尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。
**************************************
「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その11) 尾崎健一
② 兄・康
さて、豊の方の話が大分長くなりましたが、最後に兄の康に与えた躰道の影響が、これまた極めて重大であったことについてお話させて頂きたいと思います。
昭四九、四、二八(康 中1)――川越体育館にて関東地区躰道予選・少年団体法形に出場。三位となる。――』と日記にはあります。
兄も豊と共に練馬の莚の上の道場で私から手ほどきを受け、その後は弟の豊を伴ってタコ公園で河内先生から鍛えられたのですから、この頃はかなり強くなっていた筈です。
この日は豊の出場はなく、私と妻と豊の三人で応援にかけつけました。
康は出場チームの最年長者だったのか、前列中央で号令をかけていましたが、伸び盛りだった彼がチームの中では、とびきりノッポだったことが印象に残っております。
さて、彼の人生の一大転換期に強烈なインパクトを与えたであろう一枚の「色紙」についてお話しします。
豊の急死後の大混乱のため、塾経営の後継者という職をなげうたざるを得ない状況に立たされた彼は、一時豊の作った会社を受け継いだのですが、周囲の事情もあり、そこを辞めました。
既に家庭をもち三十才を過ぎている身は、極めて切迫した状況においこまれたのです。
熟慮の末、かつて目ざしていた司法試験に再挑戦する道を選びました。
以前の受験時代には、既に裁判官書記官試験にも合格しており、自己の才能を若干過信するところもあってか、「我、自らを信ず」とばかりやっていたのですが、今や家庭的、経済的に悠長な受験勉強はできません。
私とも相談して、勉強は朝霞の実家の元の自分の部屋へ通ってやる。
できれば一回で合格するにこしたことはないが、安全係数を見込んで二回受験が限界という結論を出しました。
正に背水の陣です。
結論を先に言えば、結婚のため空き部屋となった彼の六畳の部屋の長押には、先生が伊豆に新築をされたとき、私がお願いして揮毫して頂いた『躰極円連』の色紙が飾ってあったのです。
勿論、彼も尊敬する先生の直筆。
しかも父に直接書いて下さった書と聞いて大いに感激したことは無論のことで、その場で私は先生からお聞きしている言葉を『躰道の極意は円が転々ところがるように一つの技が終れば、それはまた次の技のいと口となっている連続技である。そして、止まるところを知らない。また、躰道は思想であり、しいていえば哲学である。単に肉体的、攻撃防御の技に止まらず人生観もしくは、世界観においても、思考の限りを尽くして、ねばり強く勝機の一瞬を求めつづけるという意である』
と、そのまま伝えました。
以来、約二年、彼は机の頭上にこの色紙の額を掲げて苦闘の末、一瞬の隙に勝機をつかんだ戦士の如く、ついに司法試験合格を克ち得たのでした。
そして待望の法律事務所を「さいたま市内」に構えることができました。
以上のように、親子二代にわたって、祝嶺正献先生からは、武道のみならず多くのことを学ばせて頂くことができました。
高い席上から、大変無礼ですが、先生に心からお礼を申し上げて、私の『炉辺談話』を終らせて頂きます。(終)
**************************************
「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」シリーズも今回で終了します。
尾崎健一先生には、私のブログ「つれづれなるままに」に掲載することを快く承諾して頂きまして感謝申し上げております。
本当に多くの方々がこのブログを閲覧していただきました。
躰道の関係者からは、「祝嶺正献最高師範の躰道創設の頃を知ることができるとともに、躰道に関わる人たちの真摯な心に触れることが出来るようで嬉しくなり、楽しんで読んでいます。」とのコメントも頂きました。
また親しい友人からは、「尾崎豊さんが『躰道』を習っていたとの事初めて知りました。」と連絡がありました。
皆様、今後とも宜しくお願いいたします。(池内和彦より)
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。
**************************************
「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その11) 尾崎健一
② 兄・康
さて、豊の方の話が大分長くなりましたが、最後に兄の康に与えた躰道の影響が、これまた極めて重大であったことについてお話させて頂きたいと思います。
昭四九、四、二八(康 中1)――川越体育館にて関東地区躰道予選・少年団体法形に出場。三位となる。――』と日記にはあります。
兄も豊と共に練馬の莚の上の道場で私から手ほどきを受け、その後は弟の豊を伴ってタコ公園で河内先生から鍛えられたのですから、この頃はかなり強くなっていた筈です。
この日は豊の出場はなく、私と妻と豊の三人で応援にかけつけました。
康は出場チームの最年長者だったのか、前列中央で号令をかけていましたが、伸び盛りだった彼がチームの中では、とびきりノッポだったことが印象に残っております。
さて、彼の人生の一大転換期に強烈なインパクトを与えたであろう一枚の「色紙」についてお話しします。
豊の急死後の大混乱のため、塾経営の後継者という職をなげうたざるを得ない状況に立たされた彼は、一時豊の作った会社を受け継いだのですが、周囲の事情もあり、そこを辞めました。
既に家庭をもち三十才を過ぎている身は、極めて切迫した状況においこまれたのです。
熟慮の末、かつて目ざしていた司法試験に再挑戦する道を選びました。
以前の受験時代には、既に裁判官書記官試験にも合格しており、自己の才能を若干過信するところもあってか、「我、自らを信ず」とばかりやっていたのですが、今や家庭的、経済的に悠長な受験勉強はできません。
私とも相談して、勉強は朝霞の実家の元の自分の部屋へ通ってやる。
できれば一回で合格するにこしたことはないが、安全係数を見込んで二回受験が限界という結論を出しました。
正に背水の陣です。
結論を先に言えば、結婚のため空き部屋となった彼の六畳の部屋の長押には、先生が伊豆に新築をされたとき、私がお願いして揮毫して頂いた『躰極円連』の色紙が飾ってあったのです。
勿論、彼も尊敬する先生の直筆。
しかも父に直接書いて下さった書と聞いて大いに感激したことは無論のことで、その場で私は先生からお聞きしている言葉を『躰道の極意は円が転々ところがるように一つの技が終れば、それはまた次の技のいと口となっている連続技である。そして、止まるところを知らない。また、躰道は思想であり、しいていえば哲学である。単に肉体的、攻撃防御の技に止まらず人生観もしくは、世界観においても、思考の限りを尽くして、ねばり強く勝機の一瞬を求めつづけるという意である』
と、そのまま伝えました。
以来、約二年、彼は机の頭上にこの色紙の額を掲げて苦闘の末、一瞬の隙に勝機をつかんだ戦士の如く、ついに司法試験合格を克ち得たのでした。
そして待望の法律事務所を「さいたま市内」に構えることができました。
以上のように、親子二代にわたって、祝嶺正献先生からは、武道のみならず多くのことを学ばせて頂くことができました。
高い席上から、大変無礼ですが、先生に心からお礼を申し上げて、私の『炉辺談話』を終らせて頂きます。(終)
**************************************
「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」シリーズも今回で終了します。
尾崎健一先生には、私のブログ「つれづれなるままに」に掲載することを快く承諾して頂きまして感謝申し上げております。
本当に多くの方々がこのブログを閲覧していただきました。
躰道の関係者からは、「祝嶺正献最高師範の躰道創設の頃を知ることができるとともに、躰道に関わる人たちの真摯な心に触れることが出来るようで嬉しくなり、楽しんで読んでいます。」とのコメントも頂きました。
また親しい友人からは、「尾崎豊さんが『躰道』を習っていたとの事初めて知りました。」と連絡がありました。
皆様、今後とも宜しくお願いいたします。(池内和彦より)