つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その3)

2007年04月02日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その3) 尾崎健一

しかし、それに気づかれた先生からは厳しくとめられました。
基本動作と基礎体力が養われない間に技を進めることは事故につながるからで、試割りにはそれだけの鍛錬が必要で無闇に拳を傷つけてはいけないと諭されました。
この時見せて頂いた先生の手はふくよやかで、素人が考えていたような岩のような拳ではなかったのです。
空手(まだ躰道となっていない)は力ではない、技であり精神であることを、先生は徐々に教えていこうとされていたのだと思います。

他の流派には、そうでもない考え方もあるようで、ずっと後年、他流の空手を学んでいる富山の友人の案内で、彼の通っている道場へ連れていって貰ったことがあります。
道場に居並ぶ、師範に近い方が見せてくれた拳は『僕の手刀は、アバラ骨をつき破ることができる』のだと自慢気でしたが、なる程、中指には爪がなく指の先がカチカチといった感じだったことを記憶しています。

ところが、先生のお考えは『赤ちゃんを抱っこしていて、油断すると赤ちゃんの指が目に当たって痛い目にあうことがあるが、空手の急所とはそういうものだ』という意味のことをお聞きしたことがあります。
私も素人ながら、なァーる程と納得したものです。

練習が始まってしばらくたつと、先に進みたくて仕様のない弟子たちを見すかされた先生から、巻藁の作り方を教えられ、その辺から木屑や藁屑を拾い集めてきて、皆で四、五本ばかり立てました。
巻藁を実際に突いてみると当然『その場突き』と違った感触で、誰もが興奮して突いたものです。
早く拳が固くなるようにと事務室の中でも拳を引き出しに押しあてたりした記憶があります。
時には巻藁に血が沁み込んだりしていましたが、自信をもちすぎた誰かが固い電柱か何かを突いて少しケガをしてからは、空手は技でゆくべきだ、ということを皆は次第に解っていったように思います。

そろそろ先生が段級試験を考えられる頃になると、瓦割りを本格的に習う日がやってきました。
瓦は勿論古い兵舎に使ったもので年季が入った本格的なものですから、固焼きで部厚いものです。
一枚を割るにさえ余程気合いを入れないとハネ返される程でした。
段級に応じた枚数が指定され確か、初段は五枚位だったように思います。
私もその位までいったように思っていましたが、或いは三枚位だったかも知れません。
今ではこの鍛錬はもう無い事と思いますが、実戦的でワクワクする気持ちは大いにありました。

さて、実技の進度は意外に早く当時の日記によりますと、三月六日に手ほどきをうけた私たちは十日ほど後の

三月十七日 天位の型、終り ナイファンチ 始る
三月二十四日 ナイファンチ 終る

となっています。
一ヶ月ほどでナイファンチが終るほど鍛錬の進度が早かったのは、弟子たちがそれぞれ興味津々だったことに加えて、先生の教授プランが、すでにご自身の頭の中には整理されていたからだと思います。(つづく)

コメント
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