先陣を承った 長尾越前守政景は、 越前守房景の子で、幼名は五郎と言った 去る天文六年、 景虎が 兄 晴景と戦った時、 越前守父子は晴景に味方したが、晴景の暗愚な性質を疎み、 米山の麓から軍を引いて上田に帰り、 立てこもっていたが景虎は晴景を討って長尾の家督を継いだ
為景と政景は景虎と和睦して、景虎の姉を娶り、 親戚として最も深い縁者となった。
政景は大望を持つ勇者であったから、 景虎の 下になるような性質でなかったので景虎は心底、政景を心良く思わなかったが、 今日を幸いに政景を見殺しにしようと謀ったのである
政景を殿軍として誠に 戦には不利な場所に置いて、 武田の大軍を政景のただ一軍に任せて全軍を率いて 地蔵峠から 須坂まで手軽く引き下がった。
武田勢は 越後勢の引くのを見て、 小山田備中、飫冨兵部少輔が急ぎ追って 越後勢を攻め崩せと、 ドッと追いかければ、 他の武田の諸将も負けじと 越後勢を追いかける
長尾政景は「景虎めに、はめられたと大いに怒り、それならば 景虎めに儂の 戦ぶりを見せてやろうぞ」 と言って まなこを荒げ 歯を食いしばり三千余人 を 一手に立てて 地蔵峠を 超えるかと見えたが、なんと 大返しにどっと峠を下り 武田の先鋒に鉄砲をつるべうちにして、 迫り来る武田勢を 次々と打ち倒した そしてドッと わめいて 打ちかかる
その勇威は破竹のごとく、勇んで 進み 武田の先陣 小山田、飫冨の軍勢を大いに 切り裂けば 、飫冨、小山田の兵は麻の乱れるごとく 乱れ 三方向に分かれて 崩れ去る
小山田備中、大いに怒り 逃げる味方を引き連れて 自ら真っ先に 長尾勢の中へ 打ち込んで、当たるを幸いに 前後に突き伏せて 左右になぎ倒し 猛威を振るって戦えば 長尾勢の中にも、 藤林 富田 古氷 今井田 吉田 戸倉 をはじめ 命を落とすもの十八人、 手負いは十四人、 高松内膳正これを見て槍をしごいて備中めがけて突き進み、 ただ一突きに突きかかるを、 備中 外して討ち止め、上段下段に戦えば内膳の槍の穂先折れて、 飛散する
内膳はすかさず槍を捨てると大太刀を抜くても見せず、 備中の 左の腕を撃ち落とし、 憐れむべし 武田家にて名を成したる備中守であるが 馬から 真っ逆さまに落ちて 死したり
飫冨兵部も薄手を負い崩れたち 退く これを見て小山田左兵衛、 栗原左衛門、 真田弾正忠、 芦田氏が代わって、 どっとかかるを 長尾政景ことともせず、 わめき 叫んで猛虎が羊の群れを追うように右に左に討って懸かれば、 武田勢 瞬く間に百七十騎あまり討ち取られる。
ついには 武田勢は長尾政景の一手に打ち乱れ、 武田方の一騎当千の武者と呼ばれた者たちも 次々と 討たれて その数 知らず
中でも志村金助は 度々戦功をあげた 無双の勇士であるが、 長尾の荒武者 戸田 源太兵衛 と火が出るほどに戦って討ち死にした
小山田 栗原は 大いに怒り 味方の崩れるのも 目にかけず馬回り16騎を率いて 踏みとどまり 追ってきた 敵を 突き倒し、 これによって命を落とした越後の勇士は34人、 中でも越後勢の伊地知大隅守と名乗って、 小山田佐兵衛尉に突いて懸かり、 互いに 激しい打ち合いを続け二十四合も打ちあったが、大隅守の 槍先が少し乱れて 小山田は その隙をついて 大隅の 股上 めがけ ただひと槍に グサッと突く、 大隅守もこれが最後と思うと 力を極めて 手負いながらも左兵衛の左の肩を槍で突きながら 仰向けに倒れて死す
佐兵衛も肩を槍で突かれて たまらず 馬から落ちる 小山田の 家来たちが 急いで集まり 敵を払い 主を肩にかけて 引き退く。
孤軍奮闘となった 長尾政景の 軍勢の強きことは、 攻めくる武田の先陣諸軍を 一歩も 近づけず 次々と 打ち負かせば 、武田軍の討ち死に深手その数 知らず 四方八方へと 敗退する。
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