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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

個性派俳優 田中邦衛さん 北の国から考

2021年04月04日 17時38分38秒 | 映画/ドラマ/アニメ
田中邦衛さんが亡くなった..と先日書いた
田中さんと言えば最初に知ったのは加山雄三さんの若大将シリーズ
1960年代のシリーズもので若かりし頃の加山雄三さんは胸毛が生えてかっこいい江戸っこスポーツマン大学生
スキー、水泳、陸上、毎回出れば優勝、マドンナ役の星由里子さんの澄ちゃんとラブラブのラストシーンでめでたしめでたし
甘い歌声で澄ちゃんをとろけさせる「君といつまでも」はその中の最高傑作
ほとんどシリーズは見ましたね、ちょっと前アメリカでも同じパターンのプレスリー映画があった、あの影響でできた映画かな?

で! 澄ちゃんに横恋慕して邪魔をするのが田中邦衛さんの青大将
大会社の御曹司の道楽息子、スポーツカーで澄ちゃんを誘惑して、ありもしない嘘で若大将田沼雄一から離れさせようとする
田中邦衛さんのイメージはこれしかなかった

でもなにかのときに連続テレビドラマで「北の国から」を最終回まで見た
純も蛍も小学生で最終回になる
83、84と続きのシーズン物で何回か続編が作られ、87初恋では少し成長がみられる
その都度田中さんの黒板五郎は老いていき、純と蛍は結婚話の年まで成長する

だが連続ドラマと、シーズン特別編とは決定的な違いがある
純の子供時代の連続ドラマ、とことん落ち込む暗い暗いドラマで、北海道の山奥の麓郷の人々の鬼気迫った生活を描く
この時代そのものが暗いわけでなく、東京はこの頃は高度成長で花の都になっていくし、子供たちは受験地獄にはまっている
母の葬式で東京へ行った純と、純の東京時代の小学校担任の会話が麓郷と東京の違いを語る
北海道で毎晩8時に寝ると言った純に先生は「おまえずいぶん早寝なんだな、勉強はしてるのか? こっちではみんな塾に通って
夜中の12時まで勉強しているんだぞ」
電気がない純の家なんか先生の頭の中にはない、純はかっては好きだったこの先生を嫌いになる

麓郷の人々は貧しい、それよりもなお黒板五郎の生活は苦しくて苦しくて仕方ない、葬儀に駆け付けた五郎の靴下には大きな穴が空いていた
東京で人並みの暮らしをしていた五郎は妻(石田あゆみ)とも普通に生活していたと思った
だが妻には不倫相手がいた、それを五郎と蛍は目撃する、蛍はその日から心を閉ざす娘になった。 母を許さず父に同情した娘
何も知らない純は口下手で生きるに不器用な父より、優しくて、洗練された都会的な母が好きだ
だが五郎は二人の子を一方的に故郷の北海道麓郷へ連れて行く
そこは原野の森の中の廃屋、それを五郎は故郷の親戚や友達に助けてもらって何とか住めるだけの家に修繕する
電気がない、だからテレビがない、水道がないから遠い川まで水を毎日汲みに行く
それは子供たちの仕事だ、とうぜん純は不平不満を言う、ちょっとこまっしゃくれた都会の子なのだ
だが蛍は一言も不平を言わず無言で父の手伝いをする
離婚が決まる、純の母の妹(叔母=竹下景子)が東京から麓郷にやってきて同居を始める、実は心の傷を癒すために来たのだった
叔母が東京に戻るとき父に反発した純は母と暮らすと言って麓郷を去る
東京で母の不倫相手(伊丹十三)と会うと、これが父と正反対の男、遠慮なくずけずけとものをいうし、金離れもいいし男らしい
純は五郎より、この男にひかれてしまう、だが麓郷でテレビもない生活をしていた純は以前の同級生の話題に取り残されて孤独になる
そしてまた麓郷に帰る
北海道に行った一年の間におこる様々な事件、その大部分が貧しさと自然環境の厳しさが原因でおこるのだ

だがこんな生活の中で五郎の努力と労働で川から管で水を引いて天然水の水道がついた時、手作りの風力発電で電気がついた時
純と蛍の喜びは、東京の生活では思いもしなかった心からの喜びだった
いかに都会の生活が当たり前で感動を伴わないものなのか、なにもかもお金で買える生活と何もないところから労働で生み出す喜びの比較

私が中学生の時、父に○○を買ってくれと言ったことがある
すると父は「お前が小遣いを半分貯めたら父ちゃんも半分出してやるから、それから買え」
すぐに買ってくれない父、でも私なりに理解した、それから小遣いとお年玉をためて約束どうり父も出してくれて買うことができた
本体は数万円、一度クリアすれば飽きてしまう数千円もするゲームソフトを次々と買い与える現代の親、子供にとってどっちが幸せなのだろうか

麓郷ほどではないが昭和30年頃の我が家の生活もあまり変わらない
家の中には時代故テレビは当然ない、家電と言えば父の手作りのラジオと蓄音機だけ
電灯はあったが、少し前まで使っていたランプがあった、水道などもなく、外に近所共同のポンプ井戸があった
風呂は近くの銭湯へ行く、家は平屋、自在鉤の囲炉裏を囲む板の間(居間)と、6畳ほどの畳の部屋(寝間)だけ
貧しかった(当時はそんな風に思っていない、当たり前の生活)
でも小学校1年の時、町の中心の商店街の大店の息子と友達になって遊びに行ったとき、我が家のレベルを知った
あれから生活と収入と商売規模が日本の経済成長と共に上昇していく
でも今思えば一番人間らしい生活を楽しんでいたのは東京オリンピックがやってきた昭和39年前後中学生の頃かな
あの頃のレベルで止まっていれば良かったなと今さらながら思う

寝覚めの床