古句に「様々のこと思ひ出す桜かな 芭蕉」桜が咲き出すと、口をついて出る一句である。十四年前、母は癌で亡くなった。余命三か月の母を見舞いに、息子を連れて花冷えの東京の実家を訪ねた。帰り際、立って歩けない母は、私を見送る為、必死の形相で三和土まで這って来た。玄関の外で、雨の中四つん這いになって私を見詰めた。母も私も今生の別れを実感した。冷たい雨の中を、涙を拭きつつ駅に向かった。その後、私は別れの衝撃が引き金となり、うつ病で二年間苦しんだ。今でも、桜の頃に甦る母の姿である。
父と母を看取った姉も、四年前心臓病で急死した。花のふぶく日に、父母の眠る墓に姉の納骨を終えた。
「年々歳々花相似たり。歳々年々人同じからず」劉廷芝の詩の一節である。普遍的な人の世の有様であろうか。去る桜時、お客様の老婦人とカウンター越しに、故里のこと、父母のことなどに話が及んだ。やがて老婦人は、遠き眼差で「これから何回桜を見られるかしら」と言った。そして、しみじみと「来年お花見が出来たら幸ね」と静かな笑みを浮かべて言った。ガラス窓の青空に、吹かれ流れる花びらを、老婦人も私も無言で見続けた。
引き算の生き方願ひ去年今年
手術跡なでてしみじみ初湯かな
春はあけぼの幸せ色の卵焼き
春光や孔雀おごりの羽ひらく
鍵っ子の二階より吹くしゃぼん玉
はんなりと暮れてゆくなりさくら山
おぼろ夜やふはりと鍋の卵綴じ
連峰を神と仰ぎて田水はる
耳順の日無垢の眼となる春の虹
薫風や庭師は庭に昼餉とる
何するもまず腕まくり梅雨晴れ間
直といふものの涼しき杉桧
白糸の滝百弦の音幽か
何話すでもなく夫婦夕涼み
天地の気息ひとつに桐一葉
村を出る川がひとすじ秋の声
菜箸の焦げて不揃ひ茄子を焼く
峡水の剣びかりに鵙の晴れ
清冽な山の日とどく白障子
つっぱりの力を抜かれ干大根
足るを知る生活かそけく石蕗の花
生ざまは顔をつくりぬ木の葉髪
一筋の瀬の音を抱き山眠る
無垢の木に墨糸打ちぬ寒日和
ぬきん出し杉のこゑきく深雪晴れ
(岩戸句会第五句集「何」より栢森貞次)
コウホネ(河骨)