常識に還れ』)と書いた。政治はきれいごとでは語れないからである。
 福田は偉そうなことを口にしたわけではない。日本人全体の欠点を自覚し、その一人として、若者たちに、冷静になることを呼びかけたのであり、政治の本質であるリアリズムを説いたのだ。「汝の敵を愛せ」とは言わないが、相手の立場を思いやる余裕を持つべきなのである。
 福田が全学連主流派に呼びかけた文章は説得力に満ちていた。これによって正気を取り戻した若者が多かったのである。
「私が最も好意をもつ主流派諸君に忠告する、先生とは手を切りたまへ。ついでに、共産党から貰ったニックネームのトロッキストを自称する衒学趣味から足を洗いたまえ。歴史を手本とする教養主義を棄てたまえ。警官より物を知っており、郷里の百姓に物を教えうるなどという夢から醒めたまえ。あるいは、そんなことは十分心得ていると言うかもしれない。それなら『純粋なる学生の心』に賭けて戦術主義をさっぱり棄てたまえ」
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ネット上の全体主義運動を警戒しなくてはならない

2024年03月19日 | 祖国日本を救う運動
 左右の全体主義運動が日本を席巻しつつあるのではないか。今こそ保守派は警戒を怠ってはならない。それを考えるにあたって、私たちはハンナ・アレントの『全体主義の起源』で述べた言葉を参考にすべきだろう。
「全体主義運動は、一貫性の虚偽の世界をつくり出す。その虚偽に世界は現実の世界そのものよりも人間的心情の要求に適っている。そのなかで根無し草の大衆は、全くの想像力を助けにしてくつろいだように感じ、現実の生活と現実の経験が人間と人間の期待に加える決して終わることのない衝撃から免れることができた」(マーガレット・カノヴァン著『ハンナ・アレントの政治』寺島俊穂訳)
 端的に言うならば、どこの組織や団体にも属せず、厳しい現実に向き合わなければならない者たちは、全体主義運動の煽ありに熱狂しやすいというのである。根無し草で拠り所を失って救いを求める者たちにとっては、一貫したイデオロギーに思え、そこで自分というものを立て直すことができるからだ。
 しかし、そうした心情が変わらず続くためには。全体主義運動は、日々刺激的な言説を振り撒かなくてはならない。その頂点を極めたのがナチスであり、スターリンであった。とくにナチスの場合は、下から盛り上がった結果であり、スターリンは自らの権力維持に利用したのである。
 全体主義運動であるかどうかを見分けるポイントは、指導部の不正や問題点の指摘が、下部の人間に許されるかどうかである。批判する者が現れると、彼らは寄ってたかって集中砲火を浴びせるからである。
 対処療法として私たちは、カノヴァンがアレントから抽出した思想を再確認すべきではないだろうか。あくまでも他者を重んじる冷静な判断が求められるのである。
「まず第一に、すべての人間は二重の存在規定をもっている。各人は特殊な一個人であり、決してほかの人の複製ではなく、つねに新しいことを考えたり、行ったりすることができる。それと同時に人間という種の一員であり、同じ世界に投げ入れられ、同じ運命に直面し、ほかの人びととものを創り出したりすることができる。また、人間という種の一員であるから、ほかの人びとと意思疎通し、これまで多くの世代が蓄積した人間の経験の宝庫を共に活用することができる」(『同』)
 アレントの核心部分を見事に言い当てている。ネット上での過激な言論の応酬は常軌を逸している。アレントのように、自らの中の他者性に目覚め、対話と討論ができる環境を整えるべきであり、排除や無視は避けなければならないのである。
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葦津珍彦に学ぶ日本保守主義の原点

2024年03月18日 | 祖国日本を救う運動
 日本保守主義の原点は「日本土民」たるところにある。葦津珍彦のその定義は正鵠を得ている。外国を礼賛したインテリではなく、日本の絶対的多数を占める大衆は、日本特有の気風、感情、思想を信仰を持ち続けており、能弁ではなく、華々しい理論の展開はできない。しかし、柳田国男がいう「目に一丁字ない」者たちであっても、祖国の行方を憂いているのである。
 そうした者たちこそが、声なき声であり、サイレント・マジョリティなのである。大東亜戦争に敗れた我が国に乗り込んできた米国などの連合国は、一方的に自分たちの「民主主義」を押し付けて、日本人が愛着を持っていた思想も断罪され、一時は靖国神社も更地にされようとした。
 文明人を自称する欧米人からすれば、日本人についてもまた、全てに劣った土人として蔑んだ。そして、愚かにもそれに迎合する日本人が現れ、反日であることが尊ばれる風潮が蔓延し、未だにそこから脱却できないでいる。
「日本土民」が最後まで抵抗したのは「天皇制」解体の目論みであった。それに同調する日本人は、共産党などわずかながらいたが、それを阻止したのは「日本土民」の無言の圧力であった。
 日本国憲法「第一条 天皇は、日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴であって、この地位は日本国民の総意に基く」と書かれているのは、国民主権によってその都度信任を受けなければならないというのではない。
 葦津は「『総意に基く』との語は、事実を解釈し説明した語であって、新たに選出した意味ではない」(「土民のことば」)と明確に述べている。
「神話時代と呼ばれる遠い古代から、日本には天皇が君臨された。実証史学の立場からは、それがいつ始まったか分からないほど古いことだ。その血統は天照大神に発し天皇はその直系であると信ぜられてきた。この信仰によりて、天皇は日本民族に対する無限の信頼感をもって君臨され、国民は忠誠の念をもって天皇を仰ぎ、君と民との関係は深い『信頼と忠誠』の縁をもって結ばれて来た。皇統とは皇祖天照大神の直系であるとの信仰をもって、終始して来た血統である、と」
 その考え方に立脚するのが日本の保守主義なのである。マイホーム主義のような微温的なものではなく、いざとなったならば、身を捨てる「大君の辺にこそ死なめかえり見はせじ」の精神とも結びつくのである。そのことを理解しなければ、保守主義を名乗る資格などないということを、私たち日本人は心に刻んでおくべきなのである。
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高市さんは林房雄が待望した本物の『親日派』政治家だ

2024年03月17日 | 政局
 日本の政治の現状を見るにつけ、かつて林房雄が「親日派」の政治家の登場を訴えていたことは思い出されてならない。
 林は「外国派との和親友好はもちろん日本の生存のために必要である。だが、友好を強調するのあまり、外国の手先になってしまったのでは、お話にならぬ。親米、親ソ、親中共派であることは各人の自由であるとはいえ、その前にまず親日派であることが日本人の資格であることを忘れては、たいへんなことになる」(『大東亜戦争肯定論』)と書いたのである。
 日本が独自性を発揮しなくては、国家の存立も危うくなっている今、唯一救世主となりうるのが高市早苗内閣府特命大臣である。
 しかし、岸田首相らの宏池会や、自民党内に巣食っている親米、親ロ、親中派の政治家は、上川陽子外相を次期首相にしようと画策している。米国と中国に物申すことができないような政治家を押し立てようとしているのだ。
 米国民主党の言いなりになってLGBT法案が国会を通過してしまい、中国の脅威に対抗する術がなく、米国に頼ることで、第二のウクライナになりかねないのが今の日本である。その路線を転換しなければ、我が国はどん底に突き落とされるのである。
 岸田首相のお先棒を担ぐ産経新聞が「上川陽子首相待望論」をぶち上げた。高市大臣を保守派が推していることを知りながらの裏切りである。さらに、日本保守党の一部には、高市大臣に対して批判的な物言いをする人たちも出てきた。
 外交勢力ももっとも恐れているのが高市首相の誕生であり、それを阻止するためには、あらゆる手を使ってくるだろう。上川首相が就任すれば、自民党が終わるだけでなく、日本が終わってしまう。保守派は小異を捨てて大同に就くべきだろう。日本を救うことができるのは「親日派」の政治家だけなのだから。
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東京15区は参政党の候補者擁立で今後の保守派占う選挙に

2024年03月16日 | 選挙
 自民党に入って保守派の国会議員を応援し、内部から変えていく方が良かったと思うが、保守派を名乗る政党がいくつもできて、政党同士で批判合戦を繰り広げる事態になってしまった。
 それもまた一つの選択ではあるが、政治を動かすのは数であり、保守派であればあるほど、革命ではなく、改革を進めるために一致点を見出さなくてはならない。今は袂を分っていても、まとまるときはまとまらなければならないのである。
 東京15区の衆議院の補選では、日本保守党ばかりでなく、参政党からも名乗りを上げることになった。自民党がLGBT法案を通すなどしたことで、岩盤保守層が怒っていることは否定できない。お互いの支持者がタブっているので、日本維新の会を利することになるだろう。
 しかし、ここまでくれば、保守政党乱立も容認せざるを得ない。政界の大再編に向けた一歩は、それぞれが旗を掲げることから始めなければならないからだ。
 この選挙区の注目点は、いつも自民党の候補者に投票している人たちが、どこに一票を投じるかだろう。日本保守党は特定野党のようなことを口にしており、あれではマイナスに作用してしまう。皇統の問題、積極財政、防衛力の強化などを並べ立てるべきだろう。スキャンダル攻撃だけでは、自民党支持者の心はつかめないだろう。
 日本維新の会はスマートな選挙戦を展開している。参政党も総力を挙げて臨むことになるだろう。日本の保守派が今度どちらに向かうか、それを占うことになるだろう。どのような結果になるのか注目をしたい。
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皇室の権威がなくなれば国は乱れる

2024年03月15日 | 祖国日本を救う運動
 秋篠宮皇嗣妃殿下が旧会津藩士の子孫であられることから、私は皇室についての論評を一切控えてきましたが、今後もするつもりはありません。
 幕末で逆賊の汚名を着せられながらも、未だに会津人には尊皇の思いが息づいており、歴史書においても、官軍という名称は使わず、東軍、西軍という呼び方をします。
 戦後の日本においては、小泉信三らによって開かれた皇室が良しとされましたが、それは日本の国柄に反するものです。西行が伊勢神宮をお参りしたときの歌に「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」というのがありますが、その精神こそが尊重されるべきなのです。
 また、葦津珍彦が「国家は、国民の自由なる論争を必要とするとともに、断固たる統一を必要とすることがある。この断固たる統一を必要とする時に、日本国は天皇の精神的権威なくしては統一を保てない。それは日本の歴史をかんがみて明らかである」(「国体問答」より)と書いています。
 天皇陛下がおられるからこそ、最終的に日本国はまとまるのであり、深刻な争いが起きないのです。その権威を貶めることは、日本を解体させることであり、断じて認めることはできません。だからこそ、皇室の方々を、私たちと同列視することは間違っており、個人的な感情で意見をするということもおこがましいことなのです。
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