つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その2)

2007年04月01日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その2) 尾崎健一

2.祝嶺正献先生との出会い

①弟子入り
のどかな飛騨の山の中から、寄るべなき青年が一人戦後間もない東京の喧騒と雑踏の中にとび出してきて、うろうろと心細げにさ迷っている。――それが宗家・祝嶺正献先生(以下先生と略)に出会う前の私でした。
一年間ほど職を転々として苦労の末、立川の自衛隊に職を得たけれど、友なし、金なし、学歴なしのないないづくしですから、何か自分を守るべきものを持ちたい。
そんな思いのなかで、私は初めて先生に巡り会った訳です。
時は忘れもしない昭和二十九年十二月三日。
一日に都内江東区越中島の陸上幕僚監部という所で入隊式を済ませて二日あとのことです。

この朝、始めて降り立った立川駅前には空っ風がごみ屑をまきあげて吹き荒れており、そうした中に自衛隊のカーゴと称するトラックが一台迎えにきてくれておりました。
荷台にとびのった仲間は、四、五人いましたが勿論お互い顔も名前も知りません。後から考えると、後に空手を習った仲間も何人かいました。
部隊につくと、三十名位の既に着任していた隊員の方たちが整列して迎えてくれました。
この中には、先生や横堀登さん、峯村千徳さんなどがすでにおられた筈です。

自衛隊ですから、翌日から運動場で朝礼があります。
そんな中に、威あって猛からず、といった一際目立つ方がいました。
そしてある朝、朝礼後人影がまばらになった運動場で、事もなげにバク転をやって見せられたのです。
並み居る私達が驚いたのは当然で、この方が空手をやられることはそのうち部隊中に知れ渡ってゆきました。
それが祝嶺正献先生でした。
希望者には、空手の手ほどきをして貰えるということが、口づてに伝わると、やがて私も希望者の一人の中に入っておりました。

記憶を確かめるために、当時の日記をみると
『昭三十、三、六 祝嶺先生から空手の手ほどきをうける』とあります。
十二月入隊ですから、約三ヶ月あとにはもう希望者に対して集団的な先生の訓練が始まっていたことになります。
人員は十五、六名位だったように思います。
先ず拳の握り方、立ち方、運足の方法、正拳突き、受け五段、蹴りと教程は進んでいきましたが、練習中には時々先生が展示演武を示され、間近にみる技のすごさに新米弟子たちはカタズをのんで見守ったものです。

気の早い連中は、早くも自分の力を試そうとあちこちから瓦をひろい集めてきて割りその枚数を競ったりしました。
実際、当時の駐屯地内は、旧軍の兵舎が荒れ果てた姿で、沢山残っていましたから、屋根から抜け落ちた瓦がごろごろと地上に散乱していました。
私たちは、空手イコール瓦割りという連想を何となく持っていたので、何気ないうちにそんなことをしていたのだろうと思います。(つづく)
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