神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

病気の便り

2024年07月20日 20時18分03秒 | 時代検証
 同年代の福井の知人から4年ぶりに手紙が届いた。
越後、北陸路を歩き続けた商売人である、知的でエレガントな人物、達筆で味わいある筆字は「もらってうれしい年賀状」でも紹介した。

内容は廃業の知らせだった、コロナで往来と商売がママならなくなり休業していたが、その間に腎不全や脳梗塞などいくつかの数値が悪化していることがわかり、精密検査で脳動脈瘤も発見されたとのこと。

ようやく商売再開という気運になった頃、長距離運転が不可能になり、さらに悪化した動脈瘤の手術、それで廃業を決めたという
年齢も70代、きっぱりとあきらめたらしい。

毎年楽しみにしていた年賀状が4年間途絶えていたのは、このような事情だったらしい
こうして内情の知らせが届いたことで彼の義理固さが再び蘇った

私も70代半ばで大腸がんが発見された、これまで何一つ不自由がない健康体だったのに、急に私も彼も、同級生も次々と大病を患うようになった
団塊世代は競争世代で、今振り返れば随分と肉体的にも精神的にも無理と我慢をしてきたと思う

40代は我慢の人生から一気に解放されて、毎晩のように飲みに出て梯子酒の御前様それが20年以上も続いた
きっと、その時のツケが今回って来たのだろう
同級生の女友達たちの夫は、私より少し年上の75から80歳前後が多いが、数年前から数人亡くなった。
また60代以後、私のようにガンを患った旅行会メンバーも20人近い仲間の三分の一いる、幸いに再発せず今も元気に暮らしているが
夫婦でガンになったメンバーもいる、ガンが日本人の二人に一人時代と言うが、どうも団塊世代から上が、この数字を押し上げている気がする。


有難や節 - 守屋浩

私がパンをあまり食べなかったわけ

2024年06月23日 19時24分31秒 | 時代検証
 今日は、さっぱり朝の4時半から時間が進まない。
最近の決め事、「5時前に間が覚めても布団の中で、まどろみながら5時半過ぎまではじっとしている」
それが今日は守れなかった、外では早くも鳥たちが夜明けと共に活動を始めている
決め事をするまでは、5時でもおかまいなくチュン太たちに朝ご飯を提供していたが、さすがに今は早く起きても、そこまではやる気は無い
この頃は6時から7時の間で定まって来た。

朝のルーティンも定まって来て、まずは顔を洗って神棚の榊の水と、水を取り替えて拝礼をする。
それから、仏壇のご飯を取り替え、花の水を新しくする、そして焼香と朝の挨拶をする。
その後で、庭の畑の空き地でチュン太に朝ごはんを振る舞い、楽チェアーに足を延ばして10分ほどチュン太たちを見ている
頭を空っぽにして眺めて居るだけの、この時間が至福の時、一番好きだ。
空っぽと言いながら、チュン太たちのほほえましい姿に何かを思っている。

それから自分の朝食のご飯やおかずを作り始める、だいたい30分くらいで出来る、ほとんどが野菜料理と卵料理、それにみそ汁やスープ作り
パンを朝食べる習慣は74年間ない、朝はご飯に味噌汁と決まっている
パンは中学の学校給食で三年間毎日冷たくあじけない「こっぺぱん」を「キャラメルみたいな固いバター」をかじりながら(塗るのは不可能)、アメリカからもらった栄養不良を補うための脱脂粉乳の冷たいミルクと一緒に胃に流し込んだ
まれに「小倉ミルク」と言って、甘い小豆入りの脱脂ミルクが出て、それはうまかった。(脱脂ミルクは、アメリカでは家畜の飼料との噂があった)
おかずはだいたいがうまくなかったが、「クジラの竜田揚げ」と「春雨サラダ」だけは数少ないうまいおかずの記憶がある、それ以外は記憶にない
パンの話が中学校の給食に脱線したが、そんな冷たく固い、まずいパンを食べていたのでパン嫌いになった。
それが滅多にパンを食べない理由である。
そもそも「こっぺぱん」が大きすぎる、たいてい半分食べて残りは紙にくるんでカバンに入れて持ち帰り、家でスライスして素揚げして、砂糖をかけておやつ代わりに食べたが、やはり毎日だと飽きる。
人それぞれで中には私のように残す者からもらって2人分食べる奴もいた。

これは中学校の給食の話だが、小学校の時はうまいパンを食べていたのだ
弁当を持って行くのは自由だったが、昭和30年代の事だから、朝から色とりどりの弁当を作ってくれるのは町場の豊かな家の奥様位なもので、私たちのような下町のかあちゃんは忙しいから、たまに作ってくれるのは「のり弁」
運が良ければ、小さな卵焼きが入っていることがあったが、卵も貴重な時代。
さすがにのり弁は味気ないから、のりを二段にしてくれと頼んで「二段弁当」
これで昼飯は終わったが、弁当が無い日はパン食
朝、パンの注文当番が点呼をとる「こっぺぱん」「ぶどうぱん」「ジャムパン」「クリームパン」「栄養パン」など何種類かを読み上げ、挙手で数を書いていき、それを先生に提出すると、昼に廊下でパン屋から受け取る仕組みだった
牛乳も注文出来て、ビンに入った牛乳と、コーヒー牛乳があった、断然コーヒー牛乳が甘くて好きだった
甘いものが不足の時代だった、支払いはどうしたか覚えていない。

高学年になると、少し利口になって情報を活かすことができるようになった
学校の正門の前に食料品店があって、そこの奥でこっぺぱんを買うと、ジャムなどを選んで塗ってもらうのだが、中に「バターピー(バターピーナッツ)」があって、これが抜群の旨さだった
もう学校の注文パンなんか食べていられない、少数の情報を得た子供だけが、特別美味しいパンを食べられる
私も、その一人であって、密かに優越感を持ちながら食べていた。
それが中学校に行って、あのまずい「こっぺぱん」に戻されたのだから、パンを嫌いになって当然だった。

今は女房殿がパンやケーキを焼く文明の利器で、毎週一回は焼いてくれるので温かくて柔らかいパンを週二回は食べている。

女房殿が実家の畑で作ったジャガイモを持って来た、ざっと200個以上はありそう。 でもほとんど女房殿の叔父さんが作ってくれたのだ。
ベーコンとで「チーズポテトグラタン」でも作ろうかな。


橋幸夫 雨の中の二人

まだまだ物価上昇は続く

2024年05月06日 19時44分49秒 | 時代検証
 大谷の4打数4安打2ホーマーには驚いた
早くもホームラン、打撃の二冠王を走っている、移籍直後の10試合までの不調や心配はどこに行ってしまったのか、まったく絵になる天才だ。

 食事にオリーブオイルは欠かせない
私が使っているのはスーパーに売っているごく一般的なオイルだが、去年まで900円くらいだったのが昨日見たら、同じ品が1600円にもなっていた。
あまりモノの値段は気にならない方だが、これだけはっきりすると知らん顔ですまされない。

今日も大衆居酒屋&食事処で昼飯にラーメンを頼んだが、オリジナルラーメンが一昨年には490円だったのが690円になっていた。
僅かな単品だから、「仕方ないな」で済ませているが、一か月トータルすればいったい・・・
例えば30%平均に値上がりしていれば、10万円あるとして10%は消費税で1万円が消え、残りの9万円買い物できていたのが、同じ商品を買ったなら63000円分しか買えないことになる。
すなわち90個買えた物が、63個しか買えないというわけだ。

そんなご時世だから、老後は年金以外に3000万円預金が無ければやっていけない、というのも現実味を帯びて来た。
預金もろくにない身だから、もう自給自足で不足を補うしかない
それで野菜を自己消費分だけ作り始め、漁師の手伝いで賄い分をもらってきて
米も賄い、ジャガイモも今年から作り始めたので食費の6割くらいは倹約できている
これが田舎暮らしのありがたいところ、そして田舎人の絆、助け合い精神ともいえる

先日は同級生が筍を持ってきてくれた、岐阜からも女房殿の友達が筍を送ってくれたし、つー君から野菜、別の同級生からメロンパンをいただいた
とうぜん私も、自分が融通できるものをおすそ分けしている。

幸いにも、あまりたくさん食べることも無くなったし、贅沢品を食べようという気力も失せて、なんとか年金範囲で暮らせている
あとは知恵を絞って、趣味や余暇をいかに安く効率的に行うか
旅行もしたいが交通費なども5パターン位考えて、金額や時間を精査している
例えば東京へ行くなら、同じ交通費だから滞在日数を増やした方が得になる
だけど滞在費の宿泊料が日数分かかる
車で行けば車中泊が出来るから宿代はいらない、そのかわり高速代とガソリン代、場合によってはレンタル代がかかる場合もある。

一人暮らしの友達の家に泊めてもらえば、お土産だけで済むかもしれない
まあいろいろ虫の良い考えを巡らせているのも、楽しみの内なのだ。
物価が上がれば、給料も上がるだろうし、給料を上げるために物価が上がるともいえる、どこまでいってもイタチごっこ
収入が増えない人間にしわ寄せが来るのは明らかだ、でもそうなったのは自分に先見の明が無かったとも言えるから、愚痴ばかり言ってもいられない

「立って半畳、寝て一畳」「食べて生きていられるだけでももうけもの」
自分の人生を他人のせいにしても仕方ない、無いなら無いなりに楽しむ方法を考えて生きていれば、それもまた楽しい人生と言える。

苺の花が落ちて果実の姿が見えて来た
ものつくりの歓び





臍(へそ)

2024年02月14日 06時24分42秒 | 時代検証
 臍がどこにあるのか? 意識することがなくなった
今頃になって臍を探す 目を閉じて指で探っても、見当違いの所をいくばかり
もう目で確かめないと正確な位置がわからない

バブルの真っ盛り 連日連夜の不摂生がたたって、顔もお腹もまんまるになり
臍は、半円形の丘の頂にある池のように、大きなくぼみになっていた
お風呂に入ると、臍に湯が溜まって、ますます池のようになったものだ
さすがに今はバブル崩壊の如く、丘もバブル期よりは標高も低くなっている
それでも臍の池は健在だ と、言いつつまた確かめてみる
否、けっこう池も小さくなっている

六年前に、父母が相次いで亡くなり、遺品整理をしていたら
タンスの子引き出しの中に小さな桐箱があった
何かなと開けてみたら、妹のへその緒であった、さすがに現物を見ようとは思わないので、そのまま蓋をして、妹に連絡した。
「そんなのいらないよ」妹は、ひとこと言っただけで全く興味が無い
私のへその緒もあったことは記憶にある、だがどこにあるのかわからない
何かの加減で、もう我が家には存在していない、別に欲しいわけじゃないが

今、わが町には産婦人科が消滅して、町医者も、たった一つの総合病院にも産婦人科がなくなった。
ということは産気づいたら、小一時間かけて隣町まで妊婦を搬送するしかない
さすがに市長や議員の評判が下がって、大学病院から医師が派遣されることになったが、処置能力は50%以上低下した
もっとも人口、婚姻数、出産数も大幅に減っているので深刻な問題かどうかは今の私にはわからない、ただ妊婦にとっては不便で不安だろう

子育て問題を論じる前に、安心できる出産問題の方が優先されるべきだ
不安なままでは子を産む人も減るかもしれないし、不便な町に愛想をつかして安心できる町に出ていく人も増える
2050年にはわが町の人口は今の40%くらいになるらしいから、今でさえ不便で寂しい町は、どんな姿になるのか・・・見ないで済む方が幸せかもしれない

産婦人科の話をしながら気が付いた
私が生まれた頃は上流階級はいざ知らず、庶民階級では自宅に産婆さんが来て
家で子を産むことが多かったことを思い出した
町を歩けば「産婆」の看板もあった気がする、あの頃は医者より産婆だった
出産死亡率とか野暮なことは言わないで純粋に考えれば、産婆という存在はありがたいものだった、ゆえにへその緒も、存在するのだ
今はそんな看板も姿も見えない

テレビドラマ「春が来れば」では主人公の一人、瞳さんは3人だけの出産施設の介護士だ
今回は、リーダーの先生が「私たちの仕事は出産後のアフターフォローがたいせつなの、寄り添って出産後の悩みにもつきあっていくのよ」、そして出産後の悩めるお母さんには「一人で悩まないでなんでも相談して、困ったらいつでも、ここにきていいのよ、泊ったっていいんですよ」みたいなセリフがあった。

シングルマザーも多い現代では出産後、相談相手もなく一人で悩んで子にあたったり、鬱になったりする母親が増えているようだ
医師不足の病院は事務的にならざるを得ないし、忙しい看護婦もつっけんどんになるところもある

臍 普段は気にしないが、母とのつながりが唯一体に残った場所だ
臍を見て、たまに母を思い出すのも良いかもしれない。





じいさんAの遺品

2024年01月20日 08時19分50秒 | 時代検証
今は令和6年1月20日土曜、午前8時14分
起きたら暖房のない室温は9度、そのまま一階の台所へ行ったが「ひんやり」するが寒くはない。
そのまま、畑になっている庭に出た、ここにももう雪は無い
パジャマのままでも寒さは感じない
12月に2日間雪が続いて40cmほどの積雪になって以来、大雪と言う雪は降らず
積雪も多い時で数センチだ、そしてもう1月も10日を残すだけになった

安心はしていられない、本格的な冬はこれからだ
たいがい2月5日頃から2月いっぱいが大雪になる例が多い、それでもあと40日もたてば(寒い)春がやってくる。


 1995年の日記を転記していたら、じいさんの逸話が出て来た
また繰り返しになるが、私の爺さんは二人いる、爺さんAはばあさんの家に婿に入って、父を作って間もなく離婚して戸籍上他人になった爺さん。
いま私が住んでいる町で、新しい家族と暮らして87歳まで生きた。

もう一人は爺さんB、ばあさんが離婚して7~8年後に婆さんと結婚した東京の自称「株のブローカー」その実態は今も不明、ばあさんと東京大空襲で死んだ。50歳だった。

今日書くのは爺さんAのこと、大した話ではない、私が生まれる45年以上も前に父と他人になってしまった爺さんだから、私もよくわからない。
そんなじいさんAの一面を見た話し。

子だくさんの貧しい家の次男坊として生まれた、1899年生まれ
茨城県で離婚してから東京に出て、そこで山形市生まれの教会のシスターと再婚、空襲が激しくなり食うに食われなくなって家族三人で故郷の北陸に帰って来た。
終戦後は「クズい~ お払い」の今でいう個人の廃品回収業、リヤカー1台で町を歩くが食うにギリギリの生活、家も本家の塩炊き小屋を借りて住んでいたらしい。
それから3年後に、東京で家族ゼロになった23歳の父も、この町に食と職を求めてやって来たが、爺さんは全く頼りにならず、父は独立独歩で魚の行商を始めた。
爺さんとは違い、父は仕事一筋の男だったから2年後に私が生まれることになると100%借金だが小さな平屋を建てた。 25歳の時だった。
それから7年後には別の場所で二階建ての魚屋店舗兼住宅を建てた、その時には私の妹、弟も生まれていた。 父は32歳だった。

どちらの家の時か忘れたが、家を建てるための資金を高利貸しから借りた
高利貸しというのは女高利貸し、永山ヒデ(仮名)
父より5歳くらい年上で、デップらと太った獅子鼻の男勝りで気が強い女
若いころ看護婦として東京の巣鴨の病院で働き、巣鴨プリズンで戦犯として収容されていた東条英機を見たと言うのが彼女の自慢だった。

金もなく力もない父だったが、戦後の上野、新宿の闇市で営業をしていただけに男前で気っ風がよく、若いのに負けん気で物おじしない挑戦的な姿にヒデは惚れて、「おれから金を借りれば利息が高いぞ、おじさん(ヒテの亭主、代書業)から借りれば利息はつかんぞ、聞いてみろ」すでに亭主には手をまわしてあるヒデだったから、すんなり貸してもらえた。
父はヒデさんを「ねえさん」と呼んで慕った、ヒデさんも「おまえ」と呼んで可愛がった。
私が40代まで付き合いはずっと続き、子供が居なかったヒデさんは私を下の名前で呼んで可愛がってくれた、私も「おばさん」と呼んでいた。

その頃の話だが、ヒデさんの土地を借りて店の案内看板を建てさせてほしいとお願いに行ったが話はすんなりと決まった
高利貸しだけに金に関してはシビアな人だった。
「お茶飲んでけ、yottinもっと頻繁にここへ立寄ってくれ、おれも一人で寂しいんだから、それと来るときにはゲサン(燗をつけた酒で飲まずに残った酒) も持ってきてくれ」
もう遥か昔に稼ぎが無い夫を追い出して一人暮らしになっていたヒデおばさんは、この頃70代半ばくらいになっていたが相変わらず太ったままだった。
このとき、おばさんが話してくれたのは意外にも、爺さんAの若いころの話だった。

祖父Aは、私の婆さんと別れた後、しばらくたって故郷に帰ってきていた、まだ20代後半だった。
そしてヒデさんの兄が経営していた工場で働いていた。
この頃、ヒデさんは高等小学校を卒業して隣町の看護婦養成学校の受験をすることになった、それには履歴書が必要であった。
ところがヒデさんや、その兄さんの周りにはまともに履歴書を書ける人間が居なかった。
何しろ田舎町故、地元の就職はみなコネ、人脈で決まるから履歴書など必要なかったのだ。
兄さん社長は自分の工場の職人の中に本をよく読むのが居たので、こいつなら書けるのではと聞いてみたら「書けます」という
それで喜んで任せたら書いて持ってきた、それを看護養成学校へ送ったらすぐに返却されてきた。
申請人の所に、ヒデさんの家族や親戚の名前を書き並べてあったので、「申請人は誰ですか」という具合だった。
社長は困って考えたら、爺さんを思い出した、爺さんはここに就職したものの、仕事がしたくない日は出てこないという調子だったので、社長も忘れるほどだった、それでも締め切りは迫るし、文句も言わず「あれは親戚うちでも物知りだと評判らしい、すぐに呼んでこい」と使いをやった。
爺さんがやってきて返却された履歴書を見ると「カラカラ」と笑って、小さくなっている工員を横目に「これではだめだ、通るわけがない」と言って、すぐに新しく書いた、それを送ると受理されて、ヒデさんは晴れて入学となった。

社長は感激して本採用にしようと思ったが、いかんせん3日働けば10日休むといった調子だから呆れてしまい、首にせざるを得ないと思ったが、それ以前に本人が辞めてしまった。
「あれで仕事が好きなら、この町に置いておくのは惜しいほどの人物になっただろうに」と社長がヒデさんに言ったそうだ。
爺さんは閑であろうと、なかろうとしょっちゅう本を読んでいたそうだ、本家も親戚も「本家が豊かであれば学問をさせて、学者になったかもしれんのにのう、惜しいことだ」と、ことあるごとに言っていたという。

結局、爺さんは一生この調子で87年の人生を終えた、その心の内を書いた色紙を5年ほど前に父の遺品整理をしていて見つけた。
初めて爺さんの本音を知った思いだ。 実父のこれを見て一生働きづくめだった父はどう思っただろうか?想像はつく。

48年前、77歳のときに書いたものである、「成城」とは終戦まで東京の成城で借家住まいしていたので、それを号にしていた。
















 



団塊世代と外国語と歌と

2024年01月17日 12時08分53秒 | 時代検証
 戦後まもなく生まれたのは団塊世代で正式には昭和22年~24年の三年間に生まれた世代を言う、この年代は一年間で260万人誕生、私の昭和25年でも230万人以上が生まれた、令和5年は新生児がついに年間72万人程度に減少している、6年度に70万人を割るのは確実だ

とにかく団塊世代は何をするにも競争競争で、汽車に乗る時なども一人が先に乗り込み、窓を開けて、外の仲間が窓から荷物を入れて4人分の席を確保する、そうでもしないと座れない。 
小学生の時は校庭で野球をするにも一番良い場所をとるために授業が終わると同時に場所取りに走る、とってしまえば上級生だろうと譲らない
小学校3年生の時、全校生徒数は2000人でクラス数は40あった、1クラス50~55人くらいのすし詰めだった。

どこもかしこも人であふれていた時代、呑気にしていれば兄弟でもおやつが奪われてしまう。
それだけに先読みする能力は誰もが身に着いた、敗戦からまだ10年くらいしかたっていない
人が多いが貧しい、貧しいから親は子供などかまっていられない、子供たちは親に頼らず生きていく能力を近所のガキ大将から学ぶ、だから自然とグループが出来て序列も覚える。
遊びは先輩から習い、色々覚えた

そんなところで育つと、社会の中での適応力が早く身につく、早く大人になる
山間部の田舎では中卒で就職が多くいた、競争の激しい社会に15歳で放り出されて、一人で生きる力を早く身につける
昭和団塊世代は競争社会の中で生きて来たが、一方で集団の中で序列に従う従順さも身に着いた。 当然ながら忖度がうまく世間を渡っていく方法であることも覚える、だから要領の良い奴も多かった。
そのくせ自由になりたいという気持ちは強かった、それは自由の国アメリカに対するあこがれとなった。

ロカビリーやアメリカンポップス、ブリティシュロックなどに染まり、親からはアメリカかぶれと言われた。
ところが学校の勉強では英語がさっぱりなのに。毎日ビートルズなどのレコードを聴いていると発音だけはクラスの優秀な子より上手になった
意味は分からないんだけど、発音だけはね・・・

歌詞カードを見なければ歌えないと思っていた外国曲
ところが毎日聞いていると、いつの間にか「そら」で歌えるようになっている。
英語曲や、テレサテンの中国語バージョン「月亮代表我的心」「舐蜜蜜」
韓国のJang Yoon Jung「어 머 나」などはカラオケで歌える、
それは何度も聞いてメロディを完全に覚えているからだ、メロディが完璧なら詩を乗せるのは難しくはない。
英語、中国語、韓国語などは必要な部分だけは、それなりに頭に入るから不思議だ。

スマホに向かって英語で語り掛けるのも最近のお楽しみ
正しい発音をしないと、その通りに画面に出てこないから、発音の確かさの確認にはなる
私が習ったスクールイングリッシュは外国人と話せるレベルのものではなかった、周りの成績上級者でも英会話がダメなのは多い
その点、今は幼児でさえ英会話の初歩くらいは話す、若い娘が外国人相手に見事な発音で話すのを見ると「やってられないや」羨ましさ、虚しさを感じるとともに、やり直せない人生の無常を思う。

戦争は敵国を侵略して、占領地の現地人に勝利国の自国語教育をするのが洗脳の初歩だが、敗戦間もない我々団塊世代にアメリカさんは何故正しい英語教育をしなかったんだろう?
3S政策で日本人はピンク色に洗脳されてしまったが、英会話洗脳の方が良かった、今頃それが始まった
英語が世界の共通語になっている今、本当に残念だったと思う。

40代になって、地元の学校の英語教育に来ていた若い外国人の臨時講師に日本食をごちそうしたりした
ジャマイカン夫婦や、英国人のミス・H、カナダ人のミスターKと短い付き合いがあったが、英会話はできずとも「promise」「impossible」「are you OK?」[「Good!」単語と片言でけっこうエンジョイできたから、そんなんでいいのかも・・・あとは歌で・・・歌こそ世界の共通語だと思った
言葉は通じなくても一緒に楽しめる。
ジャマイカン夫婦の時はもう有線カラオケになっていた「ミネソタの卵売り」を教えたら、覚えようと何十回も歌っていたのが印象に残っている。

1995年の日記に貼ってあった小顔のミスHさんとの一枚、何をジュエットしているかは忘れた、たぶん簡単な英語曲だったと思う、この時はレーザーディスクの時代、K氏はカラオケの為に英語のディスクを持ち歩いていた。
「日英同盟」あれから29年か! Hさんも50代半ばだな



70代に入った今のお楽しみ、やはり友人知人と食事をしたり、飲み歩くことかな
ゴルフもやめたし、旅行も飲みに出る回数もぐっと減ったけれど、酒のない席で会って話すことはそれなりにある。

男友達と同じ数の女友達が増えたが、それも年相応と言うことなんだね。
残る25年は心のママに生きていくことが一番、重い荷物を背負った人生だが、そのくらいの負担がないと「だら~」とした人生になってしまう

そうそう、木梨憲武のドラマ「春になったら」で「・・・までにやりたいことリスト」と言うのがあった、私もそれをやろうと思う。
私の場合は「78歳の誕生日までに、やりたいことリスト」としよう。
明瞭な目標あれば計画ができる、計画が出来れば実行日が決まり実行する
刺激、刺激!





大正と平成の「米騒動」

2023年11月01日 10時56分01秒 | 時代検証
 米騒動と言うと富山県魚津市の米騒動が有名だ
大正7年(1918年)に起きた旧魚津町での未曽有の大事件
特異なのは事件の中心は魚津の肉体労働の女衆であったことだ
これで越中の女は男勝りと言うイメージが出来た。

原因は留まるところを知らない米の値上がり、短期間で何倍にも上がっていった。
海岸で船からの荷役をしていた女衆が、大量の富山の米が商人の儲けの為に北海道へ送ることに気づいた
ただでさえ米不足と米の値上がりに苦しんでいたから、これを知った主婦たちは怒り、米の運搬を拒否、さらに米屋などに押し込んで抗議した。
しかし大規模な米の強奪や放火、破壊、傷害事件は起していない
経過や結果はしらない、ただこういう事件を思い出したのは自分の日記の転記作業からである。

日記の断捨離の為、14歳の日記から始めた転記作業はようやく1994年(44歳)までやって来た、30年分が終わり、残るは30年だから半分が終わったか
どうやらニ年近くかかりそうだ。
この1994年は「北陸道全通」と「米騒動」があった年だった、たぶん93年の秋から続いていたと思われるが忘れた。
もう原因も経過も忘れてしまったが、国産米が無くなってしまい国産の備蓄米やタイ米、中国米、カルフォルニア米などが代替えとして出回ることになった
3月から外米の販売が始まった

この日記にも「うまい飯を食べたくて毎日15時間も働いているのに、なんで外国米を食べて働かなきゃならないんだ」と嘆いている。
とにかく国産米が姿を消し、少しあっても3~5倍の値がついていた

私の商売は売り上げの10%くらいが米に直結する飲食店だから影響は大きかった。 県外客の多くが北陸、北越のコシヒカリを楽しみに来ていたからなおさらだ

当時、社長だった父から命令が出た
「どんなに高くても国産米100%をお客さんに提供せよ」
それで友達の米屋を通じて秋田県の「あきたこまち」を安定供給してもらうことになったが10㎏4000円くらいだったのが1万3千円であった、まだGW前のシーズンオフで、お客さんも少ない時期だったので何とかしのぐことが出来た。

農協が主催して外国米の調理法の講習を開いて参加したが
①外米100%のブレンド②国産と外米のブレンド③カルフォルニア米の3種の調理法を学んだ
外米でも日本の米とは種がちがうタイ米は臭いがきつくて一番日本人に合わなかったが、これは粘り気が無くてチャーハンにもってこいとと言うことだった
とにかく香辛料(カレーチャーハンなど)をたくさん使って臭いを消す方法を学んだ。
外米ではカルフォルニア米が日本米に劣らぬように言っていたが、あまりなじみが無かったな
中国米が日本米に似ていて一番抵抗なく食することが出来た。

あるとき、例の友達の米屋が外国米も切らしてしまって、我が店に借りに来た
10㎏供出したが、それを1㎏ずつにして10人のお客様に販売すると言っていた
この平成の「米騒動」がどのように、いつ終わったかも覚えていない。

今日の新聞には新潟米が夏の猛暑と水不足で一等米比率が異常な低落だと
前年75%あった一等米が今年は13.5% コシヒカリは3.6%という
全国平均が約60%だから全国でもトップクラスの高温だった新潟県の異常さが目に付く。
見た目は劣るが、味は一等も二等も変わらないと言うから消費者には認識してほしい。

近隣の米生産県の富山、山形、秋田が55~63%だから新潟の異常さが目立つ
そして隣県の長野県では、一等米比率が全国一の95.6%というから冷寒地が今年は幸いしたようだ。
等級が変われば実入りにも影響が出るから農作物と併せて「令和のミニ米騒動」かもしれないし、人にとって生命線の食品の相次ぐ高騰は、富山の米の値上がりに似ている、政治は庶民に寄り添って物価高騰をおさえないと魚津の米騒動が全国に広がったように問題が発生しないとも限らない。

所得410万円以上の高齢者140万人に対し介護保険料負担増にするとのこと
一方住民税免除の低所得層が1300万人というのに驚いた
日本人の貧困、ひとりあたりGDPが世界で30位に迫り、東アジアでも韓国、台湾に抜かれて4位は知っていたが、低所得層1300万人には正直驚いた。
国民の10人に一人が低所得者なのか😨 












じいさんとカワセミ

2023年10月25日 17時08分31秒 | 時代検証
 毎度登場する私の二人のじいさん
一人は大正12年ごろに、茨城県古河で、栃木県黒羽生まれのばあさんに婿入りして父をこしらえてから、2年後くらいには離婚して出て行ったじいさんA
もう一人は昭和10年ごろに、ばあさんの再婚相手になって、父を後継ぎの養子にした東京のじいさんB(現在の姓)
ばあさんと、じいさんBは東京大空襲で昭和20年3月10日に亀戸で亡くなったが、故郷の北陸の田舎に疎開していた爺さんAは87歳まで生き延びた。

 父には、幼少の頃から、ばあさんがさんざんAの愚痴や悪口を言い含めていたので、すっかりじいさんAの存在を否定していたが、終戦後、家族ゼロになって東京での一人暮らしが難しくなり、背に腹変えられず昭和23年ついに、じいさんAの故郷に父はやってきて20年ぶりに再会したのであった(もちろん父は離婚時2歳くらいだったから、この親の顔は覚えていない)

それでも困っていたから頼って来たが、とても頼りになる元父親ではなく、父は従兄弟を頼って行き、じいさんとは相変わらず他人の関係であった。
じいさんAは古河で離婚後、東京へ出て山形市出身のプロテスタント教会のシスターと再婚して男子一人をもうけていたから、なおさら他人感は強まっていた。

じいさんもまた、父を実子だと言う感情はさらさらなく、それでも近くにいたからたまには立ち寄ることもあったが、本来なら目に入れても痛くない筈の孫である私に対しても特別な感情もなく、小遣い1円すらもらったことが無かった。
産まれてくるのが100年早かったような人だった(1899年生まれ)、それでも87歳まで生きたから、彼が亡くなったときには私は既に36歳だったから晩年には数回だけ会って話したことがあった。

一つは戦国兜と錆びついた日本刀を私に見せて、「先祖伝来の刀だが家が焼けた時これも焼けたが今日まで保管しておいた
おまえが50万円出してくれたら、研ぎに出せる、それで元の姿に戻る」唐突にそう言った。
当然ながら、そんなことに50万円も使えるわけもなく断ったが、そんな感じの人だった。
父に話したら「まだそんなことを言っているか、話の内容はほとんどホラだから相手にしなくていい」と言った。

もう一つは、学生を使って今は誰も通らなくなった山の中の古道を調査している、と言って資料らしきものを見せた、なかなか調査資料としては良くできていた
昔は街道で所々に道しるべの石碑があって、その拓本をとって歩き、その拓本は歴史的価値がある様に言っていた。
それも本人が調査したかどうか知らないが、そのようなことが大好きであったことは事実である、私にも似たような血が流れているから、隔世遺伝かもしれない。

 もう一つは、このじいさんが婿に入った父の生家のルーツを当時、黒羽の本家を訪ねて700年に遡って調べた家の歴史
それと自分が生まれた家の歴史、それを書いたものを父に渡していた
父は頭からじいさんを信じていなかったから、仏壇の引き出しにしまいきりにしていた
私が中学生ごろから父の人生に興味を持ち、根掘り葉掘り聞くものだから、その紙を思い出して私に見せた
それから私のルーツ探しが本格的になり50年にわたって続き、ようやく90%完成したのだ。
その点もじいさんに似ている。

じいさんは同じように色紙を3枚、父に持ってきた
それを私は最近発見したのだが、1枚は自分の人生が一つも思い通りにいかないという愚痴であり、もう一枚は取るに足らぬものであり
もう一枚がカラーの色紙で、ここに掲載した「かわせみ」の図である。

「八十翁 成城 詩」と書かれてあり、その詩と言うのは「虫川の 川べり?? かわせみの羽 美しく立ち止まり見る」
自動車免許など持たないから自転車で10数キロ乗って行ったのか、息子(父の腹違いの弟、20歳違う)に乗せてもらって行ったのか

絵と文字は知り合いの文化人に書いてもらったようだ。
成城とは戦争中に世田谷の成城で間借りしていたから、田舎の親戚はじいさんを成城と呼んでいた。
八十翁だから、80歳ころの体験だろう、場所は海岸から10kmほどの静かな集落で水がきれいな所だから、カワセミもいたのだろう。
残念ながら、私は73年の人生で一度も生のカワセミに出会ったことが無い
一度は見たいと思うが・・・
わが町にも、どこかにいるのだろうけれど。

じいさんAは父の反面教師として、ある意味、父に人生を教えたともいえる
じいさんAは生涯勤めをしたことが無く、さりとて自営業や第一次産業に従事したこともない
私の知っている範囲では戦後からずっとリヤカーを引いて廃品回収業(昔は「クズや」「ばたや」)それも気が向けばやるくらいで、リヤカーを引くのは後妻か息子だった、だから生涯貧乏暮らしだったが、本人は集めた廃品の中に本や美術書があると、それを読みふけるような生活で満足していたらしい。

父はそんなじいさんを軽蔑していた、そして絶対じいさんのようになるまいと、自分を励まして生涯商売人として働き続けた。
私はちょうど二人の中間のような人生を送った、仕事は一生懸命したが父ほど働かず、父ほどの才覚もなく
じいさんほど怠け者ではなかったが、じいさんと同じような好奇心を持ち、(父に言わせれば)なんの足しにもならぬ絵空ごとに夢中になった。
 因みに東京日本橋兜町で生まれた自称株ブローカーのじいさんB(実態は麻雀など遊び人)もまた、生涯会社勤めも第一次産業労働もせず、どうして女房子供を食わせていたのか謎である、同居していた父さえ知らない。
それでも貧しいと言うほどの暮らしではなかったらしい。

戦前戦後の日本を生きた二人のじいさんの暮らし方は私には想像できない
だが今の時代の暮らしとどっちが幸せなのだろう?

日本の戦争の歴史 せかいのおわり

2023年08月15日 15時42分19秒 | 時代検証
日本では、鎌倉北条が後醍醐天皇と足利、新田ら尊王武士団によって滅んで以後、徳川家康が、豊臣家を大坂城に滅ぼすまでの約300年間の内戦があり。
その後、約260年の長い平和が続いた。

明治維新によって、その平和は破られ徳川幕府と武家社会が日本から消え去った
明治政府は国力がつくと西洋に追いつくため、工業の発展と軍備増強(富国強兵)に力を注いだ。
そして台湾出兵支配下に置き、その後1894年「眠れる獅子」と言われた巨大国家「清国」(現中国にあった満州族国家)と戦争をして大勝利
そして国際ルールにのっとって勝利国の権利として莫大な賠償金を「清国」から取り上げ、更に清国の領土のなかに権益と租借地を勝ち取った。

それから間もなく、満州と朝鮮の利権を巡ってロシアと対立、日本の10倍の経済と軍隊をもつロシアに挑んだ。
そして同盟国イギリスの協力を得て、奇跡的な勝利をおさめたが、これは薄氷の勝利だった
そのため、清国から得たような賠償金は一銭も取れず、政府は国民の不興を買った、(余力があるロシアに対して、日本は破産寸前で戦争継続の余力が無かった)樺太の半分を受け取り、満州、朝鮮の権益を確かにしたにとどまった。
まさにこれを教訓に、昭和の戦争も最初の一撃の勝利の後で停戦に持ち込めばという考え方もあるが、それは無理だろう。
特にアメリカは負けたとも、日本を恐れたわけでもないし、真珠湾攻撃がルール違反の奇襲として、逆に反日感情を増大させてのだから、日本が停戦を持ち込んでも蹴ったであろう。

清国は日本に負けたことで一気に威信と国力を失った。
清国は満州民族が漢民族の国を武力制圧して作った国であったから、清王朝が弱ると漢民族の反乱などがおこって、ついに清王朝は滅んだ。
このどさくさに紛れて義和団の乱などに付け込み、日本、欧米各国は北京に兵を送り中国の主要な都市や港に権益を持つようになった。

日本は、日清戦争で勝ったことにより、清国の従属国家だった朝鮮王朝を解体して大韓帝国に改めさせた
さらに1910年には大韓帝国を解体して、朝鮮人に国家を運営する力が無いとし、日本帝国に吸収した、世界地図から朝鮮が消えて、それを世界も認めた。

朝鮮を手に入れた日本帝国は、さらに北の満州を思い通りにするため、傀儡国家の満州国を満州人に建国させて、清国の王子だった溥儀を初代皇帝の座に座らせた。

清国が滅んだあとの中国には漢民族の派閥がいくつか現れて、特に国民党蒋介石、満州閥の張作霖、ソ連で共産主義を学んだ毛沢東などが大きな派閥を作って、中国統一戦争を引き起こした。
満州の日本軍は張作霖をバックアップして、日本の都合の良い政権を作ろうとした。

満州の日本軍は関東軍といい、関東軍100万といって力を誇った
関東軍司令部は、次第に日本内地の指揮系統を無視して暴走を始めた。
盧溝橋事件などをおこして、内地の司令部の命令も無視して中国との戦争を始めた
挙句、味方だった満州で権力をふるう張作霖を暗殺してしまった。

こうして満州、朝鮮で巨大な力を得た関東軍は、さらに中国領内に攻め入った
アメリカやソビエト、欧州の強国はさすがに日本のやりたい放題を見逃せば、いずれ自分たちにも不利益が及ぶと考えて、満州に対して干渉してきた。
これらが原因の一つとなって、太平洋戦争、大東亜戦争が引き起こされる。
中国以外では、ソ連が一番の目の上のたん瘤だったが、日ソ不可侵条約を結んで、日本は対中国戦に、ソ連は対ドイツ戦に臨めるようになった。

明治維新から僅か70年ほどで、日本は世界を相手に戦争を始めた
ロシアや清国に対しては、わずか25年ほどで戦争をしたのだから驚きだ。

そして結果、日本は1945年に2発の原子爆弾を長崎、広島に落とされて、兵士および国民、およそ310万人を犠牲にして敗戦を迎えた。
310万人とはたいへんな人数だが、この戦争では中国人が1000万人以上、ソビエト人は2000万人以上も死んでいる
日本と同盟を結んでいたドイツも700万人以上死んでいる
国内が戦場にならなかったアメリカは亡くなったのは軍人だけで、およそ30万人だという(アメリカはヨーロッパ戦線と、対日戦線の両方に軍を送った)

あれ以来、今日まで78年間、日本は新憲法(連合軍によって作られた憲法)を守って対外戦争をしていない
しかし安倍、岸田政権の今、にわかに戦争ムードが高まりつつある感じがする
ウクライナ戦争、台湾の危機を例に挙げて、我が国も同様な環境にあると訴える。
世界的にも国防費の大幅な増額が論じられるようになったし、ドイツや日本も既に増額を実行に移し、さらに増額の予定だ。
当然ながら戦争当事国のロシアや、ますます巨大になる中国も莫大な国防予算の増額を実行している。
ここまでくると疑心と暗鬼で軍拡競争はますますエスカレートするだろう。

世界終末時計と言うのがある、午前零時を核戦争などによる人類の終末時間と定めて、今現在が何時何分何十秒であるかを示す時計だ。
これによると2023年1月の発表では23時58分30秒、即ち人類の終末まで、あと90秒に迫ったと言う。 1年間で10秒縮まったそうだから、この割合で行けば2032年に世界は終わる計算になる。
1月から7か月過ぎた今は、1月よりもっと危険度が高まっている気がする。
それは単に戦争危機だけでなく、環境破壊なども含まれるそうだ。
世界中で頻発する山火事、ここ数日ハワイでもアメリカ史上最悪の山火事被害が発生している。
マイクロプラの危険性もしかり、われわれの周囲ではどれだけのプラが使われて、どれだけが回収されているか
プラの中に埋もれて暮らしていると言っても良い
海岸清掃に行くと、どれだけプラごみがでているのか驚く、既に海の中に浮かんでいるプラごみも多い
これが砕けて、魚や鳥の内臓に入り込み、それを人間が食べて吸収する
まさに天に唾を吐いて、自分にかかる如しである。
終末時計はこれらも含めて進んでいるのだ。








8月15日 78回目の終戦の日

2023年08月14日 14時17分42秒 | 時代検証
昭和20年に数え20歳の人たちが最後の招集兵だったと思う
だから1926年頃の生まれだろうか
今も生きていれば満97歳、正規兵でもっとも若い兵隊である
もう全国で60数万人だけになったとか。 戦場での戦争体験を語れる僅かな人々である。
だがそれより下には、志願兵と呼ばれる少年兵たちが居た1930年生まれ位から上の人たちである。
この年代だと100万人以上はいると考えられるが、あくまでも志願だから、この年代の一部でしかなかったろう。
ともあれ、戦場で戦った人たちは、この年代であり90何歳から上の人たちである。

戦争を体験した人となれば、もっと多い、赤ちゃんは別とすれば1940年生まれより前の人は、戦争中の日本を体験した記憶を持っているだろう
おそらく1000万人以上はいると思われる。
幼児、小学生、中学生で戦争を経験した人たちだ、もちろん満州や中国などで体験した人たちは悲惨な体験をしているはず
また空襲を受けた都市に住んでいた人たちも逃げ惑う悲惨な戦争を体験した
田舎で暮らしていた人たちは、戦争の空気感だけで済んだかもしれない。
だがそこから出征して戦死した兵士の家族だったかもしれない。
こうした戦争体験をした人たちは年々減っていくわけで語り部は少なくなるばかりだ。
団塊世代前後の人たちは、兵士の子供が多いはず、父親や母親から戦争の体験話を聞かされた人も多いだろう。
われわれは語り部二世として伝えていく責任(ではないが)があるのではないだろうか。

なぜ日本が戦争をしたのか? 
それは「こんな理由だったから」などと一口で言えることではない
様々な国内事情や国際関係が重なって戦争になったのだ、今だって同じだ
自国の言い分もあるし、敵国の言い分もある
だからここでは戦争になった原因や理由は書かない、そもそも正確なことを私が知っているわけもない
親や親世代から聞いた話、あとは体験談の本などから知ったことくらいが私の知識だ。

大東亜戦争か、太平洋戦争か?とたまに論議がおこる
東亜とは「東アジア」という意味だろうから、「東アジアでの大戦争」という意味なのだろう。
一方、太平洋戦争は「太平洋を戦場とした戦争」という意味であろう。

東アジアとは中国、日本、朝鮮半島、満州、ソビエト沿海州
一方、アメリカが主たる敵である戦争の太平洋戦争は、日本に対する経済封鎖の親玉である世界一の経済大国がいよいよ英仏蘭に味方して、日本との戦争が避けられないことを知って、正面からの戦いを避けて、ハワイの真珠湾米軍海軍基地を先制攻撃したことで戦争が始まった。
東亜戦争は日本から見た主なる敵は中国共産党軍と中国国民党軍であろう、いわゆる日中戦争でこれはアメリカを相手とした太平洋戦争より何年も早くから始まっていた(日支事変)(満州事変)

東亜戦争の他にもインドシナ半島(今のベトナム、ミャンマー、カンボジア、インド、ラオス、シンガポール、マレーシアなど)でも日本は戦争を行っていた
当時、フランス、イギリス、オランダなどの植民地となっていた国々をアジアの同胞として、日本が欧米の植民地から解放することを目的とする戦争とも解釈できる(聖戦ということだ)
そして解放後は日本を中心として東アジア、東南アジア諸国を一つの大きな経済圏として共に繁栄すると言うアジアは一つ「八紘一宇」の思想を持っている。

だから太平洋戦争と大東亜戦争は日本から見れば一つの戦争であるが、実態は違う場所で違う国としている戦争だったと言える。
ひとくくりにはできない、実際終戦の時、アメリカと戦争していた軍隊は敗戦を認識したが、中国で戦っていた兵隊は日本が負けたことが信じられなかったと言う話を聞くことがある。

これで日本は太平洋のアメリカ、オーストラリア、大陸の中国、東南アジアからインドネシアの英仏蘭印との戦争、三方面戦争を始めてしまったのだった。
アメリカ一国だけでも日本の10倍以上の経済力と軍事力、生産力を持っているのだから、まさに一か八かの神頼みの無謀な戦争であることは識者ならわかっていただろうと思う。

しかしハワイ攻撃の大成功、シンガポール陥落、有利な中国戦線、イギリスが誇る大戦艦プリンスオブウェールズ、戦艦レパルスを一方的に撃沈
ビルマ陥落、インドネシアの解放と進駐、フィリピン占領と勝利が相次いで、日本人全てが舞い上がったのが、戦争を辞めるチャンスを逃すことになったのだと近年言われている。
「勝っている戦争を、こっちから『やめましょう』などと言うバカなことがあるか、負けてる敵に頭を下げさせろ」という雰囲気である。

結局、その経済力と生産性の差は、互いに軍艦や武器を大量に消耗しだした昭和18年頃から顕著になって行く。
日本が飛行機1機作る間に、アメリカは10機、20機と作る、日本が空母1隻作る間にアメリカは10隻も作ってしまうこの差は決定的だ。

更に19年には弾丸や砲弾、大砲、飛行機を作るにも鉄やアルミ、ゴムなどの材料が無く、燃料の油も底を尽きだして、敵の飛行機が日本に攻め込んできても迎え撃つことが出来なくなってきた。
原料不足を補うために鍋釜はもちろん、寺の釣り鐘まで国に納めたと言う

それで20年に入ると、アメリカの爆撃機は日本の飛行場を襲って航空機を破壊し、滑走路を破壊した
更に航空機や武器生産の工場を集中的に爆撃して、戦地に飛行機や武器がいかないようにした。

日本の自慢の軍艦も燃料が無く、瀬戸内海などの入り江の奥に身をひそめ、本土決戦に備えて航空機も掩蔽壕に隠して飛び立つことはなかった。
そして日本の空がほぼ安全と見たアメリカ軍は、いよいよ東京、大阪などの大都市への無差別爆撃を行い、都会を焦土とすると今度は地方都市を爆撃を始めた。

太平洋の小さな島の守備隊は次々にアメリカの大兵力の前に玉砕(全滅特攻作戦)を続けた。
父は東京でB29やムスタングP51、グラマンなどを相手に前線で戦っていたし、両親をアメリカの爆撃で失ったが、この玉砕や特攻作戦については「しなくてもよいことだった、ここまで行けば国はバンザイ(降伏)するべきだった、死ななくてもよい若者を大勢無駄に殺してしまった」と言った。

招集兵は通常20歳で通知が来て兵になる、だから昭和20年に20歳になった人までが正規兵であるが、敗戦濃くなり、兵の戦死が大量になると、15歳くらいから志願兵を募集し始めた、そして俄かパイロットを作って、片道燃料の飛行機に爆弾をつけて敵艦に体当たりせよと命じた。

アメリカ兵をやっつけるぞ!と勇んで行った少年たちを待っていたのは、「明日死ね」という命令だった。
少年兵はどんな気持ちであったろうか、今の人間は無駄死にだとか、なぜ嫌だと言えないのかなどと言う
しかし、それは今、平和な時代に不自由なく生きている我々が今の価値観で言っていることなのだ。
私も、高校生や30代くらいまで父に、「なぜ・・・」という疑問を何度かぶつけたことがある。
その時、父は悲しそうな顔をして「俺たちのしてきたことを、ああだこうだと批判するのは辞めてくれ」と言った。
平和な時代に言いたいことを自由に言って、正論だと正義面している息子に何をどう説明しても、今死ぬかもしれない戦争の渦中での経験と思いを、お前に理解できるものかという思いだったのだろう。
確かに、この戦争の中にわが身を置けば、今思っている考えは吹き飛ぶであろう。

孫子も冒頭で、「戦争は生産性が無い消耗だけの究極の無駄であるから、侵略戦争など論外で、身に降る火の粉を払う以外はしてはならないことだ」と言っている。
だが、世界の指導者は、聴く耳を持たない、ああだこうだと言い訳して正当性を訴える、わが身に火の粉が降りそそいでいるから、その敵を攻撃するのだと言い張る。
今日も世界で戦争は続いているし、今も兵士や国民が死んでいるのだ。