つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その11)

2007年04月07日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その11) 尾崎健一

② 兄・康
さて、豊の方の話が大分長くなりましたが、最後に兄の康に与えた躰道の影響が、これまた極めて重大であったことについてお話させて頂きたいと思います。

昭四九、四、二八(康 中1)――川越体育館にて関東地区躰道予選・少年団体法形に出場。三位となる。――』と日記にはあります。
兄も豊と共に練馬の莚の上の道場で私から手ほどきを受け、その後は弟の豊を伴ってタコ公園で河内先生から鍛えられたのですから、この頃はかなり強くなっていた筈です。
この日は豊の出場はなく、私と妻と豊の三人で応援にかけつけました。
康は出場チームの最年長者だったのか、前列中央で号令をかけていましたが、伸び盛りだった彼がチームの中では、とびきりノッポだったことが印象に残っております。

さて、彼の人生の一大転換期に強烈なインパクトを与えたであろう一枚の「色紙」についてお話しします。
豊の急死後の大混乱のため、塾経営の後継者という職をなげうたざるを得ない状況に立たされた彼は、一時豊の作った会社を受け継いだのですが、周囲の事情もあり、そこを辞めました。
既に家庭をもち三十才を過ぎている身は、極めて切迫した状況においこまれたのです。
熟慮の末、かつて目ざしていた司法試験に再挑戦する道を選びました。
以前の受験時代には、既に裁判官書記官試験にも合格しており、自己の才能を若干過信するところもあってか、「我、自らを信ず」とばかりやっていたのですが、今や家庭的、経済的に悠長な受験勉強はできません。
私とも相談して、勉強は朝霞の実家の元の自分の部屋へ通ってやる。
できれば一回で合格するにこしたことはないが、安全係数を見込んで二回受験が限界という結論を出しました。
正に背水の陣です。

結論を先に言えば、結婚のため空き部屋となった彼の六畳の部屋の長押には、先生が伊豆に新築をされたとき、私がお願いして揮毫して頂いた『躰極円連』の色紙が飾ってあったのです。
勿論、彼も尊敬する先生の直筆。
しかも父に直接書いて下さった書と聞いて大いに感激したことは無論のことで、その場で私は先生からお聞きしている言葉を『躰道の極意は円が転々ところがるように一つの技が終れば、それはまた次の技のいと口となっている連続技である。そして、止まるところを知らない。また、躰道は思想であり、しいていえば哲学である。単に肉体的、攻撃防御の技に止まらず人生観もしくは、世界観においても、思考の限りを尽くして、ねばり強く勝機の一瞬を求めつづけるという意である』
と、そのまま伝えました。
以来、約二年、彼は机の頭上にこの色紙の額を掲げて苦闘の末、一瞬の隙に勝機をつかんだ戦士の如く、ついに司法試験合格を克ち得たのでした。
そして待望の法律事務所を「さいたま市内」に構えることができました。

以上のように、親子二代にわたって、祝嶺正献先生からは、武道のみならず多くのことを学ばせて頂くことができました。 
高い席上から、大変無礼ですが、先生に心からお礼を申し上げて、私の『炉辺談話』を終らせて頂きます。(終)

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」シリーズも今回で終了します。
尾崎健一先生には、私のブログ「つれづれなるままに」に掲載することを快く承諾して頂きまして感謝申し上げております。
本当に多くの方々がこのブログを閲覧していただきました。
躰道の関係者からは、「祝嶺正献最高師範の躰道創設の頃を知ることができるとともに、躰道に関わる人たちの真摯な心に触れることが出来るようで嬉しくなり、楽しんで読んでいます。」とのコメントも頂きました。
また親しい友人からは、「尾崎豊さんが『躰道』を習っていたとの事初めて知りました。」と連絡がありました。
皆様、今後とも宜しくお願いいたします。(池内和彦より)





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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その10)

2007年04月07日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その10) 尾崎健一

デビュー後結婚して、男の子供ができたとき、子供にも是非躰道を教えようと思ったようです。
忙しいツアーの間をぬって、新目白通りの円形のガスタンクの隣にある練馬体育館に時々顔を出してどなたかにご指導を受けたこともあるらしい。
『久しぶりに(躰道を)やったので、今日は体の節々が痛くてしょうがないヨ』などとツアーの合間に、事務所を守っていた私と母の傍らにきて、満更でもない顔をして話していった記憶が残っています。

また、どうせ一人の子供に教える位なら道場を持とうという考えに到達した彼は、少しばかり資金もできたせいで、早々とその実現を思い描くようになったようです。
ツアーの合間に、事務所へ戻る度に、私にむかって『よい道場みつけといてくれた?ーー』 
と、本気に聞く有様です。
こちらは当面の彼のツアー完走のみが素人経営者の私にとっては目前の大問題で、それどころではない切迫した気分でしたが、彼の気持も察して『あちこち当っている最中――』と答えておりました。

彼がもう少し存命したならば、必ずどこかに道場をもったことは間違いなかったと思います。
彼の思い描く道場は、大きな二階建で下が「躰道の道場」、上は「学習塾」でこちらの方は兄の康に任せる、とかなり具体性を帯びていました。
当時兄の方はかなり大きな学習塾の理事候補で、塾講師を兼務しておりました。

彼の夢の原型になったモデル校が今も朝霞にあります。
下が剣道道場で上は学習塾となっております。
ちなみに、彼の死後、豊のこうした意志をきかれた祝嶺先生から『躰道五段・教士』の免状と『黒帯』を贈って頂きました。
今は大切に私が保管し、やがて現在アメリカに住む彼の遺児裕哉(ひろや)が青年になって日本に帰ってきた時、こうした父・豊の志を告げてこれを渡そうと思っております。

更にデビュー後の彼に躰道が益したのは、躰道の技――身のこなし――の美しさです。
ロックアーチストというのは、すべてが自作自演の世界のようです。
作詞、作曲、歌唱までの自作自演は誰も知るところですが、舞台でのフリまですべて自前です。
『廻しゲリ』は彼の得意術で、時々舞台ではマイクを相手に披露していました。
マイクすれすれのケリは中々難しかろうと、私は若干ハラハラし乍ら観ていたものです。
その頃、他のアーチストの中でも次第にそのフリをまねる者が出てきて『あいつ、俺のマネをしている――』などとテレビを見ながらつぶやいているのを覚えています。
ただ私が見ると、空手の心得のない人の廻しゲリは、実にサマになっていないものが多かったのですが、最近は皆がうまくなったような気がします。
当時彼が、深夜、創作の合い間に、自分の部屋に立てかけた大鏡にむかって、ギターを抱えたり、持たなかったりし乍ら、懸命にフリの研究をしていた姿を思い出します。(つづく)


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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その9)

2007年04月07日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その9) 尾崎健一

豊が小五の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。 
当時の朝霞は、二十五年経った今では考えられないほどの田舎で、都内から転校してきた豊はさすがに目立つ存在であったようです。
面白くないのは、クラスの男の子ということになります。
直接的な暴力行為はなかったようですが『シカト(皆で無視する)』されたり、知らぬ間に机の上に白い花を飾られたりしたことを、後年、彼自身何らかの中で書いています。
女子や、男子のおとなしい子供たちも、番長格の男の子には従わざるを得なかったのでしょう。
そこで前記の「ずる休み」です。

当時、転勤で土浦の部隊へ遠距離通勤していた私は、朝は四時起き、北朝霞から一番電車に乗って通勤していました。
帰宅すれば、翌朝早いからと早々と就寝する生活で、妻も仕事に出ていた関係で、九月から新学期が始まって約一ヶ月、豊のこうした変化に気づかずにおりました。
先生が訪問されて、そのことを告げられて始めて知り大いに驚きました。
職場にかかってきた妻の電話を聞いて、私は急きょ休暇ををとってとんで帰り、早速豊に問いただすと、日記のような答えです。
 
『何故、やり返さないのかーー』 と、私は問い返しました。
『だって、お父さんは、喧嘩に躰道を使ってはいけないって、何時も言っているでしょう』
という答え。
『正当防衛ならいいから、相手に傷つけないように注意してなら、やってもよい』

翌日、豊は意気揚々と学校から帰ってきたらしい。
何しろ子供どうしである。
番長といえども、翌年は埼玉躰道大会で優勝する腕前の豊である。
苦もなくねじ伏せられた番長は潔く降参したらしい。
豊の死後、友人と共に焼香にきてくれたこの方は『あの時は豊君に首をしめられて、まいりましたヨ』と笑い乍ら語っていかれた。

番長が代われば、クラスの空気は一転。
翌日からはクラスの人気者。
女の子にはモテモテの日が始まったらしい。
翌年、クラスの皆におされて六年生の学級委員に立候補し、当選したことが日記に残っております。
自らの力によって困難を乗り越えたというこの経験は、その後の彼の人生全般に、強烈な影響を与えたものと私は考えています。(つづく)


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