随分前から理屈屋さんの間で話題になったこと
新潟県には上越新幹線が走っていて、それは新潟県上越市を通って居なくて
東京から越後湯沢を通り、長岡市を通り、終点は新潟市、それらの町は新潟県では
中越地方と下越地方であり、上越地方とは反対の方角なのだ
こんなバカな話があるかと上越地方は憤慨したが、上越線の上は「上野の国」すなわち
群馬県で、越は勿論「越後国」新潟県なのだ、だから群馬、新潟を通る「上越線」となり
新潟県を三分割した上越地方とは何ら関係ない。
なんと言っても、開業の頃は新潟県の田中角栄首相、群馬県の福田赳夫、中曽根康弘
という巨頭が日本を支配していた時代だった。
さて全く関係ないけれど長野県を走っている「上信道」高速道路だ
これは調べてないから推測になるが起点と終点がよくわからない、北陸道との接点は
上越ジャンクション、関越道との接点は冨岡ジャンクション
結局ジャンクションが基点になるのだろうか?
まあ、そんな理屈はどうでもいい、でも上信道の上と信・・・信は信州、上はやはり上野
が正解なのかも
随分長くなったけど、本当はその上信道のさかきPからの景色について書きたかった
さかきPは上田ICの近くにある。 以前は地味なPだったが近年コンビニが開店して
急に人の数が多くなった
ここはちょっとした高台にあるので眺めがとてもいい、眼下には千曲川が蛇行して流れ
坂城の町並み、戸倉上山田温泉へと続いている
ここから見える山や地域を記した案内板を見て驚くのは、見える範囲だけで5~6の
山城があることだ。
戦国時代には、これほど山城が密集していたのかと驚くばかりだ
このあたりは村上義清の縄張りで、そこから近い北には真田一族の縄張りが広がっている
このあたりの主導権争いを両者はしていたらしいが、真田が負けて上州へ逃げ延びた
その後、甲州の武田晴信(信玄)が力をつけて信州を侵略侵略してきた
現在の中央線に沿って信玄の棒道(当時の騎馬用の軍事高速道路)を造って北上し
塩尻峠で諏訪氏らの中信連合軍を破って、諏訪を占領、更に北上して松本平の
信濃守護小笠原氏を駆逐した
そして八ヶ岳の西から北上して佐久を占領、更に上ってついに信濃最強の村上義清と
対峙するに至った
勇猛果敢な村上勢は二度戦って二度、武田晴信を追い払った、最初の上田原の戦では
晴信の参謀板垣信方など有力武将が討ち死にして武田勢は大敗して逃げ帰り
二度目は村上方の砥石城攻めが失敗して、再び武田勢は這々の体で逃げ帰ったのだった
村上義清の居城葛尾城がさかきパーキングの右手に見える、大きな長い尾根が千曲川に
下りて行く、その尾根のピークが葛尾城なのだ
対岸にも三つほど山城があると案内板に書いてある、それらがどの側の城なのかは知らない
左手にも城が案内してある
武田晴信が大敗した砥石城は葛尾城の北にあり、真田の本拠地と川を挟んでにらみ合っている
位置関係だ、もともと真田方の居城だったが当時は村上は武田の先代、信虎と同盟していて
敵の真田(海野一族)を破ってこの城を占拠したのだった
その後、武田晴信は父親の信虎を駿府の今川家に追い払って家督を奪い取り、村上等との
同盟を破棄して信州へ攻め上ったのだった
しかし二度も大敗して意気消沈、「村上強し」がトラウマとなった
ところが武田晴信が大軍で押し寄せても落とせなかった砥石城はいとも簡単に落城してしまった
それは今や武田家の家臣となった真田氏が、かっての居城だった砥石城を調略を用いて
占領してしまったのだ
真田氏が武田のバックアップで追われた故郷を取り戻した瞬間だった、これで武田の勢力は
盛り返して攻勢に出て、村上義清を圧迫、ついに義清は葛尾城も放棄して、越後の長尾景虎
(上杉謙信)を頼って落ち延びていった
以後、善光寺平まで勢力を伸ばした武田信玄は越後の龍、上杉謙信と長い戦いに引き釣り
込まれていくのである(川中島5度の合戦)