昭和20年に数え20歳の人たちが最後の招集兵だったと思う
だから1926年頃の生まれだろうか
今も生きていれば満97歳、正規兵でもっとも若い兵隊である
もう全国で60数万人だけになったとか。 戦場での戦争体験を語れる僅かな人々である。
だがそれより下には、志願兵と呼ばれる少年兵たちが居た1930年生まれ位から上の人たちである。
この年代だと100万人以上はいると考えられるが、あくまでも志願だから、この年代の一部でしかなかったろう。
ともあれ、戦場で戦った人たちは、この年代であり90何歳から上の人たちである。
戦争を体験した人となれば、もっと多い、赤ちゃんは別とすれば1940年生まれより前の人は、戦争中の日本を体験した記憶を持っているだろう
おそらく1000万人以上はいると思われる。
幼児、小学生、中学生で戦争を経験した人たちだ、もちろん満州や中国などで体験した人たちは悲惨な体験をしているはず
また空襲を受けた都市に住んでいた人たちも逃げ惑う悲惨な戦争を体験した
田舎で暮らしていた人たちは、戦争の空気感だけで済んだかもしれない。
だがそこから出征して戦死した兵士の家族だったかもしれない。
こうした戦争体験をした人たちは年々減っていくわけで語り部は少なくなるばかりだ。
団塊世代前後の人たちは、兵士の子供が多いはず、父親や母親から戦争の体験話を聞かされた人も多いだろう。
われわれは語り部二世として伝えていく責任(ではないが)があるのではないだろうか。
なぜ日本が戦争をしたのか?
それは「こんな理由だったから」などと一口で言えることではない
様々な国内事情や国際関係が重なって戦争になったのだ、今だって同じだ
自国の言い分もあるし、敵国の言い分もある
だからここでは戦争になった原因や理由は書かない、そもそも正確なことを私が知っているわけもない
親や親世代から聞いた話、あとは体験談の本などから知ったことくらいが私の知識だ。
大東亜戦争か、太平洋戦争か?とたまに論議がおこる
東亜とは「東アジア」という意味だろうから、「東アジアでの大戦争」という意味なのだろう。
一方、太平洋戦争は「太平洋を戦場とした戦争」という意味であろう。
東アジアとは中国、日本、朝鮮半島、満州、ソビエト沿海州
一方、アメリカが主たる敵である戦争の太平洋戦争は、日本に対する経済封鎖の親玉である世界一の経済大国がいよいよ英仏蘭に味方して、日本との戦争が避けられないことを知って、正面からの戦いを避けて、ハワイの真珠湾米軍海軍基地を先制攻撃したことで戦争が始まった。
東亜戦争は日本から見た主なる敵は中国共産党軍と中国国民党軍であろう、いわゆる日中戦争でこれはアメリカを相手とした太平洋戦争より何年も早くから始まっていた(日支事変)(満州事変)
東亜戦争の他にもインドシナ半島(今のベトナム、ミャンマー、カンボジア、インド、ラオス、シンガポール、マレーシアなど)でも日本は戦争を行っていた
当時、フランス、イギリス、オランダなどの植民地となっていた国々をアジアの同胞として、日本が欧米の植民地から解放することを目的とする戦争とも解釈できる(聖戦ということだ)
そして解放後は日本を中心として東アジア、東南アジア諸国を一つの大きな経済圏として共に繁栄すると言うアジアは一つ「八紘一宇」の思想を持っている。
だから太平洋戦争と大東亜戦争は日本から見れば一つの戦争であるが、実態は違う場所で違う国としている戦争だったと言える。
ひとくくりにはできない、実際終戦の時、アメリカと戦争していた軍隊は敗戦を認識したが、中国で戦っていた兵隊は日本が負けたことが信じられなかったと言う話を聞くことがある。
これで日本は太平洋のアメリカ、オーストラリア、大陸の中国、東南アジアからインドネシアの英仏蘭印との戦争、三方面戦争を始めてしまったのだった。
アメリカ一国だけでも日本の10倍以上の経済力と軍事力、生産力を持っているのだから、まさに一か八かの神頼みの無謀な戦争であることは識者ならわかっていただろうと思う。
しかしハワイ攻撃の大成功、シンガポール陥落、有利な中国戦線、イギリスが誇る大戦艦プリンスオブウェールズ、戦艦レパルスを一方的に撃沈
ビルマ陥落、インドネシアの解放と進駐、フィリピン占領と勝利が相次いで、日本人全てが舞い上がったのが、戦争を辞めるチャンスを逃すことになったのだと近年言われている。
「勝っている戦争を、こっちから『やめましょう』などと言うバカなことがあるか、負けてる敵に頭を下げさせろ」という雰囲気である。
結局、その経済力と生産性の差は、互いに軍艦や武器を大量に消耗しだした昭和18年頃から顕著になって行く。
日本が飛行機1機作る間に、アメリカは10機、20機と作る、日本が空母1隻作る間にアメリカは10隻も作ってしまうこの差は決定的だ。
更に19年には弾丸や砲弾、大砲、飛行機を作るにも鉄やアルミ、ゴムなどの材料が無く、燃料の油も底を尽きだして、敵の飛行機が日本に攻め込んできても迎え撃つことが出来なくなってきた。
原料不足を補うために鍋釜はもちろん、寺の釣り鐘まで国に納めたと言う
それで20年に入ると、アメリカの爆撃機は日本の飛行場を襲って航空機を破壊し、滑走路を破壊した
更に航空機や武器生産の工場を集中的に爆撃して、戦地に飛行機や武器がいかないようにした。
日本の自慢の軍艦も燃料が無く、瀬戸内海などの入り江の奥に身をひそめ、本土決戦に備えて航空機も掩蔽壕に隠して飛び立つことはなかった。
そして日本の空がほぼ安全と見たアメリカ軍は、いよいよ東京、大阪などの大都市への無差別爆撃を行い、都会を焦土とすると今度は地方都市を爆撃を始めた。
太平洋の小さな島の守備隊は次々にアメリカの大兵力の前に玉砕(全滅特攻作戦)を続けた。
父は東京でB29やムスタングP51、グラマンなどを相手に前線で戦っていたし、両親をアメリカの爆撃で失ったが、この玉砕や特攻作戦については「しなくてもよいことだった、ここまで行けば国はバンザイ(降伏)するべきだった、死ななくてもよい若者を大勢無駄に殺してしまった」と言った。
招集兵は通常20歳で通知が来て兵になる、だから昭和20年に20歳になった人までが正規兵であるが、敗戦濃くなり、兵の戦死が大量になると、15歳くらいから志願兵を募集し始めた、そして俄かパイロットを作って、片道燃料の飛行機に爆弾をつけて敵艦に体当たりせよと命じた。
アメリカ兵をやっつけるぞ!と勇んで行った少年たちを待っていたのは、「明日死ね」という命令だった。
少年兵はどんな気持ちであったろうか、今の人間は無駄死にだとか、なぜ嫌だと言えないのかなどと言う
しかし、それは今、平和な時代に不自由なく生きている我々が今の価値観で言っていることなのだ。
私も、高校生や30代くらいまで父に、「なぜ・・・」という疑問を何度かぶつけたことがある。
その時、父は悲しそうな顔をして「俺たちのしてきたことを、ああだこうだと批判するのは辞めてくれ」と言った。
平和な時代に言いたいことを自由に言って、正論だと正義面している息子に何をどう説明しても、今死ぬかもしれない戦争の渦中での経験と思いを、お前に理解できるものかという思いだったのだろう。
確かに、この戦争の中にわが身を置けば、今思っている考えは吹き飛ぶであろう。
孫子も冒頭で、「戦争は生産性が無い消耗だけの究極の無駄であるから、侵略戦争など論外で、身に降る火の粉を払う以外はしてはならないことだ」と言っている。
だが、世界の指導者は、聴く耳を持たない、ああだこうだと言い訳して正当性を訴える、わが身に火の粉が降りそそいでいるから、その敵を攻撃するのだと言い張る。
今日も世界で戦争は続いているし、今も兵士や国民が死んでいるのだ。