神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉓

2021年03月06日 18時56分31秒 | 光秀の本能寺
上杉と一揆が攻め寄せる前に柴田勝家を見捨ててさっさと敦賀に戻った秀吉軍
しかし府中(武生)に前線を置き、鉄砲1000挺で厳重に警備していた
秀吉の本隊は金ケ崎にて戦闘態勢を維持していた、本貫地の近江長浜にも兵を集め、更に配下の丹波衆を小浜に呼び寄せて万全の迎撃態勢を整えた
若狭を本貫としている丹羽長秀は織田信忠に安土城の守備を任されてこの地を留守にしている
結局3日経っても上杉勢は攻め寄せてこなかった、秀吉の元には次々と知らせが入ってきた
秀吉が思ったとおり上杉勢は越前を去って加賀まで退いた、おそらくそのまま直江兼続は越後へ戻るであろう
しかし越前の北部には未だ一向一揆勢がかなりの数で付近を制圧しているとのことであった
秀吉はただちに命令を下した「一揆の者どもを越前から追い払え、だが加賀までは深追いしてはならぬ」
1万の軍勢はたちまち一揆勢を加賀まで追い払った、こうして北陸はとりあえず平穏が訪れた
上杉は越中全土と加賀の東部尾山までを領地として加え、加賀の西部と能登を一向門徒の一揆勢の国として認めた
但し七尾城から阿尾、氷見越中までの海岸線は上杉領とした
越前は全土を秀吉が完全制圧して配下の武将を各城に配置した。 そして秀吉は休むことも忘れて次の行動に移った
(遅かれ早かれ、わしが勝家と市様を見殺しにしたことは織田宗家の耳に入るであろう、しかし信忠は徳川との戦でどうも出来まい
ここで又左《前田利家》と丹羽様を味方に引き込めば織田家の命運は尽きるであろう、信長様には恩を受けたが子供らには義理などない
又左は一も二もなくわしの元に来るであろう、丹羽様はわしと違って義理と恩を忘れぬお方じゃから信忠の失策が必要となろう)

前田利家と秀吉は下級武士の頃から武家長屋で隣同士で暮らした仲だという
秀吉の妻、禰々と利家の妻マツも大の仲良しであった
府中で3万石の大名に取り立てられた利家は信長の命令で柴田勝家の与力(軍団長の配下に属する小大名)となった
しかし柴田勝家は上杉勢に敗れて自害した、利家は徳川攻めの応援で尾張に行っていたので難を逃れた

さて岐阜の織田信忠の心中は複雑であった、徳川家康との戦いであれこれと考える事が多いのに、柴田勝家が討ち死にしてしまった
幸い羽柴秀吉が越前を取り返したのでひとまずは安心したが、越中、加賀、能登を失った
しかし勝家が死んだのは羽柴秀吉の裏切りだという噂も耳に入っている、どういうことなのか? たしかに二人が不仲である事は知っている
それにしても叔母にあたる、お市様まで見捨てられたことになる、それが事実なら秀吉を不問というわけにはいかない
だが徳川との戦が始まった今は秀吉にかまっているわけにはいかない
信忠は何が何だかわからなくなってきた、全てを放り出したい気分であった
そんな時、三河で信孝が敗れたという報せが入った
岡崎城と徳川家康のいる浜松城を分断しようと迂回させた滝川一益の8000の部隊が、徳川の新進気鋭の若武者井伊直政と無敵の本多忠勝の部隊に
急襲されて壊滅状態になったというのだ、滝川一益は、ほうほうの体で信孝の元に逃げ帰ってきた
織田信孝は怒った、そして力攻めで何が何でも岡崎城を攻め落とすと言って、多くの犠牲を払ってついに二の丸まで攻め寄せた

ところがあろうことか宗家の織田信忠が弱気になったのか?徳川家康に和議の使者を送ったという
驚いたのは織田信孝であった、あと一息で岡崎城を攻め落として三河を制圧するところまできたのに頭越しに和議とは!
同様に徳川攻めに参加している織田家の武将たちも驚いた、重臣にさえ相談せずに信忠が徳川と和議交渉を始めたのだ
まず最初に動いたのは島左近であった、左近は今やかっての主君であった筒井順慶に並ぶほどの大名になっていたが失踪した
織田信忠を見限ってひとりでいずこかに消えてしまったのだ
そしてなぜか忠義に厚いはずの前田利家も3000の兵を率いて戦場を離脱して長浜に向かって行った

徳川家康は織田家に乱れが生じたことを敏感に感じ取った
本多作左衛門、酒井忠次などの老臣たちも「和議などとんでもない、今こそ尾張を攻め取る絶好の機会ですぞ!」
せっかく二の丸まで攻め込んだ信孝勢も滝川の敗北、信忠の愚かな行為に失望して一気に戦意が消えてしまった
それを見透かしたように岡崎城将の鳥井元忠はここぞと逆に攻めかかった、同時に外からは援軍の石川数正の本隊が攻め寄せた
織田勢はたまらず逃げ出した、そして安城城も置き去りにして清洲城目指して落ちていった
三河から安城、刈谷はもとより大高、鳴海までかって信長が桶狭間で今川義元を討ち取ったラインまで徳川勢が占領したのである
腹の虫が治まらないのは織田信孝であった「信忠め血迷うたか、もはや織田宗家の主の器ではない、わしがとってかわらねば織田家は滅びる」
信孝の敵は徳川ではなく矛先は岐阜の織田信忠にむかった










光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉒

2021年03月05日 19時06分57秒 | 光秀の本能寺
⑯から⑱に飛んだ気がするのですが確認する気力が無いので、まあいいとしておきましょう

で...北陸では柴田勝家が大軍で逆襲に出て、上杉軍の謀将直江兼続軍を高岡城から追い払って追撃中
そこに突然、山の手から思いもしなかった明智光秀の旗が....これには勝家も驚きました
柴田勝家と言う人はいまや織田家になくてはならぬ忠義の老臣、憧れのお市様と結婚して1年、今が幸せの絶頂期
だが過酷な戦場で暮らすことが多くてなかなか、お市様とラブラブと言うわけにはいかない
お市様は言わずと知れた織田信長の妹で美人とされている、政略結婚で近江(滋賀県)小谷城の浅井長政に嫁いで娘3人と長男を産んだ
ところが信長が協定を破って、浅井の同盟者越前朝倉家を攻めたので長政の父浅井久政が怒って織田を攻めた
それで結局、浅井も朝倉も信長に攻め滅ぼされてしまう、そして長男満福丸は伯父さんの信長の命令で殺されてしまう
その命令を受けて串刺しにして殺したのが秀吉の軍であったからお市様は秀吉を生涯の敵とみなしていた
ゆえに秀吉嫌いの柴田勝家に嫁いで復讐を期していたかもしれない
お市様から見たら勝家は頼りになる武将だが家来筋で老人だ、心から喜んで一緒になったわけではないけれど寡婦のままともいかない時代だったかも

柴田勝家は表裏の無い男らしい人であった、若いころは信長の弟が信長と戦った時、弟側について信長と戦った男だ
その後許されて、以後信長に忠義を貫き、ついに信長の一の重臣として重宝されて北陸軍団長を賜った
秀吉が得た近江の国と勝家が得た越前の国は当時どちらも豊かな国だったので
他の重臣の明智光秀、丹羽長秀、滝川一益より兵数が多かった
それで今も勝家と秀吉は二大巨頭として織田家のライバルなのだ、一説には秀吉もお市様に気があったと言われるが秀吉は年増の(失礼)より
20代そこそこの妾妻の竜子の方がずっとお気に入りなのだ

尾張でもいよいよ織田の大軍が織田信孝を大将に徳川家康の三河に攻め入った
そして岡崎城を取り囲んだ、岡崎城を守るのは鳥居元忠、家康が今川の人質の時代から付き添った股肱の臣である
勇猛果敢な三河武士に信孝軍は攻めあぐねた、三河軍団は1万、いくつかの城に籠って、時には織田軍の後方をつく
こんな状況で織田対徳川の戦いは行われていた

さて北陸では勝家軍が明智らしき軍団に向かって進んだ、二万のうちから3000ほどを向けた
明智勢は500足らずだが高台から鉄砲を撃ちかけてきた、勝家軍は盾を先頭にじわじわと進みやや広い谷筋に入って止まったそして鉄砲で応戦した
谷は狭くも広くもなくおよそ5列縦隊で進める広さだ
先鋒の500ほどが最前線で、次いで500とじわじわと攻め寄せた
谷筋が少しずつ狭まってきた、明智方も次第に押されてじわじわと後退していく
勝家隊の中ほどの数百は左岸の緩やかな崖を上り始めていた、上と下から挟み撃ちにしようという算段だ、明智勢の正面とは300mほどしかない
そのとき突然上流から川水がどっと流れ出してきた、鉄砲水のように濁流が勝家軍を襲った
あわてて左の崖に上がった、ところが尾根から鉄砲と弓矢がいかけられてきた岩も落ちてくる
勝家軍は大混乱になった、鉄砲水に押し流されて勝家軍の兵は押し流された、中流の軍も腰まで水浸しになって後退を始めた
かなりの人数が討ち取られたが、やはり柴田方は数で圧倒している、柴田方が平地に戻ると明智勢は足を止めて陣形を整えた
そして勝家の軍は何事もなかったかのように前方の上杉軍への攻撃を再開した

川を背にして上杉軍は死に物狂いで戦っていた、とにかく前に進むしかない
何度も柴田隊と正面で戦っては引いた、その都度兵の数は減っていく、しかし柴田隊の方が犠牲者は多かった、とはいえ柴田の方が倍以上の兵力だ

「殿、ここらが引き時では」と直江兼続の家臣が問いかけた
「ふふふ、間もなく来る 待て」
「・・・?」
突然、柴田軍の後方から軍団が押し寄せてきた
「どこの隊だ?」高岡城から出て指揮を執っていた柴田勝家が側近に聞いた
「さて? 丹羽殿の援軍では?」
「ばかな、五郎左に、そのようなことは頼んでおらぬ」
ところが数千の軍団は後方から柴田勢に襲い掛かってきた
「なんだ! 上杉か?」
「景勝の軍がきた?」どこの敵かわからないので柴田軍は本陣から混乱が始まった
「今ぞ!押し出せ!」直江兼続の声を聞いて耐えていた上杉軍が一斉に突撃を開始した
同時に明智隊らしき500ほどの一隊も山裾から駆け出して退却を始めた柴田隊の先鋒に横槍を入れた
「一揆だ! 一揆が攻めてきた」悲鳴が上がった
後方から来たのは加賀や能登から集まった一向一揆の軍団だった、信長に徹底的に殲滅された一揆勢が再び集まってきたのだ
これは直江兼続の作戦であった、倶利伽羅峠で堅い守備を保ち、柴田勝家の本隊を待っていた柴田勢は破りがたかった
それで勝家が到着すると多勢に無勢と庄川まで下がって見せた
しかし隠れていた一向一揆の大将と上杉は取引をした、能登を一向一揆の国と認めることと引き換えに援軍として柴田を攻める
「われらには領土的野心はない、ただただ義の一文字にて戦うのみ」
一揆勢は承諾して立ち上がった、加賀能登に潜んでいた者たちがたちまち集まってきて5000もの大軍になったのだ

三方から攻められて柴田軍は一斉に逃げ出した、もはやこうなると2万の大軍も統率が取れず高岡城も捨てて加賀を目指していく
それでも援軍として参加していた森長可は「それがしが、しんがりを承る、早々に落ちられよ」と柴田勝家に言った
「かたじけない、また加賀にて会おうぞ」乱戦の中、勝家は落ちて行った
そして間もなく森長可は500の兵と共に奮戦のしたが力尽きて全滅した
一揆勢と共に直江兼続は柴田隊を執拗に追っては撃ち殺して進んでいった、あの明智の旗をかざした一隊は信州からの援軍真田軍1000であった
明智の旗で柴田軍を驚かして燃え盛っていた火に水をかけたのだった、柴田勝家はまんまとこの策に引っかかってしまった
戦争は数ではない、士気が大切なのだ、一度逃げ腰になると鳥の羽音に驚いて逃げ出した富士川の平氏の如くであった
逃げ道の途中にはいくつもの大河があり、その都度追いまくる上杉勢によって柴田の勇者は討ち取られていった
いつしか柴田勝家もわずか数十騎を従えるのみとなった、そしてようやく加賀と越前の国境、手取川までたどり着いた
ここで落ち延びてくる兵をまとめようと考えた、そして北の庄にいる羽柴秀吉軍に出陣を促す使いを出した

北陸の現状は以下の通りだ
柴田軍団の中核、前田利家は徳川攻めに引き抜かれてここにはいない、柴田勝家は2万5000の大軍で高岡まで攻め上ったが敗れた
そして今、手取川でまとめた兵は3000に満たない
川の向こうには追ってきた上杉と一揆勢が15000が疲れも知らず攻め寄せようとしている
ここから間もない北の庄には味方の羽柴秀吉が1万の軍を率いて軍営を構えている
まだ戦っていない羽柴勢の精鋭は勝家にとっても頼もしかった
そして使者が北の庄で秀吉に援軍を要請した、ところが秀吉はこれを蹴った
「いまさら何を申すか、若狭で昼寝をして居れと申したのは勝家殿ではなかったか、わしはこれより若狭に戻って昼寝をするのじゃ邪魔をするな」
そういうと1万の全軍に命令を出した
「柴田殿の御命令でわれらの役目は終わった、これより敦賀まで引き上げることにする」
そして使者に言った「柴田様も川でこらえるより城に入った方が守り強いのではないか、そうそうに城に戻られるよう申し上げよ!」
秀吉にとって、足元が浮き出した柴田も織田信忠も怖くはない、いまや自ら天下を狙う気持ちが大きく膨らんできたのだ
(おそらく尾張も終わりであろう、戦上手の徳川殿に勝てることはあるまい)
秀吉が立ち去った後、赤鬼の形相で柴田勝家は北の庄城に落ちてきた、その兵数は1500ほどであった
上杉勢と一揆勢は25000に膨れ上がり、越後からも柿崎勢が5000を引き連れて応援に来た
取り囲まれて3日目に最後を悟った柴田勝家は城に火をかけ火薬を爆発させてお市と共に死んだ

三人の娘は秀吉軍が若狭に立つ前に、お市によって秀吉に託されて無事であった、お市にとって大嫌いな秀吉に頼むことは屈辱であったろう
それでもまだ若い娘たちを一緒に殺すことは忍びなかったのだ
そしてこの三人の娘は長女茶々は秀吉の愛妾となって跡継ぎを産み、二女の小督は京極高次に嫁ぎ、
三女の江は後に徳川2代将軍秀忠の正妻となって三代将軍家光の生母となる












光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉑

2021年03月01日 18時43分58秒 | 光秀の本能寺
1583年7月と同時に羽柴秀吉の軍は毛利軍と呼応して一気に四国へ攻め込んだ
淡路島からは羽柴秀長軍が仙石久秀と三好が案内して阿波(徳島)へ5万の軍でなだれ込んで長曾我部の兵が籠る小城を次々に落として土佐に迫る
毛利水軍を先導に毛利の小早川軍は伊予(愛媛)に上陸した、伊予は四国では最も豊かな国である、秀吉は惜しげもなく毛利に任せると言った
だから毛利軍の勢いは強かった、次々と小城を攻め落とした
備前の宇喜多軍も瀬戸内海を渡って讃岐(香川)に攻め入った、長曾我部は全軍あげて戦ったが総勢2万を三方に分けての戦いだから守戦一方で9月と同時についに羽柴秀長に降参を申し入れた
秀長は明智光秀を差し出せと迫った、しかし明智はすでに船で徳川家康を頼って行ったことを知った
さすがの秀吉も明智が海から三河に逃げ込んだことは知らなかった
「光秀め、やはり気働きの名人じゃ今度ばかりはやられてしまったぞ! しかし家康も目ざとい、おそらく光秀の利用価値を見つけたのだろうよ」

伊予一国は毛利が受け取った、備中も返した
讃岐と淡路は宇喜多に与えた、阿波を仙石に
土佐は蜂須賀に10万石、赤松に2万石、三好に3万石
残りは功労あった者たちに分け与えた

長曾我部には明智を匿った罪は重いが信長に恭順したにも関わらず攻められそうになって身の危険を感じた抵抗であり、あっけなく降参したことで
秀吉からの印象は悪くなかった、信忠は領地没収の上、安土に連れてまいれと言ったが殺すであろう、秀吉は独断で元親を姫路に護送した、そして播磨の内で5万石を与えた
人質として嫡男の盛親は秀吉が河内へ送り3000石を与えて旗本に取り上げた
こうして秀吉は毛利を除いても四国で新たに50万石分の家臣を得たことになった、信忠にこれを献上する気などもはや秀吉にはなかった
信忠からは秀吉に四国戦勝利の祝勝会を安土で開催するので長曾我部元親を連れてまいれとの使者がやってきた
けれど「四国は未だ安定せず、意外にも毛利も伊予に攻め込んできて占領したので、その対処に忙しく年内に戻ることはかないませぬ」
そう言って使者を返した、もちろん戦利品はたっぷりと持ち帰らせた
そして秀吉は、明智光秀が徳川家康に匿われていることを信忠に伝えた
(これで信忠殿は、どう出るか楽しみじゃ このまま静かになってもらってはわしが困る)

秀吉が四国を攻めたと聞いた時、家康はいよいよ織田との決戦を覚悟した
信孝と信忠を争わせようと考えていたが秀吉にまんまと見破られてしまった
信雄と光秀という反信忠を二人も抱え込んでしまったからには、さすがの信忠も黙ってはいまい
そして危惧は現実となった、織田の動きが慌ただしくなったという報告が家康にもたらせられた
尾張には続々と織田方の大名が集まってきた、滝川、蒲生、筒井、堀など畿内、近江の兵
柴田の越前からも前田利家と金森が呼ばれた、信忠は岐阜で指揮を取り、安土には丹羽長秀と軍団を守らせた
秀吉の与力の池田、高山も尾張に呼び寄せた、そして対徳川の総大将は織田信孝とした、前線の総兵力は6万
岐阜の本陣は25000、安土の丹羽軍団は15000、それに海からは九鬼水軍が3000
対する徳川は三河軍団1万、本隊遠州軍団15000万、駿河軍団1万

そして信忠から秀吉に安土に行った丹羽に代わり若狭から越前に兵を出すべしの命令が下った
秀吉は自ら2万の軍を率いて越前に向かった、そして柴田勝家に着任の挨拶をするべく訪ねた
しかし勝家は「秀吉!うぬの助けなど無用じゃ若狭で昼寝でもして居れば良い」と相手にしなかった
秀吉は顔色も変えず勝家に言った
「われらは後詰として上様からの命で来たまでの事、さればわれらは北の庄にて待機いたすから、柴田様は心置きなく上杉と戦うがよろしい」
「猿! うぬの指図は受けぬ、黙って北の庄で控えておれ」
相変わらず秀吉と勝家の仲は険悪である

秋の収穫が終わった10月、織田軍は北陸と尾張で一気に攻めに転じた
勝家率いる25000の織田軍は1万の上杉に攻めかかった
多勢に無勢、上杉軍はじりじりと後退した、高岡城を捨てて庄川を背に背水位の陣で向かい合った
勝家の軍は一斉に攻撃を始めた、圧倒的な兵力で上杉方の備えを一段、二段と破っていく、その時上流で勝どきの声が聞こえた
勝家はその方向を見た、そこに見たのは信じられない光景であった
「あれは....光秀」桔梗の紋が付いた旗印はあきらかに明智光秀の旗印であった
「おのれ!光秀」勝家の目の光がまたステップアップした
いまや敵は目の前の上杉軍ではなく、上流の明智軍であった、ここで光秀をとらえるなり殺せばこれは最大の勲功となる
「進め、光秀を捕らえよ」
勝家の軍団は桔梗の旗をめがけて進みだした











光秀謀反の本能寺 なーんちゃって⑳

2021年02月26日 19時02分41秒 | 光秀の本能寺
もう5月と言うのに徳川の怪しい動きは全くみられない
攻め込んでくるという噂が流れたのは3月の事、それで織田信孝も防御、あわよくば攻め込む準備をしていたのだが
信忠からは先に手出しをしてはならぬと難く言われているからうかつに動けない
後詰をもらわない事には徳川には単独で勝てるわけがない、それで静かにしていたのだが、その宗家の調子がいまいちよろしくない
信忠になってからは北陸では負けどうしだし、四国攻めもすっかり影を潜めたし
羽柴秀吉にしたって毛利との戦いに進展が見られない。 信長なら怒って更迭するかもしれないが信忠は何も言わない
織田宗家自体が全く覇気のない集団と化している気がしてならない、自分自身ももはや徳川に対峙する意味があるのかもわからなくなった
攻めの織田が守りの織田になった感がある、これも信忠が悪いのだとこの頃思う

そんなおり突然に徳川から使者がやってきた、信孝自ら接見した
「織田様にはいろいろ誤解があるようです、わが主の家康は決して信孝様に敵対するものではありません
たまたま信雄様が織田家中の争いでわが徳川を頼ってこられたので、匿ったまででございます
「だが信雄は宗家に対して弓を向けた謀反人じゃ、織田家のことは織田家で処理するのはあたりまえ、徳川殿の関わる所ではないはず
即刻、信雄を渡せばわれらもあえて徳川殿とことを構えるわけではない、すぐにひきわたすように」信孝が使者にせまった
「信雄様は実は出家されて今は駿河の寺におられます、信長様のご最後をあらためてお考えになったようで『武家はもう嫌だ』と申されての出家だとか」
「なに!信雄が坊主になっただと? 信じられるものか、あの欲深き男が俗世を捨て去るものか」
「だが事実でございます、二度と美濃、尾張の地は踏まぬと申されました」
「信じられぬ、信雄自身の口から聞くまで信じはせぬぞ」
「そのようなご希望であれば日取りを決めて岡崎でお会いできるよう取り計らいましょう、重臣のどなたかを派遣して頂けば信雄様とお会いして頂けます」
「ふむ そこまで申すなら今日は譲っておこう、追って日を知らせる」

「信孝様、実はもっと重要なお話があります」
「なんじゃ?」
「駿府に明智光秀殿が来ております。わが殿は信孝様にだけお知らせしろと」
「なんと!なんと申した? 光秀と申したか」
「さようでございます、謀反人明智でございます」
「それは信雄どころではないわ! すぐに引き渡してもらおう」
「明智を捕らえていかがいたします?」
「知れたこと、この手で成敗してくれよう」
「かってに殺したとなれば果たして信忠様はいかように思われますかな?」
「わしの手柄というであろう」
「それで?」
「仇討ちじゃ、それで父上も浮かばれるというものだ」
「光秀の価値はそれだけでございますか? ならばお渡しできませぬ」
「なに?」
「今の織田宗家を見るに頼りにないましょうや? 越中を上杉に取られ猛将と恐れられた佐々殿、佐久間殿いずれも討ち取られました
柴田勝家殿の采配にも陰りが見えております、また宗家も信濃、飛騨から上杉を討ちに行くべきが動く気配がありませぬ
もしかして宗家は病んでおられるのでは? 心の病でござる」
「たわけたこと! 余計なお世話だ」
「信孝様が宗家を引き受けるべきでは?」
「何を申す!わしは光秀のような謀反人にはならぬ」
「いいえ強きお方がお家の大事を守るのは当然のことでは」
「黙れ!出過ぎた真似を」
「ははー承知、われらはこれにて戻りますが、明智の事くれぐれも宗家には口外なさらず、いかにするかは信孝様がお考え下さい
場合によっては光秀は信孝様にお預けすると主は申しております」

信孝に光秀の存在がのしかかってきた、家康は殺すだけならば渡さぬと言っている、光秀を生かして使えと言っているのだ
(そんなことができるのか? 信忠は許すまい、だが殺したとてそれだけの事、どう使えというのか?)
信孝はどうしてよいかわからなくなった、唯一わかったのは徳川家康は自分には好意的だということである
そして信孝に暗に織田宗家の主になれと囁いている(いやいや、これは家康の悪だくみだ、われらを分裂させて漁夫の利を狙っているのだ)
信忠の体たらくと、家康の悪だくみ、どちらに重きを置けばいいのか信孝は判断しかねて目が回ったような気がしてきた
(余計なことをしらせてきたわ宗家には言ってはならぬというし、だが知ってしまった以上、内緒にしておくわけにもいくまい
だが言えばわしに命が下るであろう、徳川の最前線にいるのだからのう、だが単独で勝てるわけがない、宗家は援軍を出すか?
そうだ宗家の腹を探るのが最初だ)

数日後、信孝は織田宗家に使いを出した
「徳川に不穏な動きがある、われらは万一の時には真っ先に攻めかかるは必定であるが徳川勢は我らの数倍である
その時には宗家から万余の後詰を願えるのであろうか?」
しかし宗家の返事はそっけないものであった
「今北陸での戦は余談が許せない状況である、能登を奪われた以上、加賀も危うい、加賀を万一奪われたなら上杉は飛騨から一気に
美濃に攻め込むやもしれぬ、すでに丹羽長秀に命じて後詰として若狭、丹後の衆を越前に送り出したところだ
徳川勢も尾張、木曽から美濃を伺う気配がある、尾張は信孝と滝川で守り、美濃と近江の与力は木曾口に備える
手薄になった近江、丹後には羽柴の丹波勢を増援しているところである、信孝もわれらを頼らず必死の心がけで徳川を防ぐべし」

その頃、河内では秀吉黒田官兵衛が語っていた
「ふふふ いずれ近江の旧領を勝家から奪い取るつもりであったが、まさかむこうから転がり込んでくるとはのう
それもこれも勝家が越中でふがいない戦をしておるからよ」
「まことに運は天から降ってまいるのですなあ、かって信長様も加賀の手取川において上杉謙信公に手痛く痛めつけられたことがありました
あの時の大将も勝家でありましたなあ」
「ははは あの時は勝家のおつむの軽さが見えていた故、わしは信長様に無断で越前から引き揚げた、命がけであったがの」
「あの戦の話を聞いたが、まさに上杉謙信公は龍神の如く織田方をなぎ倒したとか、あの甲斐の虎と言われた武田信玄公さえ
正面からは決して謙信公と戦うことがなかったと申します、だが養子の景勝は凡将と聞きましたが軍師の直江兼続と言う男がなかなかのようで
此度の越中での大将は兼続だということです、とても柴田様ではかなわぬようですな」
「謙信公が兼続の若き時から目をつけて育てたということじゃ、あのような田舎にも立派な武将がいるものじゃ
わしは兼続をほしゅうてならぬ、上杉景勝も堅物で謙信公の言いつけをかたくなに守って領土拡大の欲はないと聞いておる
義に厚いのは越後人の特長やもな、案外たやすく景勝はわしと手を組むやもしれぬぞ、そのためにも柴田には犠牲になってもらうぞ」
「御意!」

織田信忠は越前、加賀の防衛線を固めるため戦線を押し上げようとしていた
倶利伽羅峠を防衛線として能登の猛将長連龍を大将に
また羽咋から河北にかけては前田勢が配置された
そして加賀尾山には柴田勝家が2万を率いて入り不破、金森などを配置した
そのため越前は手薄になったので北の庄城に長浜城から柴田勝豊が城代として入り、その補佐として若狭の丹羽長秀の家臣が付いた
信忠は、今やもっとも無傷で巨大な軍団となった羽柴秀吉を頼りにするしかなくなった、中国戦線の膠着をむしろ良しとして
秀吉軍を招いて近江の防衛を厚くしようと考えた、長浜城を柴田から返させて再び秀吉に与えた、秀吉はそこに羽柴信勝を入れた
安土城代は蒲生秀郷、膳所には島左近、最近坂本も得たらしい、いまだ安土天守が完成しないので信忠は岐阜城に入っている
蒲生は日野、甲賀、伊賀を領地として信忠の旗本の地位を固めている、秀吉にとって蒲生は扱いづらい者に見える
堅物だが、融通が利かぬわけではない、にこりともしない、妥協しない、思ったことはズバッと言う(いましばらく様子を見てみよう)
そして左近評は「島左近は変わり者よ、あやつは煮ても焼いても食えぬ」
いずれにしても秀吉は近江長浜、丹波、山城、河内、和泉、播磨と広大な領地を得ている、さらに備前50万石の宇喜多家も秀吉の手のうちである
言うまでも無いが池田、高山らの摂津衆は秀吉の与力大名である、淡路の仙石もすでに秀吉に従っているに等しい
今動かそうと思えば5万の兵を動かすことができる、堺から得た武器弾薬は織田家随一だ、さらに豊富な軍資金もある

ここで秀吉は勝負に出た、信忠に直訴した
「上様、北陸の戦況は芳しくありませぬ、失地も多くなり尾張境でも徳川勢に怪しい動きとか...
守りも大事でありまするが、減った分は増やすべきかと..上様、拙者の軍だけで結構です、光秀が潜む四国攻めをぜひおまかせ願いたく」
「なんと! 勝算はあるのか」
「おまかせあれ! 3ヶ月内には阿波、土佐を平定して長曾我部と光秀を上様の御前にひざまずかせてみせましょう」
「うむ! そなたならできるかももしれぬ よし許そう」

秀吉はすぐに手を打った、毛利の軍師安国寺恵瓊を呼んで言った
「小早川様に7月伊予に進軍するよう伝えて下され、われらは淡路から阿波、土佐を攻撃いたす
伊予の経営は切り取り次第、毛利様に献上申し上げる、宇喜多は讃岐を攻めて宇喜多領とする、そして宇喜多が抑えている備中領は毛利様にお返ししましょう」
「承知仕った」
























光秀謀反の本能寺なーんちゃって⑲

2021年02月24日 17時09分17秒 | 光秀の本能寺
1583年4月 四国では本能寺の変で織田の攻撃を免れた長宗我部元親があらためて伊予から讃岐へと兵を進めた
讃岐へは元親が兵を率いて進んだ、一方の伊予攻めの大将は明智光秀であった
元親は四国では敵無しの大将であるし、光秀は言わずと知れた織田家の大将軍だったからたちまち四国は長宗我部が征服してしまった
こうなると織田家は未だ安定していないので長宗我部元親にも欲が出て来た
もしかしたら織田にも勝てるのではないかという身の程知らずの思いあがりが生まれてきたのだ
それというのも光秀という希代の策士が懐に飛び込んできたからに他ならない
一方、光秀は元親の妄想が危険な賭であることを知っている。 ここに来てみてあらためて四国の貧しさを実感した
元親は井の中の蛙だと思う、土佐兵は勇敢で忠義心溢れているが、一領具足の農、武兼任の前近代的な兵制ではとても織田の敵ではない
まずは秀吉の軍だけでも負けてしまう危うさだと思う、これが長宗我部の限界だと思う
それは越後の限界を知った直江兼続と同じ感覚であった、兼続と光秀は似たようなところがある
(せっかくだが、わしが長宗我部元親殿の元を去る日は近いようだ、わしが仕えるのは長宗我部殿ではない)と光秀は思った
四国統一を置き土産にして光秀は元親に暇乞いを申し出た
元親は残念がったけれど快く承諾してくれた
結局、光秀は自分以上に大きな者に従って力を発揮する人間だと思う
もはや自分の力を発揮する場所は東海の覇王、徳川家康の元しか無いと思った
5月光秀は伝吾や利光ら股肱の家臣数人と共に早舟で伊勢南部の九鬼氏を頼って四国を発ち去った

越中では勝家が高岡について二上山に6000で本陣を置き、島尾と雨晴に1000ずつそして庄川の西に佐久間2000と柴田前衛1000
上流には佐々の残兵部隊1000、高岡城に前田勢2000が入った
井波の山際にも伏兵として1000を配置した
上杉軍は呉羽山に直江兼続が5000本陣を置き、伏木湊と南の丘に合計3000の部隊を配置し高岡城と庄川渡河の敵に備えた
富山城2000と魚津城の河田3000を後ろ備えとして、宮崎城に後詰め500を配置して越後への連絡と海の監視をさせた
そのまま睨み合ってどちらも数日動かなかったが、しびれを切らした佐久間軍が勝家の命令を待たずに早暁浅瀬を渡って伏木の上杉軍に背後から攻めかかった
不意を突かれて上杉軍は混乱した、たちまち崩れて富山を目指して退却をした
勢いのまま佐久間勢は平野を追いかけてきたが呉羽山の直江兼続勢を見つけて2kmほど手前で追撃をやめた
数では圧倒的に直江勢が多い、その一部が出撃してくるのが見えたので佐久間盛政は引き上げを命じた
ところが行き先を塞ぐように山手から上杉軍が駆け下りてきて退路を遮った、その数、約2000ほどで鉄砲を撃ちかけてきたので佐久間兵はたちまち数騎が打ち落とされた
そこに直江の先鋒も追いついてきて佐久間勢は挟み撃ちになった
「バカ者が!」柴田勝家は甥の軽率さを嘆いたが、ただちに3000の兵を引き連れて山を駆け下りた、前田勢には高岡城から出るなと命じた
庄川を渡ろうとしたが、焦っていたため幅が広い所で深みにはまって動けない兵が続出した
それを直江隊の後続が川岸から鉄砲を撃ちかけたので、次々と柴田隊は打ち倒された
挟み撃ちに遭った佐久間隊もどんどん討ち取られて、佐久間盛政も奮戦して10数騎を撃ち殺したが鉄砲が肩に当たって落馬した
直江の武士が組み付いて満身創痍の佐久間盛政を組み敷いて首を挙げた
勝ちどきを聞いて川で苦戦していた柴田勢は慌てて退却を始めた
それを上杉軍が追いかけてまた柴田勢に打撃を与えた、前田勢と二上山に残った兵が防御線を築いて敗残兵を収容したので
上杉軍は追撃をやめて高岡城を5000ほどで包囲した、翌朝直江兼続は使者を送り前田利家に佐久間盛政の首を返して退城を促した
利家は兼継の礼をわきまえた処置に感動して城を明け渡して加賀を目指して退却を始めた
上杉方は高岡城を占領してほぼ越中全域を支配した、柴田勢は能登と加賀まで下がった
能登七尾城も上杉に寝返った、こうして佐久間が滅びた能登も上杉に属した

このようなことがあって信忠の憂鬱はますます加速した、それを一番感じたのは織田信孝であった
(信忠め、そんなことで織田家をまとめることが出来るのか)
俄に織田家簒奪の気持ちがわき上がってきた、ところが自分は徳川とのにらみ合いの最前線にいて動きがとれないもどかしさがある
(なにかいい方法はないだろうか)信孝に迷いが生じて居る

羽柴秀吉はどうしているのか?
今の織田軍団の中で動きがないのは羽柴勢だけである
秀吉も算段している。 播磨、河内、山城を手中にし 和泉、丹波は秀吉の一族が固めている
また備前の宇喜多秀家を後見してまもなく養子縁組をする話しもできあがっているのだ
それら全てを合わせるとざ200万石ほどになる、それに堺からの余録が大きい、織田宗家にはかなり目減りさせて税を上納している
もはや秀吉は信忠如きの坊ちゃんは眼中にない、いずれ「主殺し」と言われぬ方法で取り除こうと考えている
「官兵衛、丹羽様を取り込みながら、勝家を誘い出す方法を考えて見てくれ」
「承知いたしました」
 



光秀謀反の本能寺なーんちゃって⑱

2021年02月23日 19時19分33秒 | 光秀の本能寺
光秀謀反のあと丹波亀山城を託されたが、秀吉方の中川清秀が攻め入る直前に柴田勝家を頼って越前に匿われた京極高次は
岐阜(稲葉山)会議で秀吉の気遣いで許され、柴田勝家の士として越前敦賀にいた
ところが越中富山で勝家の与力、佐々成政が上杉勢に攻められて討ち死にしたため俄に柴田勢が慌ただしくなった
前田利家勢と佐久間盛政勢が氷見、高岡で防御戦を張って越後上杉勢に備えた
しかしそれぞれが2000程の兵なのに対して、上杉方の名将直江兼続は飛騨勢合わせて1万の兵を二手に分けてそれぞれの正面に陣をひいた
柴田勝家は自ら1万の兵を引き連れて応援に向かったが、手薄になった敦賀の玄蕃尾城からどさくさに紛れて高次が脱走した
気付いた城の兵は驚いて、50騎程で直ちに追走したが夕暮れ時で高次はなかなか見つからない
しかし闇の中に馬で走る数騎を微かに認めて追いつき「高次か?」と槍を構えて追いすがると、相手も槍を向けてきて戦いになった
しかし相手方は数騎、柴田勢は50騎近いのでたちまち高次らしき兵を組み敷き捕らえた、一人には重傷を与えた
「高次はいない、どこに逃げた!」と問い詰めると、それは若狭小浜後瀬山城の丹羽長秀の武士であった
この一件はたちまち丹羽長秀の耳に入り、柴田の兵が越境してきての狼藉だったので逃げ去った柴田兵を差し出せと迫った
しかし柴田勝家は越中に向かって進軍中でいないため敦賀からは明確な返事が無かった
丹羽は怒って安土の織田信忠にこの一件を知らせて、柴田兵の引き渡しを命じて欲しいと頼んだ
ところが信忠は股肱の老臣である柴田勝家を絶対的に信頼しているので逆に「長秀よ、勝家が上杉征伐に忙しいときにこのような些細なことで事を荒げるとはなにごとぞ、若狭領に高次が入ったのに捕らえぬ事こそ重大だ」
と叱った
長秀は主君の言葉故に我慢して引き下がったが内心穏やかではなかった、この一件が長秀をこのあと秀吉に近づく一因となったのだ
当の京極高次は、秀吉の奥方ねねの兄、杉原家継が守る福知山城に逃げ込んだ
高次が来ることは秀吉の使いから聞かされていたので
訳がわからないまま2~3日匿った上で命に従い姫路城に送り届けた
どうやら高次の脱走は秀吉と示し合わせてあったようだ

「それにしても京極高次とは表裏多き男よ、恥というものを知らぬのか、お市様の情けで命を助けられながら裏切るとは」
「さよう明智に与したと思えば武田元明を犠牲にして元明の妻であつた妹を我が殿に献上しながら自らは柴田様を頼る、
取り立ててもらったらまた我が陣営に逃げてきた
一体何を考えているのか? これではまた我らをも裏切るであろうよ」

秀長の腹心同士の話をたまたま聞きつけた城主の羽柴秀長が二人を諭した
「高次は我らとは比べられぬ高貴な出自じゃ、足利尊氏と共に幕府を開いた近江源氏の統領佐々木道誉様を祖としておる
お市様が嫁がれた浅井様もかっては若狭の守護京極家の家臣であった、その浅井が反乱して京極並びに京極の同族の六角から領土を奪ったのじゃ
それが為、高次の代には浅井の人質とされて小谷城で少年時代を過ごし、昔の家臣にひれ伏す生活
成人しても数百石の捨て扶持で、妹を献上してまで生き抜かなければならぬほどに落ちぶれた
自尊心高きその心の内は水呑み百姓の出のわしには理解できん、丹羽様が治めている土地は全て高次が受け継ぐ筈だつたのだ、平穏であればな
お市様に目をかけられたからと言って、高次は親しみを覚えたわけではない、お市様も仇の浅井の者にしか見えなかっただろうよ
今の高次にとって織田家中で利害関係が少ないのは兄者だけであろう。 兄者もすっかり竜子殿にまいっておられる
高次のお家再興の足がかりが我が羽柴の拡大にかかっている、柴田の元に走ったのも、今またここに来たのも兄者の指図であろう
高次はこれからも何かと役に立つであろうよ」

織田信忠は心安まらぬ日々を過ごしていた
父信長は京や安土にどっかりと腰を下ろして、各方面の戦況を聞いては都度新たな指示を出すのが日課であった
しかし信忠があとを継いでからというもの次々と事件が起きて休まるときがない
弟、信雄が徳川に走り、引き渡せと言っても言うことを聞かず逆に攻め寄せるという噂さえおこっている
尾張との国境では織田信孝勢と徳川勢が一触即発の体であるし、越中は上杉景勝の軍に攻められて佐々は戦死して富山城をとられた
柴田勝家が富山に向かってもう大戦争の様相なのに、越前と若狭の丹羽長秀とで一悶着がおきてしまった
京極高次は丹波に逃げ込んだらしいが、行方不明になっているし、明智光秀の行方も知れず、毛利に逃げ込んだ可能性が高い
安土城は御殿は出来たが、いまだ天守が完成せず不測の事態が起きれば逃げこむ先さえ危うい
700万石の領土を受け継ぎながら大半は羽柴、丹羽、柴田が握っていて信忠自身の直轄領は美濃と京の一部、近江の一部だけだ
兵の数では羽柴や柴田の4万とあまり変わらない、あとは自分に従う滝川や蒲生等の戦力が頼みなのだ
こうして改めて考えると、自分がいかに危うい立場であるかわかってぞっとするものを感じる昨今なのだ

いざというとき羽柴や丹羽や柴田は駆けつけるのか?彼らの忠誠心は自分い対してあるのか? 信雄は敵対したし信孝だってわからない
信忠は天下人の誇りだけで君臨しているが、心細さもあって時には政権を投げ出したくもなるのであった
父、信長の偉大さを思い知らされているのであった












光秀謀反の本能寺なーんちゃって⑯

2021年02月21日 18時53分21秒 | 光秀の本能寺
『徳川に叛意あり、織田領に攻め込むらしい』という情報は瞬く間に織田信忠の耳にも入った
織田宗家に緊張が走った、徳川軍団の結束力の固さはだれもが知っている
兵数は少なくとも家康の為には命を投げ打って戦う家臣ばかりである
これは信長のカリスマ性で尾張の郡代から日本国半分までに拡大した寄り合い所帯の織田家とは違う
今、織田信忠に従っている信長以来の家臣や与力大名の中で信忠のために忠義を果たしそうな者は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉ら子飼いだ
だがこの時点で信忠の判断は間違っていた
秀吉は信長から信頼され身を粉にして働いた、百姓の出など気にもせず秀吉の能力を大いに引き出してここまで引き上げてくれた信長だった
だからこそ殴られても蹴られてもついて行ったのだ、それは強さへの憧れでもあった、秀吉は信長に惚れていたのだ
だがその大恩人の子だと言うだけで、信忠にも信長同様に犬馬の労を尽くそうなどとは考えていない
秀吉にとって重要なのは自分をぎゃふんとも言わせない強さだ、それが出来ない者など誰であれ従う気などない、だから今の世で秀吉は最強と思っている

そんな秀吉が、自分に従っていると思っていることが信忠の甘さであった、たしかに武田勝頼を攻め滅ぼした時の総大将だった
だがそれは信長の威光のもとに徳川家康も滝川一益も数多の10万の味方が一気に攻め込んだから出来たことだ
今、信忠が号令を出して10万の大軍は動くのか? すでに弟の織田信雄が徳川に走った、信孝も素直に信忠に従うだろうか
信雄が居なくなったために、信孝にも信忠に代わって織田家の統領になるチャンスが巡ってきたのだ
伊勢の信雄を、信忠の命令で攻めたと信忠は思っただろうが、信孝はライバルを一人減らすために戦ったに過ぎない
信孝は織田3兄弟の仲では一番の野心家だった、いずれは信忠に代わって天下に号令したいと思っている
だが現状は尾張50万石の大名でしかない、これではどうにもならぬ、滝川か柴田の宿老を味方に引き込むのが良いと思っている
しかし柴田勝家は頑固な保守派で、織田信忠を主君と仰いでいてぶれそうにない
一方の滝川は関東から命からがら逃げて来てその威信は地に落ち、信忠から北伊勢を安堵されたが30万石にも満たない
こんなとき信孝が言葉巧みに誘えば、孤立している滝川は感激して従う気がする
そんなおりチャンスがやってきた,徳川家康が織田との開戦を決意したという情報である
信孝の尾張国と、家康の三河は隣同士、川一つ隔てて向かい合っている
過去にも今川義元と織田信長が戦った激戦場である、信孝はただちに信忠のもとに使いを走らせて滝川を与力として徳川に備える旨を話した
信忠は「国境を厳重にして備えよ、但し攻められぬ限り戦を始めてはならぬ」と念を押して許した
滝川は信孝の与力として兵2000を引き連れて長島から軍船で伊勢湾を渡って知多に至り警備した
信孝は阿久比に1000、安城に2000を送り、自らは刈谷に3000で入った
一方、家康は織田信雄の所在が岡崎城にある事を誰にとでもなく公言した
これを聞いて信孝はいきり立った、「こんどこそ信雄の息の根を止めてやる
徳川にもわしの強さを知らしめてやる」と

3月に入ってもいっこうに徳川勢が攻め込んでくる様子がない、そのうち北陸で上杉景勝軍が攻勢に出たと知らせが入った
上杉も徳川も、去年の内に気が許せない北条との間に和議が成立し、徳川家の姫と北条の嫡子、北条氏直の婚儀が成立して親戚となった
そのため甲州、上州、上野はいったん平和が訪れたのである、背後の心配がなくなった上杉が混乱する織田を攻めるのは必至だった
そして飛騨と越中魚津城から8000の上杉軍が直江兼続に引きいられて富山城に攻め込んだ
主力は常願寺川を二手に分かれて富山城を包囲した、そして城の西を開けて攻め立てたので城方は数日で城を捨てて能登の佐久間勢を目指し落ちた
ところが城の西の呉羽山には上杉方の飛騨勢が待ち構えていて、逃げて来た佐々勢を襲ったからたまらない
大将の佐々成政は神通川に遮られてあえなく討ち死にしてしまった
これを聞いた柴田勝家は、能登の佐久間盛政の軍を氷見に、加賀の前田利家の軍を高岡に配置して上杉に備えさせた
上杉は先代の神将と呼ばれた上杉謙信公が、侵略戦争を好まなかったために領土を広げることなく
戦いに明け暮れたすえに亡くなり、景勝の代で織田に滅ぼされそうになった
それを踏まえて軍師参謀の直江兼続は上杉景勝に今後は拡大戦略を進めるべきだと進言した
「攻撃こそ最大の防御なり」と
「越後春日山は雪深く半年近く動くこともママならず、それだけ関東や畿内の諸将に遅れをとります
やはり越後からは冬でも雪が無いか少ないところに拠点を持つべきで、信濃が足がかりとなりましょう
川中島~大岡~麻績~仁科の南、小岩嶽、小倉辺りまでは確実に押さえるべき、あわよくば深志をとれば上々
そうなれば真田と連携して一大拠点となりましょう」
「そこまで行けば天下も狙えるか?」
「殿、そこまででござるよ我らは、天下を狙うには人材(人)が足りませぬ,越後は広すぎて国人がまとまらず此度の新発田のように
狭い了見で他国に利用される輩が多すぎます、残念ながら越後からは天下を狙えませぬ、いずれ我らは天下取りの手伝いをすることになりましょう
それは織田ではありませぬ、目下のところ北条、徳川のいずれかが一番天下に近いかとそこでかっこたる地位を得るために
より多くの織田領をとるがよろしいかと、天下はいよいよまとまりかけておりまする、どこと手を組むかにかかっております」
「うむ 上杉には天下は取れぬか」
「いかにも」
「無念じゃのう」
「謙信公の遺志でもでもござりまする、われらは天下の副将軍として天下人を支える役割かと」
「では織田を相手に暴れるとしよう」

織田の北陸軍、柴田勝家を悩ませるもう一つの事件が、今度は若狭方面でも起こったのである











光秀謀反の本能寺なーんちゃって⑮

2021年02月20日 19時13分37秒 | 光秀の本能寺
噂の域を出なかった織田信雄の徳川領への逃避が定かになったのは1582年の師走のことであった
複数の織田の忍びから報告があった、それによると織田信雄は家康を頼って三河安城から目と鼻の先の岡崎城へと僅かな家臣と逃れたのである
信忠もうかつと言えばうかつだった、まさか信雄がこのような大それた事をするとは思わなかったからだ
信雄はどちらかと言えば穏やかな性格で闘争心は薄い方である、一方同年齢だが身分が低い側室から産まれた織田信孝は気性が激しく兄弟で一番信長に似ていた
信忠はいずれ信雄を許して、30万石ほどでしかるべき土地を与えるつもりで居たのだが小心の信雄は三家老を誅されて自分の身の不安を感じていた
しかも信忠は信雄と犬猿の仲であった信孝の尾張に信雄を住まわせて監視させたから尚更身の危険を感じたのであった

信雄は信長の生前、何度も徳川家康とは会い、話しをしたこともある
戦場で共に戦ったこともある、父信長の陰で目立たぬようにしていた家康であったが信雄は一目置いていた
(頼るなら家康だ)そう思った、しかも目の前に家康の領土があるのだから絶好のチャンスであった

あきらかになった以上、織田宗家(織田信忠家を今後、そう呼称する)は見過ごすわけに行かなくなった
だが徳川家康はいまも同盟者であると疑いもしていないから、ことは簡単に解決すると思っていたのだ
ところが織田宗家の使者が会談場所の岡崎を訪ねると、半月前にアポを取ったにも関わらず家康は駿府で北条家の重臣と会談で留守という
代理として家老の石川数正が応対したので、信雄を引き渡すよう求めたところ「殿の返事でござる、唐の国のことわざに『窮鳥飛び込めば猫もこれを救う』と申す、家康も信雄殿より頼られた以上はこれを護るなりと申された
従って信雄殿は当家で責任を持ってお預かりいたすからご安心召されよ」
織田宗家の使者は驚いて
「なんという物の言いぐさでござるか、これは織田家中の問題であって徳川殿には関係ござらん、ただちにお引き渡し下され!」
「いや!三河武士は殿の命とあらば直ちに腹をかっさばく覚悟でござる、殿申されたことを家臣が覆すなどありえません」
「なんじゃと!徳川殿の家臣と申すが、徳川は織田宗家の家臣である無礼であろう、直ちに命を受け容れよ」
使者は言ってはならぬ事を言ってしまったことに気付かなかった、石川数正の表情が変わった
「無礼とはどの口が申しておるか! いつから我が殿が織田の家臣となったか!無礼はそちらでござろう、早々に立ち去れ、さもなくば・・・」
脇差しに手をかけて見せた
「おのれ!織田宗家に手向かうと申すのだな、このこと安土に戻って上様に申し上げる、首を洗って待たれよ!」
「さればつぎにお会いするのは戦場でござるな、あいわかった、そちらこそ首を洗ってまたっしゃい」
織田宗家の使者たちは顔色を変えて馬を飛ばして戻った
使者が帰ると襖が開いて家康が入ってきた
「数正、敵は見事に腹を立てて帰ったの、これで面白い事になったぞ、われらもいよいよ織田との腐れ縁を切ることが出来る
甲州、信濃の大半を得て上杉、北条とも和睦したからには我らがこれから得る土地は織田の領土じゃ、心してかかれ
準備を整えて3月早々には尾張、美濃に攻め込むぞ、信忠など信長様に比べれば凡将じゃ、先陣の後に織田信雄の旗を立てよ大義名分がつくであろう
我らの出陣は織田家内紛解決のための手伝いとすれば良い」
今や信濃の木曽郡の木曽氏、伊那の毛利氏も徳川に臣従して、高遠から上田平、佐久までも徳川が押さえていた
かっての武田氏の領土をほぼ手中に収めた上にかっての今川義元の駿河、遠江、三河100万石も家康のものだ
ゆうに200万石にもなって関東の王者北条家と肩を並べるほどになっていた、しかも家臣団は結束固い戦国最強の三河武士だ
数が多いだけの織田宗家などに負ける気などしない、ただ畿内から西に展開している羽柴秀吉が気になる
いまや織田家臣でもっとも怖い存在である、それに野心家の黒田官兵衛が気味悪い、さすがの家康も官兵衛の腹が読めない
だが家康の感では素直に織田宗家に従う様な羽柴秀吉ではない気がする,(腹に一物)ある、織田宗家がどう転ぶかは秀吉にかかっている気がする
しかし羽柴勢が尾張にまで出てくることはあるまい、毛利との戦は長引きそうだ兵の半分は毛利にあてるしかあるまい
そう考えると少し安心出来る(織田攻めはうまくいくであろうよ)

その秀吉はすでに信雄が家康の元に逃げたことを織田宗家より先に知っていた
そもそも、それを演出したのが秀吉と官兵衛のコンビだったのだから
「信雄をうまく載ったものよ、これほどまでにうまくいくとは予想以上の出来じゃぞ官兵衛」
「はっはは これからが肝心でござるぞ殿、おそらく徳川勢は尾張と信濃の二方向からゆっくりと時をかけて信忠の実力を測るのでは
我らが毛利に対峙する間は信忠も我らに応援を頼めませぬ、勝家の北陸勢も上杉に手を焼いていてこられませぬ
若狭衆、越前府中、近江、尾張、伊勢、美濃の兵でやるでしょう
それでも5~6万は動員できましょうな、徳川はせいぜい3万というところでしょうか、だが親戚となった北条の援軍もあるやも
われらは織田と徳川の痛み分けをゆっくり見させてもらいましょう、いずれ漁夫の利が転がり込むやも知れませぬな







光秀謀反の本能寺なーんちゃって⑭

2021年02月19日 19時30分51秒 | 光秀の本能寺
思ったより長くなってしまって戸惑っていますが・・

事件が起きたのは稲葉山(岐阜城)会議の一ヶ月後であった
なんと滝川一益が見るも無惨な疲れ果てた風体で尾張に表れたのが15日前のこと
尾張の太守となった織田信孝は一益を介抱して、ようやく人心地つかせたのであった
聞けば北条軍の追っ手からようやく逃れ、徳川兵や味方のはずの木曽の兵にまで遮られ、なんとか機転を利かせて尾張にたどり着いたという
逃避行の間に思ったのは信長が死んだという情報は全国に知れ渡り、織田家の威勢は衰えたと感じたという
滝川は織田家の四家老の一人であるが、徳川にも木曽にもまったく威信が通用しなかったからである
尾張で一泊した翌日、信孝の兵に守られて滝川は岐阜の信忠に帰還のあいさつに向かった
信忠は滝川の無事を喜んだ、そして直ちに織田信雄に使いを走らせた、それは信雄を驚かせるものであった
「滝川一益が無事に戻って来たのだ、そなたに加増した一益の旧領をそっくり一益に返してもらいたい
但し信孝の旧領中伊勢は、そのまま信雄の領地として与える」との内容だった
これを聞いて信雄は激怒して信忠に抗議した、しかも国境に兵を配置して滝川勢を一歩たりとも入れぬと言った
信忠は逆に激怒して「天下人のわしの命令に逆らい兵を出すとは、これは反乱だ,織田家の威信をかけて攻め潰す!」
戦国の世、自分を脅かす最たる者は兄弟だという、骨肉の争いはどこでも起きる、上杉謙信でさえ兄と戦った(兄を隠居させたともいう)
信長も弟と戦って殺している
そして滝川一益に兵5000を与え、あとは旧臣どもを集めて加勢させよ!伊勢はそちの切り取り次第に任せる!」
伊賀口からは蒲生氏郷と島左近が5000の兵で伊勢に向かって進んだ
岐阜からも稲葉が兵を3000で滝川に与力して攻め込んだ、また尾張の織田信孝にも軍を出すよう命じた
信雄は桑名城を捨てて、神戸城まで後退した、そして伊賀道の伊勢亀山城と共に防衛線を築いた
信孝は亀山まで兵を進めて亀山城の信雄軍を攻めたが堅固な城は落ちなかった
しかし信忠の命を受けた大和の筒井勢が堀秀政軍と共に
伊勢の安濃津城を狙って攻め寄せてきた、驚いた城主織田信包は信忠軍に寝返った信雄軍はこれによって分断された、
亀山城主の関氏も降伏し、神戸城も降伏した
3万の軍勢に攻められてついに織田信雄も観念して降伏した、織田信忠にとって信雄は同腹の弟であるから許した
しかし信雄の3家老は責任をとって切腹させられた、そして伊勢の領地全てを取り上げ、三河安城で5万石を与えて監視を厳しくした
信孝には旧領の中伊勢を褒美として加増した、滝川一益には元の北伊勢を与えた、南伊勢15万石で堀秀政に与えた、堀の坂本は信忠が直轄とした
わずか数日で信雄の反乱を鎮めた信忠は、大いに信長の後継者としての名声を高めた
気を良くした信忠は安土城の本丸御殿の落成がなる10月に大々的に信長の葬儀を執り行うことにした
そして忠臣である柴田勝家を葬儀委員長に、丹羽長秀を副委員長に指名して準備するよう命じた
ところが9月になると越後の上杉の動きが激しくなってきた、魚津城、松倉城の上杉軍が増えてきて
佐々成政の守る富山城周辺の田を荒らすことも度々となり、佐々も兵を出して応戦するが、出ると引きで油断がならない
また飛騨方面からも動きがあったので警戒を厳重にせざるを得なくなった、こちらには能登の佐久間が警戒した
こんなことで柴田勝家は越前に釘付けとなったので、葬儀委員長どころではなくなった
信忠は丹羽長秀に委員長を命じたが、長秀は辞退して真っ先に光秀と戦った羽柴秀吉こそが相応しいと推挙した
信忠は丹羽がそう言うので仕方なく秀吉を指名した、秀吉は中国戦線を宇喜多と黒田官兵衛にまかせて上洛した
勿論、信長の4男である養子の羽柴秀勝、姫路城主となった弟の羽柴秀長も一緒に上洛した
この頃、どこからか明智光秀が徳川家康に匿われているとの噂が流れるようになった
しかも織田信雄も密かに家康と接触しているとの噂も同時に流れ出していた
そんな噂は信雄の耳にも入った
信雄は勿論そのような動きはしていない、だが信忠が真に受ければ命が危ない信雄は慌てた、そしてなんと闇に紛れて三河の徳川領に逃げ込んだのだ
驚いたのは報告を受けた徳川家康である、しかし家康は考えた
(今のわしは三河、駿河、遠江、甲斐、信濃の一部を領している
その総石高は150万石近い、しかも背後の北条氏は250万石の大身で同盟者である、わしの総動員数は4万を超える
万一織田との戦争になっても三河以来の家臣等があれば互角に戦う自信はある、もはや織田の風下に立つ必要はない
今川義元様が信長に桶狭間で討たれたあと、今川の人質だったわしの運が開けて独立を果たした
今また信長公が本能寺で明智に討たれて、わしは天下への道が開けたかも知れぬ、明智こそわが救世主かもしれぬ
あのまま健在で越後の上杉、四国の長宗我部が相次いで滅び、毛利が降伏すればわしとていつ光秀のような立場にされるやも知れなかった
ははは、噂の通り光秀がわしを頼ってきたなら家臣として取り立てても良いかもしれぬ、わしには好意的な男であった)
そして家康は病を理由に信長の葬儀には重臣で軍団長の石川数正と命知らずの大将本多忠勝を代理で参列させた
不穏な空気の中だったが、本多忠勝の異様な殺気に誰も近づく者は居なかったという
二人は無事に役目を果たして浜松に戻った、だが家康が来なかったことで一気に噂は信じられ、織田信忠は家康を警戒するようになった
そして噂を流したのは勿論、羽柴秀吉の参謀黒田官兵衛である、家康と同じく官兵衛も秀吉に天下取りを吹き込んでいたのである









光秀謀反の本能寺 なーんちゃって⑬

2021年02月18日 19時40分36秒 | 光秀の本能寺
秀吉が播磨の仕置きを終えて京に凱旋したのは、姫路の戦いから1週間後のことであった
光秀は逃がしてしまったが、もはや明智家は滅んだに等しく死のうと生きようとさしたる問題ではなかった
道すがら秀吉は考えた(いったい光秀の本能寺での信長殺しは何だったのか?)
そしてこれからの世の移りと、自分の立場、信長様がいない織田家の行く末
だがこの開放感は何なのだろうか、考えて見ると自分には今恐ろしい者が無いことに気付いた
この世で唯一恐ろしかった人間は織田信長だった、信長の機嫌一つで命を取られる怖さはいつもあった
荒木村重、松永久秀はその圧力に耐えられず反旗を翻し滅びた、光秀もしかりそして三度目の正直で光秀は信長を討った
信長もうかつと言えばうかつだった、光秀を甘く見ていた、まさか裏切るなどとはゆめゆめ思いもしなかった
光秀が本当に殺したかったのは信長よりも森蘭丸とその弟たちだったのでは?とも思った、信長様は巻き添えになったのでは?
そして秀吉はそれに乗じて光秀を討つ決断をした、今思い返せば秀吉が光秀を憎む理由などないのだ
いつも上から目線で自分を見下ろしていた光秀だが、考えて見ればそれは自分の引け目で、光秀に辱めの言を言われたことはなかった
むしろ柴田勝家の方が秀吉を「猿!」だとか「百姓ずれが」などと露骨に人前で言ったものだ
光秀の清廉潔白で異常なほどに研ぎ澄まされた神経、そして品の良い所作振る舞い、秀吉が及ぶところでは無いことは認める
そのように考えれば考えるほど光秀に友情を覚えた、逆に柴田勝家こそこのチャンスに討ち果たすべきと言う思いが頭を持ち上げた
勝家こそ生かしておけば我が身の災いとなる男だ、許すことはできぬ
(明智光秀 いつか使えるかも知れぬ)

その5日後、岐阜城で織田信忠、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉の四人が集まって今後の織田家の組織と領地の再編成の会議を開いた
本来ここに来るべき滝川一益の行方は未だ知れず、死んだものとして処理された
議題その1は、これからの戦略である
目下の敵は西の毛利、四国の長宗我部、越後の上杉に絞られた
その先の九州島津、関東の北条の今後の動向には注意をすることとした
そして,それぞれの敵に対する方面軍を確認した、ほぼ今まで通りで上杉に対しては越前北之庄城の柴田勝家
与力として越中に佐々成政、能登に佐久間盛政 加賀に前田利家  近江長浜に柴田勝豊 

越後上杉家は、本能寺の変がなければ武田に次いで今頃は滅び去っていたはずである
しかし今は川中島口の森長可、三国口の滝川一益軍が壊滅して徳川、北条、上杉、真田の草刈り場と化している
ここに再び軍勢を送る必要があるので信濃方面軍の再編成が急務となった
織田信忠は信長生存中に家督を継いだので、誰もが織田家の総帥である事は認めている
その織田信忠が自ら信濃方面軍の総指揮官となり、直属与力として蒲生氏郷、美濃衆 氏家、稲葉等
織田信孝を軍団長に与力は信州木曽の木曽氏、伊那谷から諏訪を賜った森長可、そして駿、遠、三の太守徳川家康の協力を得る
本能寺の変の後始末の内に上杉勢は信州仁科郡から深志城、諏訪から善光寺平まで取り返した
真田も上杉と同盟して上田、真田の庄まで回復した

中国方面は毛利に向けて羽柴秀吉が変わらず担当した、毛利と秀吉がすでによしみを通じたことを信忠も柴田も知らない
与力は高山右近、亀山城を拝領した池田恒興の二男で中川清秀の娘婿池田輝政
宮部継潤、父の戦死で摂津の大部分を拝領した池田元助ら
最前線は姫路の羽柴秀長と備前の宇喜多、しかし毛利との戦闘は今後あるまい

領地の変更も話し合った
光秀の旧領の配分は丹羽長秀に福知山を若狭に加えて加増
亀山城は池田輝政に、近江坂本は堀秀政に

そして信長が死に安土城天守は焼けたが復興を急ぎ、近江の武将を率いて織田信忠が政務を執り全家臣団に号令を発する
旧領の尾張美濃は、美濃は信忠の直轄として残し稲葉と氏家が城代として常駐する、また織田長益に大垣城を与えた
尾張一国50万石を織田信孝に与えた、伊勢半国だった織田信雄には滝川の旧領を合わせて伊勢一国を与えた
日野の蒲生氏郷には安土留守居の地位を与え、甲賀、伊賀、大津など南近江を加増した
奈良脱出の案内をした功労者、島左近を筒井家から独立させて膳所で10万石を与えて信忠の家老とした

そして秀吉の領地が話し合われた
丹羽長秀が「羽柴殿の此度の働きは見事でした、我らは途方に暮れておりましたところいち早く戻って光秀追討に動かれた、天晴れでござる」
「だが逃がしてしまったではないか、功罪半々じゃ」勝家があざ笑うように言った
「いずれにせよ功労一等であることはたしかじゃ」
「五郎左(丹羽長秀)おぬし秀吉に利用されたのじゃ、お人好しもたいがいにさっしゃれ」勝家はあくまでも秀吉の功績を認めない態度だ
秀吉は意に介せず「それがしの近江の領地は柴田様に差し上げました、何もいただけなければ功を挙げて損をする
それでは家臣も納得いたしませぬでな、せめて河内一国は近江の代わりにいただきたい」
「河内一国だと! わしは近江に15万石増えただけじゃ、せいぜい河内の一郡二郡で我慢しやっさい!、光秀を逃がして功労とは片腹痛いわ」
「ほほー そうでござるか それでは逃げた敵を匿うのはいかがなものかな?」
「何のことじゃ!」
「京極の小僧は我が長浜を襲い、あろう事か信長様の安土城も攻めたのでござる
その小僧を柴田様は匿うておられましょう」
「うん?....それは そのとおりじゃが」嘘をつけないのが柴田勝家の欠点であり、男らしさでもある
「まことか?勝家?」信忠が驚いて聞いた
「まことでございます、実はお市様や茶々様から高次を助けて欲しいと以前より頼まれておりました」
「なんと! ゆゆしきことじゃ」信忠が困った、勝家だけならなんとか軽い処罰で済まそうと考えたが、叔母の市や従妹たちが絡むと面倒だ
きまずい空気が漂った時、秀吉が口を開いた
「上様(信忠)高次は罪人ではありますが昔、浅井様の小谷城でお市様が可愛がり、茶々様と兄妹のように過ごしたとか
そもそも小身の身で光秀の配下とされたのが身の不幸でありました、小者ゆえ柴田様の元で厳重に捕らえておけば改心するでしょう」
「なるほど、そうであったか、それで良い、勝家!高次には灸をすえて改心させて使うがよい、世が世であれば名家の若君じゃ」
「ははー」
「上様、事のついでにもう一言、お許しいただけますか?」いつものとぼけた表情に戻った秀吉は
「巷の噂でございますが、以前より柴田様がお市様に想いを寄せておられたとか
此度のことも、お市様のためとか
余計な事ですが、柴田様の御本意を確かめてはいかが?」
なぜか柴田勝家、言われるがままで、いつものような「猿め!出過ぎるな!」とは言わない
「勝家まことか?」
「いや! その あの」百戦錬磨の勝家がしどろもどろになった
「まことであるのだな、父上も叔母の再縁の先を気遣われていて勝家の名も出たような気がする、叔母上に問うて異存なくばどうじゃ?」
勝家は平伏して「もったいない」
 
これか゛功を奏したのか勝家はあっさり前言を翻して秀吉の河内一国を認め、さらに信忠の弟で秀吉の養子となっている羽柴秀勝に和泉の国を認めた
秀吉は商人の町、堺の権益も手に入れた
そして柴田勝家は市を手に入れた
「勝家のじじいめ、信忠様に問われて年がいもなく顔を真っ赤にしておった、どちらが猿かわからぬわ、狂い咲きじゃ」