つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その6)

2007年04月04日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その6) 尾崎健一

その頃立川の町は米軍の航空基地(フィンカム)を中心にまだまだ戦後の色彩が濃く町の主役は、残念乍らアメリカの兵隊さんでした。
クリスマス近くになると、町ですれちがう兵隊さんの多くは、勿論しっかりと女性と腕を組んでいます。
驚いたことに男の兵隊さんが耳にイヤリングをつけているのです。
日本では女性のイヤリングさえ珍しい頃です。
それともう一つの驚きは彼らの薄着です。
雪のチラチラする日に、半袖の私服で外出する兵隊さんなども見かけましたが、寒そうにするどころか、ツヤツヤとした赤ら顔です。

何しろ自衛隊の私たちは古い兵舎のあとを利用しているので、私たちが入った建物は、昔、馬が飼われていたとかいうところで、床はありません。
地面がむき出しで、時々馬蹄の錆びたのが出てきたりしました。
止むを得ず、古い倉庫の大扉を引きずってきて、事務机の下に敷きつめました。
ストーブの燃料は石炭で、これが一日バケツ一杯です。
残業の時など古い兵舎の板壁をはがしてきて燃やしたものです。
皆が寒がっているのを見兼ねた上官が『勤務中外套着用許可』と命令を下し、冬はオーバーを着て寒さに耐えて仕事をしました。

米兵の方は、恐らく温かい暖房の部屋からでてきて、体の冷めないうちに近くのバーへ入って、また女性と一杯やる訳ですから、たぶん雪の中でも赤い顔をしていられたのでしょう。
こんな町へも、時には空手仲間の酒好きは、先生の後にさえついていれば恐いものなしという顔で、ゾロゾロとついて歩いた事も、今となっては懐かしい思い出となりました。(つづく)

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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その5)

2007年04月04日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その5) 尾崎健一

そして、先生もこの機会にいよいよ武道家として新たなる出発を期されて、越中島移駐後間もなく退職されたように記憶しております。
先生の去られたあとの自衛隊の仲間は、こうした先生のお言葉を忠実に守って、その後も鍛錬を重ねたことは、皆様もご存知のとおりです。
退職後間もなく、先生は都内、神田共立講堂において、華々しく武道家としてのデビュー演武を行なわれることになります。
また『新空手道教範』初版が出版されたのも、ほぼこの頃ではなかったかと思います。
こうした教範に残された先生のお言葉からは、愛弟子たちを残して新天地に向かわれる師の心が熱く伝わってくるのであります。

越中島での練習風景に少しだけふれておきます。
ここは商船大学跡で建物等はそのまま自衛隊が使用していました。
立川のような広々とした兵舎跡地は、ここにはなかったので、練習は鉄筋コンクリート隊舎の屋上で行ないました。
真夏のコンクリートは、熱く焼けていてとび上がる位でしたが、だんだんと馴れてくると、持病の水虫が知らぬうちに治ったという人も出てくるほどでした。
また近くなった他部隊からも、物珍しげ気にのぞきにきて、そのまま練習に加わる人も出てきて、人員的には立川の頃と大差なかったように思います。
コンクリートの上には『一撃流』と白墨で誰かが大書していたことを思い出します。
立川時代ほんの一時期そう命名されたことがあり、私たちは何となくその語感が好きだったのです。
玄制流では体位の基本が『旋運変転』だったのが躰道ではこれに捻位が加わり現在の『旋運変捻転』となる頃から、躰道の主流は必然的に各大学の躰道部に移り現在に到った訳です。

先生の武道家としてのデビュー当日を再現して、「私と先生との出会い」の頃を終わりにしたいと考えますが、その前に少しだけ思い出多い立川の町のことを付け加えさせて頂きます。(つづく)

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